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第四章 大坂の棋士たち①

 結局新兵衛は、兄の消息をこれ以上尋ねることはせず、三人は僅か一日で名古屋を発つことになった。


 その後の道のりも難所は続くが、ここまで来ると兵助たちも旅慣れたもので、七里の渡しも鈴鹿峠も順調に抜けることができた。


 一行は京を目指すのではなく、まずは大坂の版元と商いをする予定だから、大津からは京の中心部には向かわずに、髭茶屋追分で南西に折れて伏見宿へと進んだ。


 大津から大坂へと続く道が、わざわざ京の中心地を回避していくのはいかにも不自然だが、それは参勤交代の際、西国大名が都に入り朝廷と接触することを幕府が嫌がったからだという。


 いずれにせよ徒歩ならば、伏見から淀・枚方・守口の宿場を経由して大坂は京橋に至るのだが、兵助たちは、伏見の寺田屋の浜から、淀川を走る夜舟の三十石さんじっこく船に乗ることにした。


 三十石船とは、伏見大坂間の十一里を走った旅客専用船の総称で、米を三十石積める大きさであることからこの様な名称がついた。

 乗客は船頭を含め三十二人と定められ、船賃は上り百七十二文、下り七十二文となっている。

 上りのほうが高いのは、下りは川の流れに乗って進むのに対して、上りは川岸から人足が綱で引いて川を進んだからだという。

 船頭は船を漕ぎながら舟唄を謡って、自慢の喉を聞かせたと伝わっている。


 夜舟の三十石船が大坂は八軒家に着くのは早朝の時間帯になる。

 夜が白々と明けるに従って、川から望む景色には段々と町家が増えてくる。

 それにつれて兵助の胸も自然と高鳴ってきた。

 今では眠気もすっかり吹き飛んでしまっている。


「やれあんたら着いたで。さ、降りておくんなはれ」

 船頭の声に急かされるようにして三人は船を降りると、八軒家の船着場から、遠く左手の高台の上に、幾重にも連なった石垣が見えた。


 あれが大坂城の本丸にちがいない。

 この時既に大坂城の天守閣は火事によって消失していたが、その城郭は名古屋城に負けず劣らず徳川の権勢を誇示している。


 右手のほうに眼をやると、城下から続く町家が隙間なく建っていて、その隙間を忙しそうに無数の人が行き交っているのが見えた。

 その活気と繁栄はさすがは天下の台所と言ったところか。

 中之島には全国諸大名の蔵屋敷がずらりと軒を連ね、一体この町では一日にどれほどの金が動いているのだろうか、と想像を掻き立てられずにはいられない。


 船着場の周りには、屋台が何軒も並んでおりどれも美味そうに見える。

 丁度小腹が減っていた兵助たちは、そこで饅頭を買って、頬張りながら大坂の町へと踏み出した。


 三人がまず向かおうとしたのは、炭屋という名の店で、そこでは以前に戦ったことのある大坂棋客の大助がかつて奉公していた

 。大助は大坂の棋界では少しは名の知れた存在だと自称していたから、きっと炭屋に行けば何か分かるはずである。

 そして大助に会うことができれば、版元の情報も得られると踏んだのだ。


 道行く人に炭屋の在所について尋ねると、瓦町に炭屋五郎兵衛という店があると教えられた。

 瓦町は、いわゆる北船場と呼ばれる地域の一画に当たる。


 船場には東西に走る「通」と南北に走る「筋」が碁盤の目状に張り巡らされており、そこには廻船問屋や両替商、料亭といった商店が立ち並んでいて、言わば大坂の中心として町人文化を担った土地であった。


 大坂は幕府の直轄地だったが、大坂城には城主は置かれず(正確に言うと城主は徳川将軍自身である)、初期を除いてはその将軍も大坂入りすることは稀で、通常は譜代大名から選ばれる大坂城代と、大坂町奉行によって町政は執られていた。

 武都である江戸に比べれば当然武士の数は少ないため、町人たちによる自由な文化が醸成されていったのである。


 炭屋のあるという瓦町は、大小様々な店が並ぶ繁華街で、そこら中から活気のある声が聞こえてくる。

 当たり前だが、女子供から老人まで、みんな上方の言葉を話すのが、兵助にはなんだか可笑しかった。

 江戸では壮年の男しか上方言葉を話す人は見かけなかったからだ。


 三人は炭屋を探して散々町を歩き回ったが、どうにも見つけ出せずにいた。

 炭屋というからには燃料を扱う店なのだろうが、どこを歩いてもそれらしい看板は見当たらない。

 疲れ切った三人は、通りに面した一軒の茶屋に入って、そこで休息を取りつつ店の親爺に炭屋のことを訪ねた。

 すると親爺は直ぐに、

「あすこが炭屋さんだっせ」

 と、はす向かいにある店を指さした。


 親爺が言うには、炭屋は燃料屋ではなく両替商なのだそうだ。

 元々は炭問屋だったのが、今では両替商に転業をしていて、客はもっぱら大名や問屋で、庶民などは初手から相手にしていないから、看板などは出す必要がないらしい。


 その炭屋は、間口十間もありそうな堂々たる大店おおたなだった。

 大坂建ての二階家で、どの窓にも堅格子が整然と嵌められている。

 戸口には藍で染めた暖簾のれんが隙間なく垂れており、店の内部は外から窺い知ることができない。


 戸口の両脇には床几しょうぎが並んでいて、三人はそこに腰かけて暖簾の下からそっと店の中を覗き込んでみた。

 すると、さすが両替商らしく、天秤の前で何やら慎重に銀貨を量っている男の姿があった。

 どうにも声などかけづらい雰囲気で、三人は床几に腰かけたまま、所在なげにぼんやりと空を見上げていた。


 時間ばかりが過ぎていき、見知らぬ町で段々と不安になってきたところ、丁度番頭らしき男が客を見送りながら店の外へとやって来た。


 男は愛想よく客を送り出した後、振り向きざまに兵助たちの姿を認めると、客に向けていた顔とは全く別の不審そうな視線を寄越しながら言った。

「わてらに何ぞ御用でもござりますかいな?」


 船場の商人はどんな時でも独特の丁寧な言葉づかいで話す。

 兵助たちの埃にまみれた旅装を見てもそれを崩すことはない。

 見た目では男の年齢は四十を超えており、店の中でも古株であることが予想できる。

 そうであればきっと大助のことも知っているはずで、まずは同じ商人として新兵衛が応えた。


「手前どもは江戸から来た旅の商人でございますが、こちらに大助さんという将棋のお強い方がかつていらっしゃったと聞きました。大助さんには江戸で大いに世話になったものですから一度お礼に上がりたいのですが、今どちらにいるかご存じないでしょうか」

 男は一瞬眼を瞠って、

「あんさんがた大助の知り合いではりますか。いやあ懐かしい名ですわ。確かに大助はこのお店のんでえらい将棋の強いぼんさんでしたわ。今はどこで何してはるか…。誰ぞ知ってはるか聞いてみまっさかいこちらで待っといてくれやす」

 新兵衛の丁寧な口ぶりが功を奏してか、男は店の中にわざわざ聞きに行ってくれた。

 稍あって、番頭風と入れ替わりでやって来たのは、歳は三十を過ぎたくらいの下働き風の男である。


「あんさんか江戸から来た大助の知り合いいうのんは」

 番頭とは違って比較的ぞんざいな地の言葉で言った。

「わいも昔は一緒に将棋の腕を競った仲や。もうここ何年も大助とは会うてへんが、今でも平野屋の藤蔵に聞けば何ぞ分かるんやないか。大助と藤蔵は餓鬼の頃からの棋敵でっさかい」


 平野屋は大坂は今橋にて両替商を営み、十人両替として幕府御用を務めた大店である。

 元禄十六年に平野屋別家の手代徳兵衛が、大坂堂島新地天満屋の女中お初と、曾根崎村の露天神の森で情死した事件のせいで、平野屋の名は京坂ではつとに有名であった。

 その事件を基に近松門左衛門によって書かれたのが、人形浄瑠璃の曾根崎心中である。


 男の話では、大助は炭屋に暇を出されて以降こちらには顔を出しづらくはなっているが、平野屋のほうには出入りしているのではないかということだった。

 兵助たちは、言われるがままに平野屋へと向かうことにした。

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