冥界の番犬
ウェーブががった金髪をかき上げたシャロニカが、主に向かって溜息混じりに言い放つ。
無論、意思疎通しようと思って話しかけた訳では無い。シャロニカなりの警告なのだ。
その証拠に金眼に宿る眼光はいつにも増して鋭い。ただの人に向けられたらそれだけで失神してしまいそうな程だ。
「グルルルルルル──」
巨大な犬か狼のような姿の野獣、主はシャロニカを睨んだまま低い唸り声を上げ続けている。
その形相はユードが夜の森で見たそれより、更に怒りの感情が見て取れるものだった。
「……姉御に対しての敵意が凄まじい……? どうして……」
「あれが『森の主』──なぁユード……あいつは昨日の仕返しに来たって事か?」
「いや……そんな些細な事でわざわざ追ってくるなんてありえないっす……むしろ距離を置くはず……」
神妙な面持ちで話すユードを見て伊吹の疑問はさらに深まった。
「……なら一体ここまで何しに来たっていうんだ」
「……ま……まさか……『森の主』は……!」
ユードは1つの答えに辿り着いたようだった。
しかしそれを口に出すのを躊躇うように額から汗が浮き上がってくる。
「アオォォォォーーーーン!」
「ん? なんだ?」
シャロニカを睨み続けていた主が突然遠吠えを上げたかと思うと、その巨躯を黒い靄のようなものが覆い始めた。
伊吹は言い知れない不安を感じて、カスミとヒマワリを慌てて抱えるとキャビンの中へと押し込んだ。
「いぶきー……あのおいぬさんなんだかこわいよ……」
「大丈夫だ。シャロニカも俺も、ユードだって居るんだ。カスミはヒマワリとここで隠れてるんだよ?」
くしゃくしゃとカスミの白さが目立つ頭を撫でる伊吹。
「うん……ヒマワリとここにいる! いぶきはどうするの?」
「シャロニカ1人じゃ可哀想だからな──えーっと、どこだどこだ……」
キャビンの中の散らばった荷物を掻き分けて剣と盾を引っ張り出す伊吹。
「──これで良し、と。じゃぁちょっと行ってくる」
「きをつけてねいぶき!」
「ニャニャ」
「任せとけ!」
そう言い残してキャビンの外に出た伊吹は、シャロニカの方を見るより先に違和感に気付いた。
──何だこの全身が粟立つような寒気は……!
決して寒いわけではない。穏やかに吹く風は心地よく、空から降り注ぐ日差しも暖かい。
しかし確実にこれから視線を向けるであろうその先から漂ってくるこの冷気。
それは間違いなく『森の主』から発せられているものだと伊吹は理解し、そして顔を上げた。
《──グアルルルルルッ!》
轟く咆哮は1つでは無かった。まるで重なるように響く声が、聞く者の体を無条件に震わせる。
そして主を包み込むように覆っていた黒い靄は晴れ、そこには三つ首の獣が姿を現していた。
「──けっ……ケルベロス!?」
伊吹は咄嗟に知識の中で最も近しいそれの名を口ずさんでいた。
「へぇ……珍しく博識じゃないかイブキ。お前の世界にも居るのかこいつ」
「居る訳ないだろ……居てたまるかこんな怪物……」
「『怪物』ねぇ……フフッ」
伊吹の言葉にどこか楽しげな笑みを零すシャロニカだが、それに気付く者は居ない。
「──ま、まずいっすよ兄貴!」
「どうしたユード……ヤバいのは分かってるぞ」
森の主ケルベロスと女神シャロニカの間に張り詰めた空気が流れている。
何かのきっかけ1つで双方動き出しそうな中、伊吹の袖を引っ張るユードが警鐘を鳴らす。
「──あいつ『野獣』じゃないっす……」
「野獣じゃないなら何なんだ? 超野獣?」
「森の主……いや……『冥界の番犬』は──」
神妙な面持ちのユードが言葉を詰まらせると、その言葉を繋ぐかのように銀鈴の音が響いた。
「──『魔の眷属』……『魔獣ケルベロス』だったのかお前。どうりでしつこいわけだな」
《──グルアアアア!》
「──!」
先に仕掛けたのは『魔獣ケルベロス』だった。
きっかけは肩をすくめたシャロニカが、蔑むように言葉を吐き捨てた瞬間だ──
「危ないシャロニカっ!」
ケルベロスはシャロニカの数倍はゆうにある巨体を、バネのように跳ねさせて一気に距離を詰めてきた。そして三つある頭それぞれが続けざまに凶悪な咢で噛み千切ろうと迫る。
シャロニカはそれを一足飛びで後ろに下がりながら、間一髪の所で躱す。
しかし──二の矢、三の矢と、ケルベロスの連続攻撃は続く為、シャロニカは息つく間もなく避け続けなければならない。
涎を撒き散らしながら開かれる咢が締まる度、牙同士がぶつかり合う鈍い音が響く。
三つの頭はタイミングをずらしながら交互にせり出してくるので、何とも避けづらそうだ。
そして牙を避けた──かと思えばそこに両爪での斬撃も飛んでくるのだから性質が悪い。
『かみつき』と『ひっかき』──獣特有の原始的攻撃方法だが、シンプルにして強力。
ずば抜けた身体能力から繰り出されるが故に、それが最も効果的かつ、効率的な武器になっている。
「──ちっ……! うざったいね……! 『初級炎魔法』!」
ケルベロスの連続攻撃を躱しながらシャロニカが魔法を放つ。
突き出された右掌から放たれる小さな火の玉はケルベロスの顔に直撃したが──
《ガアッ!!》
まったく怯む様子無く猛攻を続ける姿にたまらず険しい表情へと変わるシャロニカ。
しかし負けじと続けざまに次の魔法詠唱に入った。
「──『暗闇魔法』!」
ユードを助け出した際にも活躍した、視界を奪う状態異常魔法がケルベロスを襲う。
三つの頭全てを黒い霧のような物が覆い尽くすとケルベロスの動きが止まった。
「──やった!?」
落ち着かない様子で見守っていたユードが思わず声を上げたが、すぐにそれが間違いだったと思い知らされる。
「ふ~……やっぱ本来の姿だと大分『耐性』上がってるわね……」
ユードは迷わずシャロニカに爪を振るう黒き影を見て驚愕する。
「そんな……昨日は効いてたのに……」
「──っ! ユード! 一体何なんだ『魔獣』ってのは!」
「ぜ、全然気付かなかったんす……まさか『魔獣』と思ってなかったからおいら……でも……」
初めて目にした伊吹にも、その異様さがよく分かるケルベロス。
三つの頭を持つ巨大な犬。激しい敵意を剥き出しにシャロニカに襲いくる姿は尋常ではない。
しかしユードの畏れ方はそれだけではないように感じられる。
「……狙いはおいらじゃなくて……姉御──」
「ユードよりもシャロニカを追ってここまで来たっていうのか? 一体なぜ……?」
「……シャロニカの姉御が……『神の眷属』だからっす……」
──『神の眷属』だから?
なるほど……神族と魔族がいがみ合うよくある関係性って事か。
という事はヤツの狙いは『神の眷属』である女神シャロニカを……殺す事?
でも『死なない』んだよな『眷属』は……だとしたら──
伊吹は思考迷宮に入り込もうとして、それ所じゃない事に気付いて顔を上げた。
眼前ではシャロニカがケルベロスの攻勢に防戦一方だ。
──シャロニカは接近戦向きじゃない……! 何とか躱せてるが致命的な一撃を受けるのは時間の問題だ。
全てを知る由は無いが、恐らく伊吹が想像する以上に強力な魔法を扱う事が出来るであろうシャロニカ。
だがそれを使用すれば必ず反動が出てしまう。
それがどんな影響をもたらすか分からない以上、伊吹は迂闊に強力な魔法を使う事を控えるように伝えていた。
シャロニカはそれを律儀に守っている。だから彼女は伊吹に影響の出ない『初級魔法』や、『状態異常魔法』などで凶悪な『魔獣ケルベロス』と戦っているのである。
しかし大した魔法を使えない、というハンデは想像以上にシビアな物だとシャロニカは実感していた。
──やれやれ……強力な魔法を使わないとこいつの相手はキツイ……けど……どうしたもんか
《──グルアッ!》
シャロニカの動きが一瞬遅れたのを見逃さなかったケルベロスが、鋭い爪を振う。
「──っ!」
それまで何とか紙一重の所で躱していた攻撃を、ついに受けてしまった──
左肩を切り裂かれ、赤い血が滲み始めている。
「シャロニカ──! くっそーー!!」
初めて女神が劣勢に立たされている姿を見た伊吹は、なりふり構わずケルベロスに向かって突進していく。
「──ばっ……! 来るなイブキ! こいつの狙いはお前なんだぞ!」
《──グルルル……》
シャロニカに追撃しようと構えていたケルベロスは、向かってくる伊吹に気付いて三つの顔を向けた。
──狙いが……俺?
──そうか……そうだった……
左手に盾、そして右手に慣れない握り方で振り上げた剣。
昼なのにそこだけぽっかりと穴が開いているように見える程黒いそれ。
禍々しく歪む顔が1つだけなら凶悪だが、三つある様はともすれば面白おかしくも見える。
そしてそれらが別々に伊吹を値踏みするよう観察しているのがよく見えた。
伊吹は走り出した足をなんとか止めようと必死で力を込める。
しかしそれよりも早くケルベロスが動いてくるのを伊吹は感じ取っていた。
──俺が死んだら……シャロニカも死ぬんだった……




