動き始めた秒針
1
「三上さん、田所先輩と食事行ってみたら」
あの時。外はひどいどしゃ降りの夕方だった。
珍しく仕事が捗り定時で退勤できそうだと三上映見が上機嫌なのを見て、女課長が彼女に声を掛けなかったならその後の人生は180度変わっていたかもしれない。
「え?田所さん…ですか?なんでまたそんな急に」
「いや、三上さんお酒好きでしょ。飲み会にもよく参加してくれるし。田所先輩いつも色んな席の幹事してるらしいから、良い店たくさん知ってるみたいよ」
その瞬間映見は、何とも言えない息苦しさを覚えた。こんな切り出し方をされればいくら人の気持ちに鈍感なタイプでも、田所という男性が映見に対して好意を抱いており、女課長がその仲介役をしようとしているとわかるものだ。入社したのは自分の方が後だからと、頑なに田所の事を先輩呼びする女課長だ。このやりとりは強引に続きそうだと映見はげんなりした。
「へーえ、そうなんですか。マメなんですね、田所さんって。そんな風には見えませんでしたけど」
「まぁ田所先輩はいつも気だるそうにしてるものね。せっかくだから美味しいお酒ついでに、お喋りしてみたら新発見があるかも」
「まぁお互い都合が合って、向こうも食事に行きたいと思ってるなら…のお話ですね」ちらっと時計に目をやりながら映見が答えた。手元では忙しなく筆記具や資料を片付ける。
「田所先輩なら仕事早いし、きっと三上さんの都合に合わせてくれるはずよ。私が言ってみようか?」
何故か田所と映見の立場が逆転しているような口ぶりの女課長に、若干苛立ちながら映見はもう一度時計を見て答えた。
「ご本人からは何も聞いていませんし、そもそもお話すらしたことないので機会があれば自分で伝えます。ありがとうございます。では、お先に失礼します」時計に助けられた、と彼女は思った。
「あら…」と何か言いかける女課長をその場に残し、映見は職場を後にした。
外は相も変わらずどしゃ降りの雨だった。まだ夏場の夕方17時半だというのに薄暗い。道を行く人の傘同士がぶつからないのは何故だろう、と映見はふと思いながら傘をさして歩きだした。
ドザーッという刺すような直下型の雨に小ぢんまりと傘をさしながら、映見は先程の女課長との会話を思い返していた。田所先輩と食事に行ってみたら────。
映見が勤務している会社は、ごく普通の中小企業で印刷会社だ。彼女はその部署のなかでも総務課、田所は印刷課だ。階数は同じだが部屋は違う。田所をたまに見かけてもいつもどこかだるそうにしていて、無精髭を生やしていたり寝癖が直っていなかったりで、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
しかも話したことどころか下の名前すら知らないことに、映見は今さら気づいた。
「無いな」
敢えて独り言を口にして、映見は帰宅の足を早めた。彼女の頭のなかはすぐさま、自宅の冷蔵庫に眠る冷えた缶ビールのことに切り替わった。
2
田所爽介は冷や汗をかいていた。腹だけでなく背中も汗で濡れていることがわかる。彼は床に散らばったガラス片を、ただぼうっと眺めるしかできなかった。同棲している恋人が大切にしていたビールグラスを、不注意で割ってしまったのだった。
それがその辺の居酒屋でよく見るようなものなら、冷や汗などかかなかっただろう。付き合って3年目の記念にと、わざわざ彼女が二人の名前を入れて作った特注品だからこそ、言い訳すら思い付かず途方に暮れていたのだ。
今日は田所が休みの日。同棲し始めてから3年、皿洗いなんて片手で数えられる回数しかやっていないくせに、急に思い立って手を出したのが間違いだったと彼は苦い思いでいっぱいだった。もうあと30分もすれば彼女が仕事から帰ってくる。新しいものを用意しておく時間はない。
ひとまず田所は腰をかがめて、フローリングに散らばっているガラス片を1つずつつまみ上げて片付け始めた。
掌に割れたガラス片を重ねていく度に、しーんとした部屋にかしゃん、かしゃんと乾いた音が響く。彼女は怒るだろうか。田所は精いっぱい、彼女の顔を思い浮かべてみた。いや、怒るのではなく呆れる気がする。そうしてひとつため息をついた後に「怪我してない?」と心配するだろう。
田所は彼女と同棲を始めて3年になる。3年の付き合いを経てからだから、合計で6年も彼女と過ごしていることになる。そんなに過ごしていると、恋人というよりももはや家族という感覚で、どういう場面でどういう言葉が出るか、どんな仕草をするのかまでたやすく想像できるようになった。そして大体それは当たっていた。
自分に都合の良い考え方をしているわけではないが、田所が考える限り、そして一緒に過ごした限りでの彼女は寛大な心の持ち主で、不道徳なことでなければ怒ることもなかった。それは6年間、揺らぐことのない彼女の長所だった。
そう考えていると段々と汗も引いて、気持ちが落ち着いてきた。そうだ、グラスならまた買えばいい。また二人の名前を刻んで、次に買うのは少し高めのものにすれば詫びにもなるだろう。
田所の手の動きにだんだんと軽快さが戻ってきた。やってしまったことの後悔よりも、後をどうするか考えた方がいいというのは彼の普段の生活でもそうだった。仕事でも、人間関係でも。何かを変えてしまった後に、それをどうにかして完全に元の状態へ戻すことはできない。
グラスも同じだと、田所はもう一度思い直した。割れた破片を綺麗にくっつけることなんて誰にも出来やしない。もっと良いものを買い直して使うことを考えた方がずっと前向きで、建設的だ。これはずっと、彼が貫いてきた変わることのない性格だ。
田所はあらかた破片を広い集めて、屈めていた腰を伸ばし立ち上がった。まだ皿洗いは半分も残っている。やることは、他にもたくさんある。
3
「あのー、落としましたよ」
佐由子は、突然後ろから声をかけられて驚きのあまり小さく飛び上がった。振り返ると、眼鏡をかけた自分よりも若そうな青年が、少し困った顔をしながら白い布を差し出していた。ジャケットのポケットに入れていたハンカチを落としてしまったらしい。
「どうも、すみません」佐由子は右手で受け取りながら軽く頭を下げた。
頭がもとの位置に戻った時には、青年は背中を向けて歩きだしていた。
佐由子はふと、右手のハンカチに視線を落とした。そんなに大切なものではないが、拾ってもらえて良かったと思った。また落としてしまわないように、今度はポケットではなく肩から下げた赤いバッグにしまいこんだ。
佐由子は昔から注意散漫だ、ぼーっとしすぎだと周囲の人間に言われて育った。考えにふける癖は幼い頃からあり、その最中にはまわりの音や会話が全く耳に入らなくなる。
さっきもそうだった。とある考えが、まるで水をこぼして一気に広がるように脳内を駆け巡ってしまい、ついぼーっと考え込みながら歩いていた。その間にハンカチを落としてしまったことも、青年がそれを見て自分をわざわざ追いかけてくれたことも気づかなかった。