第六章 神様の悪戯①
喜右衛門の指示で、それぞれ座る場所が決められた。
床の間を背にして上座が一棋斎、下座が兵助。
その脇に喜右衛門が立会人として座る。
一棋斎は茶人そのものの十徳姿で、兵助は手甲脚絆の旅装姿のままをしている。
対局者の二人が、黙って駒を並べ始めた。
清三郎・新兵衛・大助の三人は、次の間に追いやられて、そこから勝負を見守ることになった。
「二人とも用意はええか?この勝負、大坂名人の名乗りを懸けた戦いや。公明正大に対局は行われなあかん。せやさかいわしがええことを思いついた。それに従うて指してもらうがええな」
二人のいる茶室からは、綺麗に手入れされた日本庭園を望むことができる。
そして耳を澄ますまでもなく、庭に設えられた鹿威しが、一定の感覚を開けて侘びのある音を聴かせてくれる。
喜右衛門は、この鹿威しが三度鳴る前に手を指さなくてはならないという、特別な「決め」をこの対局のために設けることにした。
鹿威しが一度鳴ると、喜右衛門が「ひとつ」と数える。二度目には「ふたつ」である。三つ数えられてしまえば、その時点で負けとなる。
二度鳴ってしまえば、頭の中で正確に間隔を計れない限り、いつ三度目が鳴るか分からない。
だから二度目の後にはなるべく早く指す必要がある。
一方で三度目が鳴るギリギリになってから指せば、相手の手番になった途端一度目が鳴ることになり、相手の持ち時間を減らすことができる。
この変則的な早指し勝負では、指し手だけでなく時間を巡る駆け引きも重要になってくる。
この辺りは演出家原喜右衛門の面目躍如といったところだろうか。
早指しの勝負だけあって、兵助の緊張感はこれまでになく高まっていた。
だが気持ちを整える間もなく、喜右衛門の、
「それでは始め!」
という号令を合図にとうとう勝負が始まってしまった。
先手の一棋斎が落ち着いた手付きで初手を指す。
一棋斎の対局姿勢は、茶人だけあって優雅さと品格を感じさせるもので、その点では本家名人を彷彿とさせるものだった。
兵助は一瞬一棋斎が名人宗看の姿に重なって見えたが、それは幻影にすぎない。
鹿威しの音が響いて、喜右衛門が「ひとーつ」と数えた。
兵助は我に返って、深呼吸をしてから二手目を指した。
この時代、江戸も大坂も共に将棋の盛んな土地であったが、物理的に距離のある江戸と大坂では当然情報の伝達も遅くなり、東西で流行している戦法が異なることも多かった。
だから、序盤から慎重に駒組をしなければならないのはお互い様となる。
二人は歴戦の棋士だけあって、兵助も一棋斎も時間いっぱい使って指している。
一つの指し手にかかる重圧は相当なものがあるが、兵助は一方で、僅かに自身の有利を予想していた。
なぜなら兵助は、早指しを得意としていたからである。
「火事と喧嘩は江戸の華」の例え通り、江戸っ子は気が短く、仲間内で指す時も大抵早指しである。
反対に京をはじめとして上方の人々は、現代とは異なり、気が長くおっとりとしているとされていた。
男が多く新興の都市であった江戸ではより荒々しい気性になり、伝統的商業都市で宮中からの影響も大きい上方では、より柔和な気性になったのがその原因らしい。
兵助には、早指しの経験ならば決して劣らないであろうという自負があった。
一棋斎はその見た目通り、極めて落ち着いた様子で指し手を進めて来る。
鹿威しが二度鳴ったとしても、決して慌てることない。
兵助は荒々しい攻めで敵陣を攪乱しようとするが、一棋斎は手厚い受けで攻めの継続を許さない。
大坂名人を自称するだけあって、堂々と兵助の攻めを受け止めていた。
見ている者たちも、この将棋、簡単には終わらないであろうことが予感できた。
対局が始まってからどれくらい経過しただろうか。
まだ中盤戦だが、二人の消耗は予想していたよりも大きかった。
鹿威しが三度鳴ったらその時点で負け。
この決めは思った以上の重圧で、ずっと気の抜けない場面が続く。
少しでも油断すると、勝負を決める悪手を指しかねない恐怖がある。
形勢はやがて、一棋斎の重厚な受けの前に、兵助のほうが少しずつ苦しくなっているようになっていた。
攻めが切れるか、受け間違えるか、二人とも細い綱の上を渡っていくようなギリギリの勝負を継続している。
いよいよ終盤になって、兵助ははっきりと自分の不利を実感していた。
攻めてはいるものの、一棋斎の粘りで寄せに出ることができないでいたのだ。
兵助は今でも毎日のように詰将棋を解いている。
時間があれば詰将棋の創作にも余念がない。
終盤の斬れ味には絶対的な自信を持っていたが、一棋斎の前ではその力を発揮できていない。
兵助も将棋家の看板に懸けて負けるわけにはいかないが、一棋斎も大坂名人の看板に懸けて負けるわけにはいかない。
お互いの意地と矜持が、盤上で激しくぶつかり合っていた。
最終盤、局面は明らかに兵助が苦しくなっている。
時間に追われて最善手を指し続けることが難しく、いつの間にか差がどんどん開いてしまったのである。
何とか局面を打開しようと必死で手を探すが、喜右衛門の「ひとーつ」「ふたーつ」という読み上げも気持ちを焦らせて最後まで読み切れない。
兵助は必死の形相で盤面を見つめている。
もう三度目が鳴ってしまうのではないかと誰もが思った瞬間———、ビシッと駒音高く手を放った。
「———!」
清三郎と大助の身体が、ピクリと反応した。
そして、喜右衛門の白く長い眉が吊り上がった。
兵助の指したのは、一か八かの勝負手だった。
一棋斎の眉根に深い皺が寄った。
鹿威しが、駒音から間を空けずにコーンと鳴った。
喜右衛門が「ひとーつ」と数える。
一棋斎はまだ指さない。
二度目の鹿威しが鳴って、喜右衛門の声が低く、「ふたーつ」と響いた。
一棋斎はそれでもまだ指さない。
二つの眼球が目まぐるしく盤上を動き回っている。
体感的にはもう三度目が鳴ってもおかしくない。
ここで一棋斎が指さなければ兵助の勝ちである。
兵助は眼を瞑って、「早く鳴ってくれ!」と心の中で祈っていた。
やがて————
ピシッと駒音が鳴った。
一棋斎が、三度目の音が鳴る前に手を指していた。
兵助の祈りは届かなかった。
兵助は閉じていた眼をゆっくりと開けて、盤上に視線を向けた。
一棋斎の指した手は△4七馬で、兵助玉に対する詰めろとなっている。
兵助の持ち駒は銀の一枚と歩だけで、玉の囲いも崩壊している。
一見すれば兵助に勝ち目はない。
————併し、一棋斎は兵助の仕掛けた罠に嵌っていた。
即ち、兵助が一手前に指した手も詰めろであり、一棋斎の玉に詰みがあるのではないかと、直感的に思って指した手であった。
だがあくまでも第一勘詰みと感じただけで、きちんと読み切ったわけではない。
僅か鹿威し三拍の間では、読み切ろうにも読み切れない。
詰ましに行って、もし詰まなければ兵助の負けである。
遠くで鹿威しがコーンと、余韻を辺りに響かせながら鳴った。
喜右衛門が抑揚のない声で、「ひとーつ」と数えた。
できれば二度目が鳴る前に読み切りたい。
ここで読み切れれば勝ち、読み切れなければ負けである。
兵助は頭の中の玉に王手を掛け続ける。
だが詰み手順が見つからない。
数ある変化の中で、一つでも詰まない手順があればその時点で負けとなる。
読み抜けがないか何度も確認するが、もう時間がない。
体感的にはいつ二度目が鳴ってもおかしくはない。
一棋斎も喜右衛門も、ひょっとしたら詰みがあるのではないかということには既に気がついている。
三人の眼は盤面を食い入るように見ている。
あと少し、ほんの少しで詰みが見つかりそうである。
最後の力を振り絞り、兵助は全身全霊を懸けて読みに没頭した。




