第六章 神様の悪戯③
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宗看の先代の名人である六世名人大橋宗与は、名人に襲位した時既に七十六歳の高齢で、周囲からは、若い宗看が充分に成長するまでの中継ぎ的存在と目されていた。
五世名人であり、三代宗看の父でもあった伊藤宗印との戦績は、平手で宗与の九戦全敗であり、その実力も格段に優れていたというほどではなかったようである。
そんな自身の不遇を嘆いてかどうかは定かではないが、嫡男の宗民を溺愛し、実力が伴わないにもかかわらず、次期名人とすべく将棋家元の地位を濫用し、宗民を宗看よりも早く八段へと昇段させたとされている。
この時代、八段は準名人という扱いであり、次期名人候補として宗民は宗看を一歩先んじたことになる。
併し宗看は、名人への強い思いを胸の内に秘め、悔しさや嫉妬などはおくびにも表さず、超然として将棋に打ち込むばかりであった。
だが問題は昇段の先後だけでは終わらなかった。
将棋家一門内では、宗看を次期名人に推す声が根強く、嫡男宗民の不利を悟った宗与は死の間際に、「次期名人は宗看と宗民との争い将棋により決すべし」との遺言を残したのである。
将棋の実力で言えば宗看に分があるのは明らかだが、一発勝負ではどんな研究を当てて来るかは分からず、絶対に勝てるという保証はない。
宗与はそれを見込んで争い将棋を望んだのである。
そして事態は大橋本家・大橋分家・伊藤家の三家間で紛糾し、とうとう将棋家を所管する寺社奉行へ訴え出ることになった。
時の寺社奉行黒田豊前守直邦の裁定により、宗与の遺言は無効とされ、無事宗看の名人襲位が内定したのであるが、この時も宗看自身は騒動からは一歩距離を置き、
「どんな形であれ将棋に負けて名人になれないようなら私はそれまでだったということ」
として三家間の争いに口を出すことはなかったという。
一般によく知られた話はここまでであるが、実はこの騒動には続きがある。
名人襲位が内定してからも、宗看はこれまでと変わらぬ生活を送っていた。
或る日、門人である大身旗本のところで将棋指南を終え、麻布日ヶ窪の本屋敷へ帰る時のこと。
もう辺りは既に夕暮れとなって、提灯を差さなければ一間先も見えないような闇の中、宗看はお附きの老僕と二人で歩いていた。
あと一つ辻を曲がれば、直ぐに屋敷の門が見えるところで、不意に後ろから、大きな荷を担いだ商人が急ぎ足にやって来て二人の脇を追い抜いて行った。
おそらく商売が長引いたかして遅くなってしまったのだろう。
宗看たちは何気なく男の後姿を見送ったが、その人影が先の辻を曲がるか曲がらないかといった辺りで、
「ぎゃっ」
と叫び声が聞こえて、バラバラッと荷籠の中身が零れるような音がした。
稍あって、
「や、しくじったか」
と、くぐもった声がして、覆面頭巾をした一人の男が宗看たちの目の前に現れたのである。
その手には抜身の刀が握られていた。
老僕が身を挺して宗看の前に立ちはだかり、
「つ、辻斬りじゃ!」
と大声で叫ぶと、曲者は脱兎の如く駆け出してどこかへ姿をくらましてしまったという。
足元には夥しい程の血だまりが広がっており、それを目にした老僕は身体の震えが暫く止まらなかったと後に述懐している。
奉行所の検分では、斬られた者は、麻布谷町に住むくず屋の清兵衛で、正直者で通っており、人から恨みを買うような人物ではないということであった。
そうなると明らかに宗看を狙ったことになるが、結局犯人は分からずじまいとなった。
老僕はあれは宗民側の差し向けた刺客だと言って譲らなかったが、宗看は全く意に介さずに、
「あそこで斬られてしまうようではそれまでということ。どんな邪魔が入ろうともそれを乗り越えられる者こそが名人たるべし」
と語ったと伝わっている。
正に、宗看の生まれ持った運を示す挿話と言える。
喜右衛門はこの話を自分に言い聞かせるように兵助と一棋斎に披露した。
鴻池一棋斎は、大坂一の商人の家系に生まれて帝王学を学び、茶人としてその奥秘を究め、棋士として名人を狙う高みに達した人物である。
兵助との対局を通して、名人とは何ぞやということを悟っていたに違いない。
それが名人宗看と重なっていたことに満足そうであった。
「あては兵助はんと指してみて、兵助はんは将棋の神さんに好かれとるちゅうのんがはっきり分かりましたわ。弟子でさえこないな将棋を指しはるんや。きっと本家の名人はんにもあては敵いまへんわ。兵助はん、江戸へ戻ったら宗看名人によろしゅうお伝えください。いずれどこかで将棋指せるのんを楽しみにしておきますわ」
一棋斎の顔は今やすっきりと晴れ渡っていた。
この将棋、お互いが死力を尽くしたことには変わりなく、二人にとっては決して後味の悪いものとはならなかった。
結果として、大坂名人の称号が使われることを阻止した兵助の行いは報われることになったが、運が味方しての勝利なのは間違いなく、再度同じ勝負をしたら勝てるかどうかは分からない。
兵助は己の力不足を痛感し、更なる棋力向上を胸に誓うのであった。
鴻池新田会所を辞する時喜右衛門は、
「蝦蟇のせいでケチがついてしもうたしこの棋譜は世に出すことはでけへん。せっかくのええ勝負が残念やなあ」
と悔やんでいた。
それゆえ兵助の棋譜は、原喜右衛門という稀代の将棋記者が傍らで見ていたにもかかわらず後世に残っていないのである。




