第六章 神様の悪戯②
随分と時が流れたような気がした。
併し、二度目の鹿威しは鳴らなかった。
清三郎と新兵衛はお互いに顔を見合わせて首をひねった。
喜右衛門はゆっくりと盤面から視線を外し、清三郎と新兵衛を交互に見た。
二人は一様に首をひねるばかりである。
漸く、何かがおかしいと誰もが気がついた。
「なんたることや!」
喜右衛門は袴の股立ちを取って座を立った。
縁側を華麗に飛び越えて裸足のままで庭にヒラリと舞い降りたその瞬間、
「あぁ~」
情けない声が喜右衛門の喉から漏れた。
庭に降りた衝撃で、これまでに痛めていた腰を更に悪化させてしまったようだ。
腰の辺りを押さえた情けない姿で、ヨタヨタと庭を進んで行く。
鹿威しのある場所に辿り着くには足場の悪い池端を抜けねばならず、喜右衛門の状態ならばもう少し時間がかかるはずである。
兵助は、これは将棋の神が与えてくれた好機と捉え、集中力を増して手を読み進めた。
喜右衛門が息を切らせながら鹿威しへと辿り着くと、そこには目を疑う光景があった。
鹿威しの、丁度竹筒の尻と石がぶつかるその間に、幼児の顔ほどはあろうかという巨大な蝦蟇が、どっかりと座り込んでいたのである。
たまった水を解放するたびに、竹筒の尻は勢いよく石を目指す。
だがその勢い虚しく、竹筒は蝦蟇の腰肉へと当たって、跳ね返されるばかりであった。
蝦蟇は一切動じることはなく、どことなく気持ちよさそうにすら見えた。
喜右衛門が来ても一顧だにせず、むしろ喜右衛門のほうが、その蝦蟇のあまりの大きさに足がすくんでしまっている。
どんな過去があったか知らぬが、喜右衛門は何よりも蛙が嫌いなのである。
喜右衛門は裸足で庭に降り立ったことを心底悔やんでいた。
蝦蟇の皮膚には毒があるという。
足で払おうにも、この巨大な蝦蟇の肌がピタリと足にへばりつくことを想像すると、全身が粟立つ思いである。
とてもじゃないがそれは致しかねる。
たらいで運ばれているとき、清三郎が転びそうにならなければ足袋が汚れることもなかったのに、思えばあの時も蛙のせいであった。
喜右衛門は歯軋りをしながら、仕方なくその辺に落ちていた木の枝を拾って蝦蟇を突いてみた。が、ビクともしない。
ならばとその場に四つん這いになり、蝦蟇と睨み合いながら、
「そこを退かんかい畜生め!」
大声で激しく罵倒してみた。
蝦蟇は阿呆を見るような眼つきをして、喜右衛門の顔を眺め続けるだけであった。
茶室には、喜右衛門の罵詈雑言が池を渡って聴こえてきた。
明らかな変事に、一棋斎は顔を紅潮させて苛立っていた。
だが喜右衛門が喉を枯らすほど叫び続けても、蝦蟇はピクリとも動かなかった。
喜右衛門はもう限界だった。
息は上がり、頭は酸欠状態になっている。
意識が遠のいて、そのまま倒れ伏しそうになった時、蝦蟇は、憐憫の眼差しを喜右衛門に向けてから、呆れたようにして、のっそりと鹿威しの下からその身を外した。
緩衝を失った竹筒は、漸くその尻を石へとぶつけることができた。
コーンと心地いい音が、辺りに響いた。
この二度目の音が茶室内に届いた瞬間兵助は、果たして詰みを読み切っていた。
兵助は力強い手つきで▲3一角成と指した。
読み切ったのを確信した手つきである。
怒りに紅潮した一棋斎の顔が、見る見るうちに青白くなっていった。
この時、一棋斎自身はまだ自玉の詰みを読み切ってはいなかった。
併し、兵助の指し手を見る限りこれは詰んでいるのだろう。
力なく王手を外すが、兵助はまた直ぐに王手を掛けてくる。
それを何度か繰り返している内に、喜右衛門が息を切らせて戻ってきた。
座敷に上がるなり盤面に眼を落とし、喜右衛門はガックリと項垂れた。
二人の指し手が、先程の局面から随分と進んでいる。
特に兵助の指し手が早い。
それを見て、兵助が詰みを読み切ったことを悟ったのである。
あの蝦蟇の邪魔がなければ、勝負はまだずっと続いていたのかも知れない。
熱闘を演出するための「決め」が、却って一方に有利な形になってしまったのは、喜右衛門にとって痛恨の極みだった。
喜右衛門は静かに二人の脇へ腰を下ろし、盤面を虚ろな眼で眺めている。
兵助はチラとその姿を横目で見たが、今はそのまま手を進めるしかなかった。
詰みまであと数手を残し、一棋斎は遂に駒を投じた。
終わってみれば▲3一角成から四十一手の長手数の詰みであった。
喜右衛門は立会人として、この勝負は兵助の勝ち一棋斎の負けで終局したことを宣言しなければならない。
だが喜右衛門にはできなかった。
棋界の御意見番を自称し、この歳までずっと将棋界の発展に尽くしてきた人物である。
どうすれば将棋がおもしろい勝負になるか、それを常に考えてきたような人生だった。
それなのに、この江戸対大坂という大一番で、痛恨の失策をしでかしてしまったのだ。
悔やんでも悔やみきれなかった。
そんな喜右衛門の気持ちを察してか、一棋斎が口を開いた。
「御老体、お顔を上げてください。あてが負けたんは誰のせいでもあらしまへん。全部あてのせいだす」
一棋斎の顔は対局前の怒りが嘘のように消え去って、今では元の穏やかな表情に戻っている。
「慰めはよしてくんなはれ。あの鹿威しがきちんと鳴っておったら、勝負はまだまだ分からんかったはずや。だんさんが勝つかも知れなかったんやで」
「そうかもしれませんなあ」
一棋斎は穏やかに笑いを浮かべて、
「そやけど、結果はこの通りあての負けや。これが何を意味するか、御老体なら分かるでっしゃろ」
「————?」
「名人ちゅうもんは———将棋の神さんに好かれたもんやないとなれへんちゅうことですわ」
喜右衛門はハッとして一棋斎の顔を見つめた。
「この度の将棋、あそこで鹿威しが鳴らんかったんは誰が悪いんともちゃいます。あてが将棋の神さんに好かれへんかっただけに過ぎまへん。将棋の神さんは兵助はんに味方して、そして見事兵助はんは詰みを読み切った。あてが大坂名人やあ言うてみても、こない大事なところで将棋の神さんが味方してくれへんのやったらやっぱり本物の名人とはちゃいますんや」
一棋斎は喜右衛門への気遣いなどではなく、心の底からそう思っているようだった。
そして喜右衛門は、この言葉を聞いてある出来事を思い出していた。
三年前、三代伊藤宗看が七世名人に襲位した時のことである。




