スパイ
メローア妃とソコレイニ伯爵との密談を、陰から監視する一人の女がいた。
半年前に雇ったばかりのお針子。若きカシータだ。
「誰にも会話内容を聞かせないようにしている……。怪しい……」
屋敷はコの字型をしていて、二人は中央のバルコニー。カシータは、コの字の角にある使用人の部屋にいた。
いくら窓に張り付いても距離がある。表情ぐらいなら確認できるが、会話の内容を推し量ることは不可能だ。
カシータは、クロバネの愛人であり、クロバネのスパイでもあった。
彼女の喜び。それは、クロバネに褒められることだった。
クロバネのためなら何でもする。それぐらい飼いならされていた。
王家に勤める前は、大きな劇団で舞台衣装を仕立てるお針子をしていた。
彼女の仕立てた衣裳は、どんな役柄ものでも動きやすく、完璧で美しかった。
その腕を見込まれて王家に雇われたのだ。
そんな彼女に突如告白したのがクロバネだった。
最初は真意を疑った。
それまで話したこともなかったからだ。
しかも、向こうは俳優。自分はお針子。自分が俳優に見初められるほど美しい女ではないと、誰よりもよく分かっていたからだ。一目ぼれなら対象となる美しい女優がたくさんいる。
クロバネにはその資格もあった。
クロバネは魅力的であった。とても男らしく、美しい容姿をしていた。
遠くからその姿を眺めるだけでため息が出てしまうほどだ。
そのクロバネから告白されたのだ。
嬉しい反面、どうして自分なのかと疑うのも無理はなかった。
クロバネの顔立ちは俳優向きだが、仲間内では変人扱いもされていた。
その理由は、決して舞台で素顔をさらさなかったからだ。
厚化粧は当たり前で、時には特殊メイクで顔を変え、顔を出さない仮面の役を好んで演じた。
『演技力もあるし、顔もいいのに、いくら説得しても主役をやりたがらない。仮面を被る役が大好きときた、変わった男だよ』
もっと顔を出せば、人気を博して客を呼べるのにもったいない。劇団長がよく嘆いていた。
クロバネから、『ずっと好きだった』と言われて舞い上がらない女はいないが、一方で、本気かどうかを疑う気持ちが最後まであった。
『私は裏方だし、器量もよくない。もっと釣り合う人が他にいるでしょう。若くて美しくて可憐な女優さんがたくさんいる。好きになるのはあっちじゃないの?』
それに対するクロバネの答えはこうだった。
『私は劇団仲間と恋愛するつもりはない。君のことも、今までは仲間だったから言わないでいただけ。辞めると聞いたので、それなら告白できると思った。君は自分で気づいていないだろうけど、たくさんの魅力が隠れている。私だけが知っている。これが最後の機会だから打ち明けたのだ。すぐに返事が欲しい』と言われて、疑念は払しょくされた。
最後の機会ということは、ここで断っては二度と告白されないということになる。
カシータは、焦りもあって、いとも簡単に受け入れて男女の仲となった。
実際に交際してみると、毎回自分の魅力を探し出して惜しげもなく褒めてくれた。カシータは、クロバネなくして生きられなくなった。
仕事の関係で四六時中一緒にいることはほとんどないが、たまに会えた時には濃密で甘い時間を共有しているから不満はない。
たとえ数時間であっても、クロバネと一緒にいるだけで幸せなのだ。
二人でいる間、クロバネは王家のスキャンダルを聞きたがった。
本当は外部に漏らしてはいけないのだが、誰にも言わないと約束してくれたし、教えると本当に喜んでくれた。クロバネを失望させたくない、嫌われたくないと、何でも話してきた。
請われるまま教えていくうちに、深みにはまったカシータは、むしろ積極的に情報収集に励むようになっていった。
メローア妃の衣裳担当になると、クロバネは喜んでお祝いまでしてくれた。
もっと喜んでもらおうと、常時、メローア妃を監視するようになった。
メローア妃はほとんど部屋から出てこなかったが、珍しく来客に会うため部屋から出たので、何かあるのかと針仕事の手を休めて様子を伺っていた。
今まで見たことのない笑顔を見せたので吃驚した。
これは大きな情報だと思い、早速クロバネに報告した。
「メローア妃がソコレイニ伯爵と笑いあっていたの。驚いたわ。あの陰鬱なメローア妃が笑うこともあるんだって知って」
「ソコレイニ伯爵と?」
「ええ。仲が良かったのね。愛人だったりして」
「そうなのか?」
口が滑って適当なことを言ってしまったと少しだけ反省した。
「いえ、その証拠はないし、何しろ今回初めての訪問みたいだから、違うとは思うけど、いい雰囲気だった。旧知の仲っていうの? そんな感じ」
「ソコレイニ伯爵か……」
その名をクロバネは久しぶりに聞いた。
ソコレイニ伯爵邸が襲われた事件で、夫人と二人の子供、使用人たちは死んだが、伯爵は別宅にいて無事だった。
ソコレイニ夫人はメローア妃と同郷で仲が良かったと聞いている。メローア妃とソコレイニ伯爵が旧知の仲だったとしても不思議はない。
(事件以来、喪に服しているとして動静不明だった。そのソコレイニ伯爵がメローア妃の元を訪ねたことには、何か意味があるのかもしれない……)
そんなことをクロバネは考えた。
「クロバネ、聞いているの? 急に黙り込んじゃって、どうしたの? そんなにメローア妃が気になるの?」
黙ってしまったクロバネにカシータが不満をぶつける。
クロバネは、カシータを固く抱きしめた。
「とても素晴らしい情報だ。君は本当に有能だね。これからも何かあったら教えてくれ」
「分かった」
案の定とても喜ばれたので、カシータは、彼の愛が一層深まったに違いないと信じた。
「ところで、最近の劇団はどう? 新しい配役は貰った?」
「劇団は辞めた」
クロバネの言葉に、カシータは目をまん丸くして驚いた。
「なんで?」
「自分の力を試そうと、今はフリーでやっているんだ」
「俳優を辞めたわけじゃないのね」
「ああ。幸い、オファーはたくさん来ている。今は自分のキャリアとして最適な役はどれか、慎重に選んでいるところだ」
「決まったら観劇に行くから教えてね」
「ああ。もちろん。だけど、他国になるかもしれない。その時は連れていってあげるよ」
「嬉しい! 外国に行ったことがないから、凄い楽しみ! いいところに決まるといいわね。……あ、でも安売りする必要はないからね。クロバネが逆に値踏みしてやるといいのよ。それだけの価値があなたにはあるんだから!」
「もちろんだ。出演料が高く、私の価値が大いに高まる仕事だけを選ぶつもりでいる」
カシータは、クロバネならいくらでもよい役が付くだろうと信じていた。
今まで俳優としてパッとしなかったのは、目立つことをよしとしない性格だからで、素材は最高なのだから、売り方次第でもっと人気者になるはずだと考えていた。
そのためには、どんな協力でも惜しまないつもりだった。
「ねえ、クロバネ……」
カシータは甘い声を出した。
「ああ。こっちへおいで」
クロバネは、カシータの針仕事で荒れた手を掴んで引き寄せた。
屋敷へ戻るカシータを見送ると、クロバネは別の愛人のところへ向かうことにした。
「さて、今夜はどの女のところへ行こうか」
クロバネは、決まった住居を持っていなかった。
サリルリ妃のほかにも何名か泊めてくれる女がいて、順繰りに回れば事足りていた。
都合がどうしてもつかなければ、適当に選んだ安宿に泊まる。
女たちはそこそこ稼いでお金に困っていないものだけを選んでいる。彼にお金を要求するものはいないし、逆にお金をくれたりする。
そこに愛はない。カシータとの愛もすべて演技だ。
女とは男のために作られた存在であると考えていた。これは何にも間違っていない。
俳優業など、今ではほとんどしていない。
カシータがあまりに聞いてくるから適当に言っただけで、外国の舞台に立つことなど一生ないだろう。
劇団は役がある時に出演していただけで専属ではなかった。
才能を惜しまれたことは本当だが、日当を貰うだけの舞台俳優などに一生を捧げる気などさらさらなかった。
俳優業は、自分の恵まれた容姿を利用しただけのことだった。
――高貴な女ほど興奮する。
クロバネはそのような性癖を持っていた。
第三王妃のサリルリ妃を紹介されたときはとても期待したが、接してみると程遠かった。なんと醜悪で汚い人間だろう。王妃になれたのは、運がよかっただけだと思った。
いくら外見を豪華な装飾で着飾っても、育ちの悪さは隠せない。会話も誰かの悪口ばかり。つまらない女だと、いつも心の中で蔑んでいた。
しかし、利用価値がある間は利用する。
失脚したり、自分の立場が危うくなったりすれば、容赦なく切り捨てる。
クロバネは、プライドがひときわ高く、誰かに利用されることが大嫌いだが、サリルリ妃のわがままだけは大きな目的のために我慢して聞いてきた。
クロバネにしてみると、サリルリ妃は普通の女たちと大して変わらない存在である。だから割り切って接することができた。
恋に落ちてしまえば、冷静に扱うことができなくなる。つまり、こちらの方が好都合なのかもしれない。
クロバネの最終目的は、女王と結婚して特権階級になることだった。それも、最高権力者が望ましい。
女王の夫は、女王と同じ立場になる。サリルリ妃が女王となり、結婚して自分が夫になれば、王に準ずる身分となれる。そうなれば怖いものなしだ。
そのためにサリルリ妃に取り入って喜ばせてきた。
そういう意味では、サリルリ妃と思考が同じであった。
王が亡くなって王妃たちが未亡人となり、後継者が幼いニーナ王子だけとなれば、サリルリ妃が女王になる可能性は高い。
それを夢見て、サリルリ妃に権力が集中するように汚い仕事もこなしてきた。
そちらが忙しくて俳優どころではなかった。
問題は、サリルリ妃の夫であるバラストゥル王がとても元気であること。
どうみても病気からは程遠い精力の持ち主であった。
若い愛人を次から次へとこさえるから、サリルリ妃は常にヒステリー気味である。
サリルリ妃の言うように、戦争で死んでしまわないかとクロバネも願っていた。




