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019/6/1
彼の生活は続く。
当たり前のことだ。
淡々とした日常が彼を支えてくれるはずだ。
翌朝、PCを開くと、予想通りレイからメッセージが入っていた。
「やっほー。リアルな君はなかなかのイケメンだったからびっくりしちゃった。最初はおじさんだけを探していたんだけど。でも、デモ行進をあんなにキョロキョロ観ていると誰かを探しているのすぐにわかっちゃうよ。次は是非参加してね。」
彼はため息をつくと、twitterのアカウント削除の手続きを始めた。
長く使ったアカウントだし、フォロワーもそれなりにいたのだが、仕方がない。
返信を書くつもりはない。
当面捨てアカでロム専に徹するつもりだ。
Life goes on.
高校生の時に英語の教師が教えてくれた。
そうだ、彼の生活は続く。
リアルな世界で堅実に生きる、それを続けるだけだ。
いつもの生活に戻る。
彼の行動は揺るがない。
休日一日目のルーチンをこなす。
買い物をし、食事を作ることを楽しむ。
夕食を食べながらボランティアの前日確認のメールを開く。
スタッフの板倉からのメールだ。
そのメールには正田からのメッセージが添付されていた。
開いてみると、明日のボランティアの依頼がていねいな文体で記されてあった。
昼食も用意すると書いてあった。
彼がネトウヨだとレイ@から聞いたはずだ。
それでも依頼があったことに少し安堵する。
これはバーチャルの世界ではない。
NPOに返信する。
もちろん、依頼は受ける。
彼はなぜかボランティア活動をとても大切にしている。
約束を守ることも彼の信条だ。
板倉のメールには新人が二人、ボランティア活動に参加することも記してあった。
昨日ボランティの登録をしたばかりだそうだ。
いつものように簡単なプロフィールが添付されている。
氏名橘 ゆかり(たちばな ゆかり)
性別女
年齢?
身長165cm
体重?
所属県立大学看護学科
コメントよろしくお願いします。
ボランティア歴なし
氏名八幡 怜
性別女
年齢?
身長169cm
体重?
所属県立大学看護学科
コメント体を動かすことが大好きです。
ボランティア歴なし
簡単でいい加減に見えるプロフィールだ。
しかし、彼の参加しているNPOは名前と所属の確認は非常に厳しい。
彼の場合は免許証と社員証、健康保険証の提示を求められた。住所確認のために直近に受け取った郵便物まで確認された。
もちろん、それらの個人情報が公開されるわけではない。
NPOが送信するプロフィールのうち、氏名と所属だけはチェックされる。
ただしそれ以外は自己申告だ。
ちなみに彼のプロフィールは
氏名水巻 保
年齢29歳
性別男
身長171cm
体重56kg
所属株式会社 N-gear
コメントなし
ボランティア歴7年
彼の場合は身体の数値をちょっと盛っている。
プロフィールに載っている女性の年齢が怪しいことはこれまでに何度も経験してわかっている。
しかし、今回は新人の所属が県立大学とあるので若い女性であることは間違いないだろう。
それでも彼は特に何かを期待するわけでもない。
Ⅷ
2019/6/2
彼の生活は変わらない。
Life goes on.
翌朝。
良い天気だ。
素晴らしい陽気が心地よい。
彼は、正田宅まで単車で行くことにした。
オンラインの地図を確認すると、1時間ぐらい走ればいい。
ナップサックを背負う。
ボランティアで使う用具が入っている。
フルフェイスヘルメットのマスクを開けて走りだす。
心地よい。
10分ほど走ると、信号が殆ど無い山間部になる。
彼には道路がどこまでも伸びているように感じられる。
毛細血管のようにこの国の隅々まで道路が張り巡らされている。
これも「レガシー」なんだと彼は思う。
誰がこの道路を作ったのだろう。
誰も覚えていない。
記録もないかもしれない。
この国の誰かが作ってくれた。
それを自分が享受している。
ありがたいことだ。
人口が減少し、空き家が増え続けているのに都市部ではまだまだ新しい住宅が建設されている。
都市部への人口集中が進む。
地方はますます衰退する。
しかし、彼は懸命になって衰退に抗う地方都市ほど住みやす所はないと信じている。
仕事さえあれば本当に住みやすい。
自炊をすれば生活費は安く、利便性もそこそこある。
治安もよい。
過剰に人が集まるような享楽さえ求めなければ満ち足りる。
深夜まで煌々と輝くネオン街は彼には不必要だ。
カブのエンジンは心地よく回る。
坂道を一気に駆け上る。
峠を抜ければ目的地まであと少し。
鬱蒼とした雑木林の中を道路が延びている。
レガシーと美しい自然に感謝する。
ニポン人が自然に対して信仰心を持ったのもうなずける。
目的地の「元空き家」が見えた。
正田の姿も見える。
彼に気づいたのだろうか、手を振ってくれた。
門扉の手前までカブを走らせて挨拶をする。
単車を庭に入れて良いかを確認する。
庭に廃棄する物品が置かれていた。
「どうですか?」と彼が訊くと、
「うーん、なかなか思うようには進まなくて。」
「家の方、すぐに見せてもらってもよろしいですか。」
と彼が訊くと、正田が玄関のドアを開けてくれた。
彼はナップサックからcrocsを取り出して
「これいいですか?ものを運ぶときは素足より作業しやすいんで。
あ、床は傷まないでから。」
と彼が言うと、正田は快諾してくれる。
廊下には水を貼ったバケツが2つ。
バケツにはそれぞれ数枚の雑巾がかけられている。
廊下が綺麗に掃除されている。
水拭きをしたようで、ホコリも殆ど無い。
ただ、床の痛みが目立つ。
「部屋を見せてもらってもよろしいですか。」
と訊くと正田が、
「ええ、でも客間だけは、、、ちょっと恥ずかしいから、他のところをお願いします。」
と言った。
そこで寝起きしているのだろう。
広いキッチンでは食器棚の扉がすべて開いていた。
食器が取り出されて、床に並べてあった。
テーブルが綺麗に片付けられている。
今日の昼食だろうか、ルクルーゼが電磁調理器にかかっている。
この他に6畳位の部屋が5つもあった。
ちょっと奇妙な作りだ。
それぞれの部屋に同じような洋タンスとベッドがしつらえてある。
ベッドのマットレスは変色している。使うのは無理だろう。
ベッド本体はばらして運び出さないといけないようだ。
それぞれの部屋には結構な数の段ボール箱がおいてあり、「廃棄」と書かれている。
捨てるものの仕分けが済んでいるようだ。
そんなことを考えているとインターフォンが鳴った。
正田が出迎えに向かう。
二人の女性が入ってきた。
彼を見て一人が、
「やっほー。」と言いながら手を振った。
山登りかいとツッコミを入れたいところだが、どこかで聴いたことがある。
「あー。」
と口にしてしまう。
それを遮るように
「 八幡怜です。よろしくおねがいしまーす。」
大きな声だ。
「 橘ゆかりです。おねがいします。」
冷静に、冷静に、平静に、平常心で、、、、
それにしても驚いた。
「水巻保です。よろしくお願いします。」
冷静に、努めて平静に、何でもない、、、、
「このボランティアは初めてですよね。」
二人は彼をまっすぐ見つめて、
「はい、よろしくお願いします。」
と声を揃えて言った。
おろ、わりとしおらしい、、、かな、と感じる。
彼は努めて平静に
「今日の段取りを確認しましょう。」
四人で部屋を順に見て回る。
ざっと、廃棄する家具を調べて移動する順番を考える。
キッチンにある食器棚やテーブルはけっこういいもののようだ。
傷んでいるものもあるが、リストアしたらまだまだ使えそうなものもある。
廃棄と書かれた紙がはられた食器棚を見て、
「正田さん、これ捨てるんですか?」
と訊く。
「ええ、けっこう傷んでるし。」
「あの、この食器棚、随分といい木材を使っているみたいです。」
「そうですか?」
「合板が全然使われてないから、、、磨いて塗り直したら長く使えそうですよ。」
「でも、私、そんなことできないわ。あ、もし良かったら水巻さんが使ってくれない?」
「いや、いいです。自分はこういうの使わないんです。」
と彼が断るとレイが
「そんなにいいものなら、私達が使ってもいいですか。」
と言った。
「あ、どうぞ、是非使ってくださいな。。」
と正田が応えた。
彼は
「でも、学生さんでしょう。これを運ぶ運送費、レストアにかかる費用、全部合わせたら普通の食器棚が買えちゃうよ。」
とやや意地悪く言う。
「あ、大丈夫ですよ。私達、ここに住むんだから。時間をかけて自分たちで綺麗にするわ。」
と怜が応えた。
「え、ここに住むの?」
と彼が訊くと
「あら、ごめんなさい。水巻さんは知らなかったわね。
実は、この家を片付けて一階を下宿っていうか、シェアハウスにしようと思ってるの。
私一人が住むには広すぎるし、物騒だし。
学生さんに一緒に住んでもらえば心強いでしょう。」
怜が
「デモのあとで、話が盛り上がって、一緒に晩ごはんを食べたんです。
そのときに、シェアハウスの話を伺って。
学校にも近いし、月に3万円くらいでいいって話なので。
うまくいったらすごく助かるんです。」
「そうなの、なんか不思議な縁で。水巻さんが現れなかったら私達が話をすることなんかなかったわ。」
と正田が言った。
彼はどう反応してよいかがわからなかった。
でも、どんな話になったのかも気になるが彼にはもっと気になることがあった。
例によって平静を装い、
「シェアハウスには結構興味があります」
と言った。
おい、保よ。
ちょっとどころじゃないだろ。
シェアハウスを作るプランはお前がずっと考えてきたことだろう。
怜が
「えー。ダメだよ、水巻さん。このシェアハウスは女性専用ですよ。」
ゆかりが、
「安心して寝れないじゃないですか。」
という。
水巻は苦笑いしながら、
「いや、ここに自分が住みたいという意味じゃないんです。」
彼が二人の話を遮るように言った。
「それはまた後にしましょう。
家具の中で使えそうなものは残しましょう。
使えない物を運び出しましょう。」
重い家具を3人で運びだす。
彼が片側を持ち、もう片方を怜と橘ゆかりが持つ。
彼は二人がすぐに音をあげるだろと考えていたのだが、なかなかそうならない。
橘ゆかりがちょっとつらそうだったが、怜が
「ゆかりちゃん、こっちは水巻さんと二人で大丈夫だから、、、正田さんを手伝って。」
それから、彼と怜で運び出しを続けた。
怜はほとんど疲れたようにも見えないし、けっこう力も強いようだ。
重い家具を持ち上げるときの体の使い方がうまい。
このような作業に慣れていないと、腰を不自然に曲げて、体に負担をかけてしまう。
しかし、怜は足の力をうまく使って持ち上げている。
妙に心に引っかかる。
彼がレイ@に抱いていたイメージとリアルな怜の姿に大きな違和感を感じるのだ。
なんというか、やけにたくましい。
いきなり写真を撮るという無茶もするし、何なのだろう。
写真を撮られたことが頭に浮かぶと、嫌味を言いたくなった。
庭に洋箪笥を運び出したあと、怜に話しかけた。
「あの、八幡さん。ちょっといいっすか?
ちょっと気になることがあるんですけど。」
「えぇ。なんですか。」
と怜が応える。
「いやね、八幡さん。あなた、身長が169cmですよね。
ダイレクトメッセージに書いてあったし、NPOが送ってきたプロフにもそうありました。
でもね、今、ローファー履いてるっしょ。それなのに自分より背が高いように見えるんですがね。」
「あ、身長のことはね、水巻さんが間違えていますよ。
女の子の身長が169cmというのはね、それは背が高いという意味なんです。
数字は象徴的なものですよ。わかります?」
怜は微笑んで水巻を真っ直ぐ見つめる。
あれ、笑顔が意外にかわいい。
「うーん、、BBB(信用力は十分であるが、将来環境が大きく変化する場合、注意すべき要素がある)。」
あれ、これ、掲示板でよく出てくる投資の格付け符号だ。
「えっ?」
「いや、なんでも。」
こうしてみるとけっこう美人だ。
個性的な美人というのだろうか。
薄化粧で、ショートカットにしている。
スタイルは抜群だ。
今まで何を見ていたのだ?朴念仁にも程がある。
全くもって困った奴だ。
「でも、水巻さん、この話題、やめたほうがいいんじゃない?」
怜の口調が変化する。
「水巻さんが履いている靴、けっこう底が厚そうなんだけど。
私より背が低いみたい。171cmだったはずだけど。」
しっかり観察されている。
「あ、そうそう、、廃棄するベッドがたくさんあるからバラしましょう。」
さらりとかわす。
いや、かわしたつもりだ。
部屋に戻って作業を始める。
彼はザックに入れて持参した工具でベッドを手際よく分解し始めた。
工具は彼のザックに入るサイズなので、そう大きなものではない。
コツさえ掴んでいればさほど時間はかからない。
ばらばらになったパーツを怜が集めて廊下に運び出す。
二人とも汗をかいた。
正田が昼ごはんを用意してくれていた。
パンとラタトゥユの簡単な食事だったが美味しかった。
いつもは手弁当なのだが、今回は素直に正田の申し出を受けた。
正田からこの後どのようにすればよいのかを訊かれた。
彼には空き家をリフォームした経験があった。
彼は資金がないのでほとんどDIYでこなした。
できるだけ、一人ですべてをこなすために、さんざん調べたのだ。
時間はかかったが実際に空き家を綺麗にリフォームしてしまった。
その知識を元に、ざっと説明した。
信頼できるリフォーム業者の情報もNPOにあることを伝える。
午後からの段取りを相談する。
「一階はあと少しですね。残りは正田さんと橘さんでやっていただけますか。
自分と八幡さんで二階の不要品を廃棄します。」
彼は続ける。
「庭に運びだした廃棄物ですけど、あ、処理の方法ですが、普通のゴミ収集では無理です。
でも、市のクリーンセンターに連絡したら収集に来てくれますよ。」
正田が
「わかりました。すぐに連絡して処分してもらいます。」
と応えた。
二階は比較的傷んでいなかった。
それにしても立派な家だ。
二階にトイレがある家は珍しくないが、浴室まで付いている。
四人は夕刻まで片付けを続けた。
彼がボランティアとして手伝うことはほぼ終わりだ。
あとは正田一人でも時間をかければなんとかなるだろう。
怜たちが手伝えばもっと早く片付くはずだ。
切り上げ時だと考えた彼は、新人ボランティアの二人に
「そろそろ終わりにしましょうか。」
と声をかけた。
二人とも素直に同意してくれた。
帰り支度をして、正田にその旨を伝える。
「本当にありがとうございました。
どうなるかと思ったのですが、これで目途がたちました。」
彼がいつもの挨拶をしようとすると、それを遮るように正田が
「あの、厚かましいお願いなんですけど、、、
水巻さん、もう少し相談に乗っていただけないかしら。
NPOさんを通してではなく、個人的なお願いになると思います。少ないとは思いますがお礼もします。
私はこの家を離れて長いのでこの辺りに知り合いが少ないんです。業者さんにお願いすると言っても私だけだと心配なんです。どうか、お願いします。」
と頭を下げられた。
「あ、いいっすよ。でもNPOを通してください。自分にできることならやります。謝礼は必要ないですよ。」
普段の彼なら絶対に受けない申し出だ。
妙な人間関係は苦手だし煩わしい。
しかし、シェアハウスにするのならどうしても関わっておきたかった。
彼が心に長くあたためてきたプランがあるためだ。
正田の家を出ると、怜が
「水巻さん、一緒に晩ごはんしませんか。」
と誘ってくれた。
しかし、彼は
「いや、自分は外食は出来る限りしないんです。」
なにしてんだよ。
一緒にいけよな。
何年ぶりだ?女子に誘ってもらったの。
「えー、せっかくAsayake@(アサヤケ)さんと話ができると思ってたのに。」
ぴくり!
「あーー、そう来るか。」
橘ゆかりが
「怜さん、Asayake@って何のことなんですか。」
と言ったので、彼は
「あれ、何も話してないのかな。」
と思う。
怜が
「ネトウヨのAsayakeさんでしょう。」
水巻が
「そうだよ。レイ@さんですね。」
怜が
「でも、びっくりしちゃった。
デモのときに正田さんが私と水巻さんが知り合いだと勘違いされたの。
それがきっかけで話をすることになったんだけど。
ボランティアを長く続けている方だと言われたんだ。
実際に会ってみるとダイレクトメッセージのイメージと全然合わなくてびっくりしちゃった。
今日もボランティアなのに懸命に頑張るし。」
彼は少しムッとする。
当たり前だ。
こちらは勤労者だ。
ボランティアでもいい加減なことはしない。
無責任な学生とは違うのだ。
それなりに背負うものもある。
おい、保。
おまえね、独り身だろう。大したもんを背負っていないんじゃないのか。
「じゃ、家にきますか?
自分はもっぱら自炊なんで。
大したものはできないけど、この町のファミレスよりはずっとマシなものができますよ。」
とやや挑発するように言う。
怜が
「あ、ちょうどいいわ。次のデモは土曜日だから。その後なら行けるかも。水巻さんの家って近いんでしょう。」
と言うとゆかりがびっくりしたように、
「えー。怜さん。大丈夫ですか。」
と、心配そうに言った。
「大丈夫よ。正田さんもデモに行くそうだから一緒に来てもらえれば心強いでしょう。水巻さん、正田さんも誘ってもいい?水巻さんから話を聞きたいそうだし、、、。もちろん、ゆかりも。」
と怜が言う。
「三人すか。いいですよ。賑やかにやりましょう。」
と彼が言うと
「じゃ、連絡先を交換。
twitterみたいに逃亡しちゃダメですよ。」
何のアドレスを交換するか二人とも迷ったが、とりあえずwebメールのアドレスを使うことにした。
スマホを触りながら水巻が、
「あのね、逃亡ってね、だれでもいきなり写真撮られたらビビるでしょう。
それと、危ないやつだったらどうするつもりだったんだよ。
因縁つけられてたかもしれないよ。」
というと、怜が
「私はデモの見学者がたくさん集まっているところを撮っただけです。
水巻さん、明るい街灯の下に立っていたからよく見えました。
キョロキョロして、あれほど熱心に参加者見ていた人いないですよ。
最初はおじさんかと思ってたんですけど。」
と応えた。
彼は苦々しく
「一応、こんな顔だけど肖像権があるんですよ。」
と言うと
「こんな顔って、なかなかのイケメンですよ。」
「いや、そうじゃなくて、、、」
この調子ではぐらかされる。
「じゃ、正田さんに連絡してからメールを入れますね。」
「じゃ、今日はこれで。」
というと、彼はカブのエンジンをかける。
まだ、陽の明かりが残っている。
山道は陽があるほうが走りやすい。
カブを走らせながら彼は自問する。
「これは偶然なのか。」
よく考えてみると3人とも素敵な女性と言えないこともない。
しかし、面倒なことは避けてきたはずだ。
保よ。お前ね、この機会には感謝すべきなんだぞ。
Ⅸ
2019/6/7
彼の生活は変わらない。
Life goes on.
会社に行き、淡々と仕事をこなす。
日常が繰り返される。
金曜日の夜、怜と正田からメールが入る。
「やっほー。まさか忘れてないよね。
明日だよ。3人だからよろしくお願いします。
前のデモで会った場所、覚えているでしょう。
あそこまで行ったら私達も抜けるから迎えに来てね。
ごちそう、期待してマース。」
まったく、、、。
なんというか。
正田からのメールは恐ろしいほど丁寧で、自宅を訪れることを詫び、許しを請い、礼を述べ、、、、
パソコンに既成のフォントで表示されているのにまるで達筆な手書きの手紙を読んでいるように感じる。
「あー、この人インテリなんだ。
レイ@のメールと全然違うじゃないか。」
とぶつぶつ言いながら「了承」の返信を書く。
自分が書いた返信を読み返すと、どう読んでも正田のものより怜のメールに似ているように感じる。
「あー、、、自己嫌悪、、、こんなメールを書けるはずないよな。」
彼にしては珍しくネットのチェックもそこそこに寝てしまった。
2019/6/8(土)
翌朝。
ルーチンワークをこなす。
その合間に買い出しに出る。
今日は4人分の食材が必要だ。
いつもの生鮮食料品店の開店に間に合うように出かける。
ここは開店時には行列ができる。
野菜にきのこ、それから鯛をまるごと一匹。
ここでは大量の魚や肉が販売されており、どれも安価だ。
その鯛をさばいてもらう。
2枚におろしてもらって、兜を割ってもらう。
自分でやって出来ないことはないのだが、やはりプロは手際が良い。
比較的大きな鯛だが1500円で買うことができた。
野菜と合わせても2000円ほどだ。
自宅で昼食を作り、ネットで雑誌を読み、軽く昼寝をする。
ルーチンワークが一段落したところで、夕食の下ごしらえを始める。
今日は鯛一匹を味わいつくすつもりだ。
彼一人だと鯛を1匹買うと冷凍保存をするか数日間食べ続けるかになる。
まずはペティナイフと出刃包丁を砥ぐ。
あらに熱湯をかけて霜降りにし、ウロコとよごれを丁寧に取り除く。
かまの部分を切り離す。
「ここが一番うまいんだよな。」
彼はそう思っている。
ステンレスのバットに移して酒をふる。
鯛の半身は湯引きの刺し身にするつもりだ。
ウロコの残りを剥がし、皮目に熱湯を書ける。
冷水にとってから、大きめに切る。
1/4ほどは残して鯛めしに入れる。
包丁はよく研いであるので気持ちよく切れる。
大皿に綺麗に盛りつけてから冷蔵庫にしまう。
残りの骨のついた半身は出刃包丁で切り身にする。
こちらは松前焼きにするつもりだ。
あらの兜の部分をオーブンに入れて焦げ目がつくまで焼く。
米をていねいにといでゆびきの残りと昆布、焼いた兜を入れる。
薄めに味をつけて、炊飯器にセットする。
あとは、野菜を切って、火を通せば良い。
調理に使った道具を洗う。
魚を扱ったあとは特にていねいに作業する。
まな板、シンクを磨き上げる。
台所は片付いた。
パソコンを開く。
怜にハングアウトのメッセージを送る。
彼のアドレスが承認されて通話が可能になった。
今日のデモをネットで調べてみる。
twitterで参加を呼びかけるツイートが結構多い。
この町にこんなに「サヨ」の人たちは多かったのだろうか?
実際に投票する国民にって180日の周知期間は長い。
本来、国際情勢を考え、改正案の是非を決めるにはこの期間は不十分かもしれない。
メディアでは相変わらず、感情的な議論が、沸騰し、沈静化し、それを繰り返している。
東京オリンピックを1年後に控えているため、有名選手が「意見広告」に駆り出される。
改正を目論む与党側は広告費をつぎ込む。
好感度の高い俳優を起用し、
「日本のために憲法改正!」
というフレーズを連呼させる。
対抗する陣営も有名人を担ぎ出し、市民運動を展開し、改正の阻止を図る。
「飽きやすい」と言われたニポン人であるが、投票日は決まっている。
その日まではどちらも降りることができない。
この結果で、このニポン国の骨子がどうなるかが決まる、、、、、
そういう「思い」が次第に広がっているように思える。
8時前に家を出た。
レイ@が彼にハングアウトを通して、予定通りであることを伝えてきた。
今日はデモ行進の真ん中辺りにいるそうだ。
うーん。ま、時代なんかね。
男の保が料理をして女の子を迎えるか?
大通りに着くと、テレビのクルーがデモを撮影しようと準備をしていた。
「へぇー。こんな田舎町のデモまで報道されるんだ。」
デモ隊が近づいてくる。
シュプレヒコール、ラップ音、ドラム音、、、、なんと賑やかなことだ。
2回目なのにすごい人だ。
彼は参加者が減ると考えていた。
意外だった。
爺さん、婆さんばかりとネットには書かれていたが、若い参加者も目につく。
子連れの母親も結構いる。
行進しながら歩道にいる彼に手を振ってくる。
「あ、、、」
写真を撮られたことを思い出して、一瞬固くなる。
思ったよりも時間がかかりそうだ。
スマホのハングアウトの音声通話でレイを呼び出す。
「あ、、水巻くん。やっほー。」
「またそれか。人が多いんでそっちに向かって歩いて行くよ。
デモ隊から見たら、左側の歩道だよ。
見つけたら、これで連絡するから。」
5分ほど歩きながら隊列を眺めていた。
すると長身の怜が目に入った。
向こうも気がついたようで手を振っている。
思わず振り返してしまった。
3人と合流し、挨拶もそこそこに彼の家に向かって歩き始める。
「ね、水巻くんはどんなところに住んでるの?
このあたりには賃貸のマンションはあまりないよね。」
と怜。
「マンションじゃないよ。一軒家を借りているんだ。」
「へぇ、それってけっこうお金がかかるんじゃないんですか?」
ゆかりが訊いたので彼が答える。
「いや、それがいろいろ事情があってすごく安く貸してもらっているんで。」
「え、いろいろあったって。事故物件とか?
あたし、そういうのちょっと苦手なの。」
と怜がいう。
なんか奇妙な知識を持っている。
「いや、そういう訳じゃないんだけど。食事をしながらでも説明しますよ。」
当たり障りのない話をしているうちに、彼の家に着いた。
周りが暗いので家全体は見えない。
入り口に小さな外灯がついている。
「どうぞ。」
鍵を開け、3人を招き入れる。
「あれーーー。全然イメージと違う。ここに一人で住んでるの?」
と怜が言う。
室内は隅々まで掃除がされている。
リビングダイニングに3人を通して、とりあえず座ってもらう。
テーブルはそう大きなものではない。
それでもなんとか4人が食事をとることはできる。
「今は一人暮らしだよ。」
と彼が応える。
「おじさんの一人暮らしなのに、、、びっくりするくらい綺麗されてますね。」
と、ゆかりが無遠慮に言った。
「おじさんか、、、。ま、大学生の君たちから見たらそうかもしれないね。」
彼が言うと、正田が
「え、、水巻さんがおじさんなら、私はおばあちゃんになってしまうわ。」
「あ、ごめんなさい。なんかあまりにイメージが違って、、、変なこと言っちゃいました。」
とゆかりが詫びた。
「いえ、そんなに気を使わないで。
水巻さん、これおみやげです。
お酒だからお好きだったらなんですけどみんなでいただきませんか。」
正田はそう言って、ザックから5合瓶を取り出した。
「これ10年ものの古酒なの。
もらってから2年くらい経つから12年ものかしら。」
「あ、泡盛ですね。10年ものって、、、すげえな。」
と彼が応える。
彼は蒸留酒を水割りにして嗜む。
もっぱらタカラ焼酎を飲んでいるのだが。
その無味無臭であるところが好きなのだ。
もっとも焼酎やウイスキー、泡盛の良いものの味も知っている。
「あの、私もけっこうお酒は好きです。」
と怜が言った。
ゆかりもそれなりに飲めるそうだ。
正田が
「へぇ、めずらしいわね。今の若い方はお酒を飲まない方が多いって聞いたんだけど。」
というと、
「いや、飲まない友達が多いですよ。自分も外で飲むことはほとんどないです。」
と彼が応えた。
「じゃ、始めましょうか。」
グラスと氷を出す。
先ほど仕込んだ鯛の刺身を出す。
自分の分を小皿に取り分けて、シンクの前に立ったまま食べる。
古酒を少し口に含む。
「うまい。」
ほんのりとした甘みを感じる。
これは極上の酒だ。
鯛の湯引きもうまい。
そのまま調理の続きをする。
正田が驚いて
「一緒に食べないんですか。」
と訊くので、
「いえ、自分は料理を作りながら、飲みますし、食べもします。
気にせずにやってください。
一段落したら一緒に食べます。
それにしても、この古酒、ものすごくうまいですね。」
スキレットに昆布を敷きつめて、日本酒と水を注ぐ。
鯛の切り身を並べて強火で蒸し焼きにする。
出来上がった鯛を4枚の皿に取り分ける。
スキレットに残っただしで野菜ときのこをさっとゆでてその皿に添える。
薬味とポン酢をそえてテーブルに出す。
スキレットに汁椀4杯分の水を注ぎ、弱火にかける。
切り身の残りと、あらのかまに味噌をつけてオーブンに入れ、タイマーをセットする。
炊きあがったご飯からあらと昆布を取り出す。
鯛の身を崩して軽く混ぜる。
スキレットのだしの残りが沸き立つ前に火を止める。
昆布を取り出して、味噌を溶く。
汁椀4つに戻したわかめを入れる。
作りおきの浅漬を出す。
ここまでを流れるようにこなして、テーブルの席につく。
少し冷えた松前焼きをポン酢につけて食べる。
古酒を飲む。
3人の視線が彼に突き刺さる。
怜が言う。
「あの、水巻さん。
あの、訊きたいことがたくさんあって、何から訊いたらいいかわからないんだけど。
とりあえずありがとうございます。すごく美味しいです。」
「ども、もうすぐ焼き物ができるから。
それから、ご飯と汁もあるんで、好きなだけ食べてください。」
と彼が応える。
ゆかりと正田も「美味しい。」と同意してくれた。
「あの、私、独身の男性の部屋に入ったの、25年ぶりです。」
と正田が言うと、場が和み、皆が笑った。
正田は続けて
「あの、本来なら私がお礼をしないといけないのに、今日は何故かごちそうになっています。
水巻さんとはまだ2回お会いしただけなのにほんとに厚かましくてごめんなさい。」
彼が応える。
「いや、最初は誰もが他人でしょう。
でも、確かに自分もこのメンバーでご飯を食べるとは想像もしなかったです。」
「じゃ、どうして誘ってくれたの?」
と怜が訊いた。
「いや、ボランティアの後で、ご飯の話になったでしょう。
自分はほとんど外食をしないんです。
お金がもったいないし、つまらないものを食べるのなら自分で作ったほうがうまいんで。
それと、ここのところあまりに偶然が重なったので、なんとなく、、好奇心というか。」
「へぇ、それって、怜さんに興味を持ったってことなの?」
ゆかりがずけずけという。
「いや、そういう訳じゃないんだけども。」
「水巻さんって、ネトウヨなんでしょう。
けっこう、過激な書き込みもしているようなのに、、、
全然イメージが違うよ。」
と怜。
「うーん。ネトウヨと言われると怒る人の方が多いだろうけど。
自分は別にそれで構わないと思ってます。
どんな人たちが自分が同じような書き込みをしているのか、、
実は自分にもわからないですね。」
「でも、この家、ものすごく綺麗に片付いているし、一人暮らしなのにこんなとこに住んでるし。
料理もすごく手馴れているようだし。水巻さんって何をしている人なの?」
と怜が訊いた。
「工員ですよ。
自分は工業高校を卒業してから今の会社に入って、それから12年になります。」
「へぇ、そうなんだ。」
「だから、なんの心配もなく育った、お嬢さんたちとは考え方が違うのかもしれないですね。」
彼は少し棘のある言い方をする。
「あ、そうなんだ。あたしもそういうお嬢さんとはあまり考え方が合わないような気がするわ。」
と怜が言う。
ゆかりが
「私もそう思うわ。話を合わそうとはするんだけど、どうしても『違うな』と感じてしまうこと
がもあるの。」
何か話が咬み合わないと彼は感じる。
「いや、自分はあなた達の事を言ったんだけど。」と彼は心の中でつぶやく。
ゆかりが笑いながら
「水巻さん、さっきおじさんって言っちゃったけどね、大学ではね、私達二人はおばさんなの。」
「へ?」
「あのね、高校生や大学生の頃って歳が3つも違えばすごく年上に感じるでしょう。」
「自分は高校までですけど、まぁ、そうでしょうね。」
「私は今3回生だけど、25歳なの。同級生の子たちは20歳とか21歳だよ。」
怜が
「あ、私2回生ね。」
「え、ゆかりさんの話し方を聞いていたら怜さんのほうが年上だと思っていました。」
「あーー。失礼ね。でも、その通りなの。
ゆかりは高校のバレーボール部の後輩だよ。
私はね、同級生の子たちより6年遅れて大学に入ったの。」
「は、、6年も浪人したんすか?」
「そんなひどいことを言うの?私そんなに馬鹿じゃないよ。」
と怜。
ゆかりが言う。
「怜さん、お金を貯めるために働いていたんだよ。
毎年、入学試験を受けて、合格して、辞退して、、、。
すごく頭のいい人だよ。」
「なんとなくたくましい感じがしたけど。働いてたんだ。」
怜が
「たくましいは余計だけど、、、。
でも、ゆかりも同じじゃん。
随分頑張ってお金を稼いで。」
ゆかりが
「でも、私の場合は楽な仕事を選んだから。」
と言う。
彼が
「楽な仕事って何をしていたの?」
と訊くと
「キャバ嬢。お酒もそこで覚えちゃった。」
とゆかりが答えた。
「えーーーーーー」
驚いたが、表情に出さないようにする。
しかし、顔が引きつる。
怜が言った。
「ゆかりはね、2年間事務員をやって、思うように貯金ができなかったから、やめちゃったの。それから、昼間はスーパーでレジ打ち、夜はキャバ嬢で、ほぼ2年間でお金を貯めたんだよ。」
「じゃ、怜さんは何やってたの?」
「配送員ですよ。食品の宅配の仕事ね。生協って言えば知ってるでしょう。初任から結構もらえるの。でも、長くやってもあまり給料は上がらないんだけど。長く務めるつもりはなかったからそれでよかの。
最初は事務やってね、あ、ゆかりと一緒ね、それから免許とってから配送ドライバーに変わったの。
そっちの方が給与がいいから。しんどいけどね、頑張ればそれなりにお金がもらえるところだったし、若い女の子ということで皆にすごくかわいがってもらったわ。」
正田がいつの間にか、汁を作り、ご飯をつけてくれた。
オーブンから焼き物も出してくれた。
彼が用意した浅漬も出してくれる。
4人とも満腹するまで食べた。
怜が
「おいしかった。こんな展開ってびっくりだよね。」
と言ったが、彼のほうも一連の出来事は予期できないものだった。
怜とゆかりは食器を片付け始めた。
彼はその様子を眺めていたが、二人ともすごく手際がいい。
慣れているのだろう。
あっという間に片付けてくれた。
時計を見ると11時を回っていた。
正田の用意してくれた古酒も飲んでしまった。
話は尽きない。
玄関のインターホンが鳴る。
彼が出ると、タクシーの迎車だった。
正田が呼んでくれたようだ。
3人が慌てて帰り支度をして、彼の家を飛び出す。
「なんか、正田さんの相談、全然できなかったね。」
と帰り間際に怜が言った。
「じゃ、また連絡します。
今日はごちそうさまでした。」
怜がそう言うと皆彼に頭を下げて帰っていった。
3人が帰ってしまうと、家の中は急に静かになった。
妙な寂しさを感じる。
保、、、寂しいだろ。
どうして寂しいかわかるか?
Ⅹ
2019/6/9
翌日の日曜日。
正田からメールが入っていた。
丁寧な礼が記されており、次の土曜日の彼の都合を尋ねる内容だった。
土曜日は彼にとってルーチンワークをこなす日だ。
長く外に出てしまうと予定が大きく狂う。
日曜日のほうが都合が良いことをメールで伝える。
朝食をとってから手早く弁当を作る。
NPOとの打ち合わせに出かける。
空き家の片付けで、厄介な問題があるようだ。
メールでおおよその察しはついている。
単車を事務所の前に停める。
事務所と言っても普通の民家だ。
他のメンバーがすでに集まっていた。
作業を一緒にやったことのあるメンバーもけっこう多い。
各々の服装が面白かった。
「憲法変えるな!平和を守れ!」
というTシャツを着たものがいれば、
「真の独立!私達の憲法を作ろう」
とプリントされたベストを着ているものもいる。
別に両者が喧嘩をするわけでもない。
仲良く作業する仲間だ。
スタッフから説明を受ける。
予想通り今回の片付けはいわゆる「ゴミ屋敷」だ。
行政からNPOに依頼が入ったようだ。
近所からの苦情で行政側が重い腰を上げたようだ。
スタッフが法的には問題がないこと、ごみ処理は行政が請け負ってくれていることが説明された。
住民の女性は認知症が進んでいたようで半ば強制的に施設に移されたそうだ。
もちろん、女性の子どもの同意をとった上のことだ。
実際に認知症であったかはわからないと彼は思う。
でも、異常な行動であるから認知症ということで片付けられてしまう。
老齢で体が動かず、片付けを諦めてしまったのかもしれない。
子どもが寄り付かない寂しさから異常な行動に走ったのかもしれない。
ただ、そういうことはボランティアのあずかり知らないところだ。
写真を確認すると、庭にゴミ袋が積まれている。家の中は見えないが玄関口にもゴミ袋が見える。
こういうところの片付けは少人数でやると辛い。
そのことをNPOのスタッフは重々わかっている。
だから、ボランティアの都合を調整して多人数で一気に片付ける。
メンバー同士、予定を確認して2週間後の土日に作業することが決まった。
彼は日曜日だけ参加することにする。
彼の生活は変わらない。
Life goes on.
会社に行き、淡々と仕事をこなす。
日常が繰り返される。
2019/6/16
正田と約束した日曜日。
快晴だった。
単車で行きたいところだが、電車で来るようにメールに記されていた。
怜たちも来るそうだからおおよそ何があるかは察しがつく。
10時前に正田の家に着いた。
庭に運びだされた廃棄物がなくなっている。
クリーンセンタにーに頼んだのだろう。
家の中もさらに綺麗に掃除されていた。
正田が
「一応、不要なものの片付けは終わりました。
ここからどうするかを相談に乗っていただければ助かります。」
彼は
「ちょっと部屋を調べさせてください。」
といって、部屋を調べてまわった。
ところどころ傷んでいる。
壁紙や床板が劣化し、ところどころ浮いている。
床を踏んで確認すると、根田はしっかりとしているようだ。
もともと頑丈に作られた家なのだろう。
水回りもそう傷んでいない。
家の外に出て給湯器を調べる。
「学生さん向けのシェアハウスにされるんですよね?」
と彼が訊くと
「そうなの、そんなにたくさんでなくても収入があるのはありがたいし、一人で住むには広すぎるでしょう。」
「素人考えですが構いませんか。」
「ええ、もちろん。」
正田はメモを取りながら彼の話を聞いた。
「最低限、壁紙の張替えと床の張替えは必要ですね。
女の方がたくさん住まわれるわけでうから給湯システムの交換が必要でしょうね。
あとは予算との相談になりますが、トイレは洋式に替えて、今ある男性用は不要ですから、そちらのスペースを使ってトイレを一つ増やした方がいいでしょう。
玄関のドアは今のままじゃちょっと頼りないので、、交換して鍵も新しいタイプにしたほうが安心できますね。」
彼は思いつくことを次々と述べていく。
「うーん。なんか大変。どのくらいかかるのかしら。費用のことだけど。」
と正田が訊くので
「欲張らずに、やってもらうことに優先順位をつけて、予算内に収めたらどうでしょうか。」
と彼が応えると、正田が
「500万円くらいが精一杯なんだけど。」
と言った。
「たぶん大丈夫だと思います。」
と彼が応えると正田は安堵したようだ。
「でも500万円も使っちゃうと、、、
一部屋3万円なら、5人入ってもらっても、、、あ、税金もあるでしょうから、回収するの大変ですね。」
と彼が言った。
でも、水巻さんの仕事と全然無関係なことなのによくご存知ですね。」
「実は自分もシェアハウスをやってみたいんです。」
と水巻が応えた時、インターフォンが鳴った。
怜とゆかりがやってきたようだ。
二人が正田に案内されて入ってきた。
手には大きな紙袋をいくつか下げていた。
いろいろと用意してきたようだ。
「今日はこの前のお礼をしようって3人で決めましたの。
私の方の料理は済んでいるから、あとお願いしていいかしら。」
と二人に正田が言う。
「はい、いいですよ。下ごしらえしてあるからすぐできます。」
そう言うと、二人はキッチンに入っていった。
彼と正田が、続いてキッチンに入ると料理が並んでいた。
彼は推められるままに席に着く。
「水巻さん、シェアハウスやりたいっていうのはどういうことですの?」
正田が尋ねると水巻は少しはにかみながら、
「よく不動産投資の話がありますよね。そういのとは違うんです。
ここはシェアハウスといっても実際は学生さんの下宿のようなものでしょう。
たまたま県立大学が近くて、いつも住むところを求めている学生さんがいる。
むしろ、いままで空き家であったことが不思議なくらいですよね。」
と言うと、正田は
「いろんな業者さんからお話をいただきましたけど。私がいつかここに住みたいと思っていたので全部断わりました。」
彼が応える。
「ここがシェアハウスになれば学生さんは安く住めるし、正田さんにも多少のお金が入る。どちらにとってもいいことですよね。」
ゆかりが二人の会話に入る。
「私もすごく助かります。家賃もそうだし、一人だけじゃないからなんか安心して生活できそうです。」
「シェアハウスって皆でワイワイと楽しそうな生活をイメージする人が多いんでしょうね。でも、自分はほんとにそうなるか心配なんです。関係が濃くなりすぎるとしんどいことも増えると思うんです。」
彼がそう言うと正田が
「そうかもしれませんね。」
と同意する。
彼が
「会社や学校に行って、家に帰って、また人間関係が難しいなんて最悪ですよね。」
と言うと正田が
「ではどうすればうまくいくんでしょうか。ここも五人の学生さんと一緒に生活することになるでしょうから、是非教えていただきたいわ。」
と訊いてきた。
彼が応える。
「わかりません。ずっと考えているんですけど、わからないんです。どうすればいいでしょうか。」
正田は笑い出した。
「もう、水巻さん、、、すごい答が聞けるのかと、期待しちゃった。」
水巻が
「皆がいつも一緒というのはしんどいですよね。
自分ならせめてそれぞれの部屋にしっかりとした鍵のついたドアをつけます。
人に会いたくない時はまっすぐ自分の部屋に入ることができる。
プライベートがしっかり確保されていると、少しは気が楽になりますよね。」
彼は続けて
「それでもここで生活すると、共有の部分を使わざるを得ないですよね。
キッチンとか、風呂、トイレ、、、
綺麗に使う人ばかりだったらいいんだけど、そうとも限らないですよね。
あ、女性ばかりが住むんだから、男性にだらしない人がいたら大変ですよね。
家の中に見知らぬ男性がいたら、一緒に住んでいる人はびっくりしちゃいますよね。
かといってルールばかり作れば息苦しくなるし。」
「見知らぬ男性というと、私の別れた旦那が時々来ると思うけど。」
正田がとさらりと言った。
水巻はどう答えたらよいかわからない。
「正田さんって離婚していたのか。」
そんなことを考えていると、怜が
「なんか水巻さんの話を聞いていたらここに住むの不安になってきちゃった。」
と言うので彼が
「いや、自分は常に一番悪いことをまず考えちゃうんです。なんていうか、ポジティブシンキングができないんです。たぶん、怜さんなら大丈夫でしょうね。」
と応えた。
怜が鍋を撹拌しながら不満気に言う。
「それ、どういう意味ですか。」
スパイスの匂いがキッチンにたちこめている。
「あとは少し煮込んだら出来上がりです。」
そう言って怜とゆかりがテーブルについた。
正田が
「さあ、食べましょう。」
そう言って取皿を渡してくれた。
和風の野菜の炊き物、魚のマリネ、サラダは卵を使っているのだろうか、たくさん用意されている。
「お昼なんですけど、お酒もありますよ。」
と正田がワインを出してきた。
怜とゆかりが歓声をあげる。
「水巻さんもワインでいいですか。古酒もありますよ。」
と正田が言ってくれた。
水巻にとってはありがたい。
「あ、あの古酒がまた飲めるんですか。」
と彼がそう言うと正田が5合瓶を出してくれた。
料理も酒もうまい。
「あの、自分はずっと一人暮らしをしてるんですが、時々不安になることもあるんです。」
と彼がつぶやくように言った。
正田が応える。
「やっぱりお寂しいのかしら。」
「少しはそれもあるかもしれないですが。普段はなんともないんです。
でも、もうだいぶ前のことですが、インフルエンザになったことがあって。タイミング悪くて、タミフルって薬がだめで。すごい熱が出て一人で寝てたんですが、心細かったですね。」
と彼が言うと怜が
「誰も来てくれなかったの。」
と言った。
「いや、会社の主任さんが心配して見に来てくれました。ほんとありがたかったです。
それから考えるようになったんです。自分の様な生活をしている人も結構いると思うんです。
だから、集まってゆるく繋がるような生活ができたらいいなって。」
そう言うと正田が
「それがシェアハウスなんですか。」
と訊いた。
正田が続けて
「私が学生の頃の下宿って、トイレと風呂が共有のところが結構ありました。シェアハウスとは言わなかったけど。」
と言った。
「自分は最初は社員寮に住みました。名前は寮なんですが、実際はワンルームのアパートを社員の人数分だけ借り上げただけでした。そのアパートには全然知らない人も多かったです。
でも、会社の主任さんから聞いた話では、以前はトイレや風呂が共用で賄いまでついた寮があったそうです。」
彼がそう言うと、ゆかりが
「今は会社がそこまで面倒見てくれないんでしょう。」
と言った。
怜は
「でも、ちょっとやだな。帰ってからも仕事の話になりそうで。休みの日もなんか自由にできない感じがするわ。」
彼が
「たぶんそうでしょうね。だからプライバシーがしっかり守られるワンルームマンションみたいなのが流行ったんでしょう。」
「私、キャバ嬢やってた時は結構家賃払ってワンルームに住んでたわ。お金がもったいなかったけど、変なお客さんもいるから怖かったし。」
ゆかりがそう言うと皆暫く沈黙した。
昼酒ということもあったのか彼にしては珍しく酔った。
怜とゆかりの顔もほんのりと赤い。
ゆかりが続けて言った。
「でも、やっぱり同じマンションに住んでいる人のことはほとんど知らなかったわ。」
「そうでしょう。煩わしさはないでしょうけど。プライバシーを守ることと孤立とは紙一重なんでしょうね。」
彼がゆかりに尋ねる。
「ゆかりさんはどうしてそんなにお金が欲しかったんですか?」
「どうしてだと思います。」
と逆に訊き返された。
「大学ですかね。」
「そうよ。学費が必要だったの。奨学金も考えたけど、いろいろあって自分で稼ぎたかったの。というか、稼ぐしかなかったの。あのね私の家はね耐え難いところだったの。高校出たらすぐに縁を切りたかった。だから飛び出したの。でも変な男とくっついちゃって。別れてからもしつこくつきまとわれたし。警察に相談したらおさまったけど。でもお金が全然たまらなかったから都会に出てキャバ嬢やったの。馬鹿な男がたくさんお金使ってくれたから2年間でなんとか貯められたわ。」
「なんかすごいですね。自分は大学なんて最初から行く気になれなかったけど。そうまでして大学に行きたかったんですか?」
彼がゆかりを見つめて思った。
「あれ、この人、すごい美人じゃないんだろうか。」と、心の中でつぶやく。
保。今頃かよ。
ゆかりが
「でも、看護士になるためにはしかたがないでしょ。あのね、今の世の中、なんだかんだ言って男のほうが有利なのよ。女が自分の給料で自立して生きていくために必要な資格なの。」
怜が
「ここで苦労自慢をしてもなんにもならないけどね。私だって同い年の子と一緒に大学に行きたかったんだよ。でも働く必要があったの。看護士になるのはゆかりと同じ理由よ。」
彼は少し動揺する。この二人は気楽に生きていたお嬢さんではない。前に話をした時にそう感じたが、想像より厳しい生活をしていたのかもしれない。
ゆかりが、言う。
「でも、どうしてこんな話をしちゃったんだろう。水巻さんも変な男かもしれないのに。」
「そうかもしれないけど。」
思わず彼は応えてしまう。気おされたのか彼の口調がやや卑屈になっていた。
「自分の答えはそうじゃないです。所得を増やすより稼ぎが少なくても安心して生きていく方法を見つけたいんです。それに一度だけの人生だからそれなりに楽しみたいですし。」
「自分たちの世代の賃金って安いですよね。これからそんなに増えるとも思えないし。結婚して、家を買って、子供を育てる。そんなことできます?」
怜が
「水巻さんは子供嫌いなの?」
と訊く。
彼が応える。
「そうじゃないんだ。自分の稼ぎじゃ子どもに責任が持てないんです。ゆかりさんや怜さんは多分意思が強いからなんとかなりそうでしょう。でも自分の子供がそうなるかわからないですよね。その子どもを背負い込むだけの甲斐性が自分にないんです。」
怜が言う。
「そうなのかなぁ。そんな風には思えないけど。でもまだ水巻さんの言うシェアハウスってわからないよ。」
彼は口に古酒を含んで言う。
「あの、レガシーと手間と暇なんです。」
ゆかりは酔いが回ったのだろうか?少し乱暴な口調で
「なにそれ?ますます意味わからないよ。」
と言う。
「いや、自分らは上の世代より多分貧しいんです。だからそれに対応して生きていかないといけない。年寄りになっても最後まで自分の面倒をみないといけないんです。でもね上の世代よりいいこともたくさんあるんです。」
と彼がいうと、怜が
「良い事って何なんですか。」
と訊いた。
「レガシーですよ。自分らにはたくさんのレガシーが残されているんです。」
と応えた。
「自分の住んでいるところもレガシーなんです。ありがたく使わせてもらっています。」
Ⅺ
「今住んでいるとこは自分で改装したんです。」
彼は今の住居について語り始めた。
空き家を片付けるボランティアを始めてから、近所に空き家があると気になるようになった。
今住んでいる家はもともとそんな空き家であった。
4年前に見つけ、難儀したものの、なんとか所有者を探しだした。
空き家はいたるところにある。
特に彼の住む地方都市には多い。
安く買えることもわかっていた。
しかし会社の制度を考えてみると所有するより借りるほうが経済的な合理性が高いと彼は考えた。
この家は現在の所有者の両親が住んでいたそうだ。
終の棲家を建てたということで、こじんまりとしているが、よく考えられた良質の建物だ。
しかし、10年間ほど空き家の状態で放置されていたのでところどころ傷んでいた。
彼は、遠く離れて世帯を持った今の所有者にこの家を貸してくれるように粘り強く交渉した。
所有者とは電話で交渉し、その後何度か彼自身が出向いて直接会った。
実際に会ってみると、所有者は十分に裕福な生活をしていた。人柄も信頼できそうだった。
彼自身も、それなりに信用してもらえたという手応えも感じた。
そこで彼は、彼なりに考えた条件を提示した。
外装は50万円ほどかけて大家が修理する。
その修理費は保証金の形で彼が立替える。
最低3年間は家賃を保証する。
家屋の中については、大家に修理の保証を求めない。
ただし、借り主の負担で改装しても構わない。
この条件を提示し、所有者に承諾してもらった。
大家になる所有者には一切の負担を求めなかった。
彼自身、この契約はどちらにもメリットがあると考えた。
大家には、初期の修理費を引いても3年間で100万円程度の収入がある。
もちろん、大家の所得には課税されるが、初期の修理費を減価償却していけば多少とも、手元に残る金額は増える。
遠く離れて空き家を所有している大家にはいろいろと心配事もあるだろう。
それも多少は解消されるはずである。
家の内部は自分でこつこつ手を入れるつもりだった。
彼が何よりこの家を気に入ったのは、どことなく頑丈そうに見えたことだ。
実際にしっかりとした作りであったが。
南側の屋根に太陽光パネルが設置されていた。
特に外側からは傷んでいるように見えなかった。
この家はすごく「もったいない。」と感じたのだ。
しかし、彼が入居した時には発電システムは壊れていた。
ネットを検索し、罵倒されながらも、質問を書き込み、それなりの回答をもらい、、、
インバータを交換すればなんとかなりそうだという結論に至った。
間取りは14畳程のリビングダイニングキッチンと和室が二間であった。
3畳位の収納も付いていた。
和室の一室には掘りごたつが設置されてある。
家に残った家具や荷物は大家と相談して、一部は大家が引き取り、不要なものは廃棄した。
レンタカーの軽トラを借りて、市のクリーンセンターに運び込んだ。
すべて片付けると、文字通りの「空き家」になった。
それから、徹底的に「洗った」。
雑巾をすすぐバケツの水が何度も真っ黒になった。
畳はぶよぶよして、湿気を含んでいた。
その畳をすべて取り払ってクリーンセンターに運び込み廃棄した。
心配していたが、畳の下地板も根田は傷んでいなかった。
畳を上げた部屋の半分にコンパネを敷いた。
仮おきの状態だが、見栄えが多少良くなった。
1週間ほどそのままにして風を通した。
リビングダイニングキッチンは床がしっかりしており、「洗う」とそれなりに使用可能になった。
トイレも、風呂もなんとか使えた。
ここまでやってから、それまで住んでいた会社の寮を引き払った。
冷蔵庫と洗濯機、調理器具、衣服、、、もともと荷物はそう多くない。
使わないと感じたものはすべて捨てた。
残ったものをを新しい住処に運びこんだ。
荷物はすべてリビングダイニングキッチンに収まった。
予め申し込んだあったので光回線はすぐに開通した。
デスクトップパソコンもすぐに復旧させ、ネット環境を整えた。
しばらくの間はこの一部屋だけで生活した。
屋外用のマットを敷き、シュラフで眠った。
仕事の後の時間と休日を使いコツコツと修理をした。
すべての作業をDIYで仕上げるつもりだった。
ここでもネットの情報が大いに役だった。
意外なことにホームセンターで無料でもらえるDIYの手引書も役立った。
工具も必要なものを順次揃えた。
トイレはクッションフロアを剥がし、新しい物に張り替えた。
壁紙も寒色の清潔感のあるものに貼り替えた。
ホコリが付着した換気扇も取り替えた。
便座もウォシュレットを取り付けた。
畳を取り払った部屋にはコンパネを2重に貼り付け、通信販売で購入した天然木の床材で仕上げた。
壁面にもコンパネを貼り、バターミルクペイントで塗装した。
この塗料は想像通りの仕上がりになった。
一番奥の和室をそれなりに仕上げたあと、メタルラックを買い込んで設置した。
荷物をできるだけこの部屋に収納した。
もともと作り付けられていた収納はクローゼットにした。
ただそこに収納するのは同じような衣服ばかりで数も少ない。
彼は、ゆかりと怜の問いに答えながらゆっくりと話をした。
「今の時代、空き家はたくさんあるんです。手を入れればまだまだ住めるところも。手間と暇をかけて自分で改装すれば材料費だけで済みます。先人が残してくれたものを自分らが使わせてもらえばいいんです。しっかりした家ならただ使うだけじゃなくて、守り、引き継ぐんです。」
こう言って話を締めくくった。
Ⅻ
怜が
「水巻さん、随分器用なんですね。」
と言うと、彼が
「いや、多分誰でも時間をかけてじっくりやればできますよ。プロの何倍もの時間がかかっているでしょうけど。」と答えた。
正田が
「私にはとても無理ですね。『誰でも』におばさんは入っているのかしら。」
と言うと皆が笑った。
彼が
「正田さん、自分はDIYの動画を随分見ました。オーストラリアとかニュージーランドのものが多かったんですけど。それ見てたら女性もたくさん出てきましたよ。最初はびっくりしましたけど。」
と、言った。
彼は続けて
「だから、手間と暇なんです。この家でも正田さんができることはたくさんあると思います。」
と言った。
ゆかりが言った。
「水巻さんがあの家に住んでいる理由はわかったんだけど。あ、レガシーって意味も。でも、どうしてシェアハウスなの。今住んでいるところをシェアハウスにするの?」
水巻が応える。
「いや、今のところじゃ無理です。八幡さんや橘さんはシェアハウスは仮住まいだと思っているでしょ。自分が考えているのはそうじゃなくて、場合によっては一生住むところなんです。」
怜が言う。
「ずっと住む?そんなの変だよ。」
彼が
「そうかもしれないですね。結婚して家を持つ、子どもをつくる。それが今までの常識でしょう。それ皆ができると思いますか?自分にとって子育てまでは無理です。一人で住むんだったら大きな家があっても仕方がないでしょ。子どもがいらないんだったら結婚しても仕方がないでしょうし。嫁さん養う甲斐性もないんです。」
怜が
「夫婦二人で働けばなんとかなりそうに思うけど。」
と言った。
彼が
「でも、ギリギリの生活でしょう。お金も時間も。子育てが無理っていうのは『イクメン』するのが無理だってことじゃないです。それくらいの事ならやりますよ。もっと本質的なことなんです。」
ゆかりが
「この国は以前はもっと貧しかったんじゃないの。それでも子どもいっぱいだったよ。」
と言うので
「確かに。でも大部分の人たちは中学校までですぐに働いたでしょう。今の時代にそんなことはできないでしょう。」
と彼が応える。
正田が
「あの、失礼だと思うんですけど、水巻さんって保守的な考え方をお持ちじゃないんですか。今おっしゃられていることは伝統的なニポン人というんでしょうか、少し違うように思いますけど。」
と言うと、彼が
「いや、自分は保守的だと思いますよ。結婚して子どもを作るのなら最後まで責任を持つのが当たり前だと思ってます。いいですか、かつてのニポンはこれほど多くの夫婦が離婚しましたか?子どもがいるのに無責任に別れて、養育費も払わない男もいる。そうなると母子が困窮し、福祉に頼る。簡単にくっついて簡単に別れる。おかしいと思いませんか。」
怜が
「その福祉が不十分だからじゃない。母親が働けるように十分な福祉が必要なんでしょう。働けなくても一定の援助があれば子育てができるじゃない。」
と言うと、彼が
「でも、福祉だけで問題は解決しますか?裕福な家庭の子どもは義務教育時から私学に行く。幼稚園から大学までエスカレータで教育を受ける子もいる。それがいいかどうかはわからないけど少なくともうんと金がかかった教育を受けることができる。そこまでしなくても親が十分な教育を受けさせようとしますよね。福祉がある程度充実しても生活に困窮する子どもがそういう子たちとまともに競争なんてできますか。福祉は税金だからとてもすべての子どもに同じように出来ないでしょう。」
怜が
「じゃ、貧しかったら子どもは諦めないといけないの。そんな社会っておかしいよ。」
彼が
「いや、諦める必要はないと思います。でも親はどんなことをしてもその子が大人になるまで責任を持つべきなんですよ。子どもが成人するまで離婚するなんて責任放棄です。仮面夫婦でも何でも自分たちの子どもの前では夫婦をやるべきでしょう。親が自分の生活を切り詰めてでも精一杯子どもに与えて当然でしょう。そのくらいの覚悟は必要だということなんです。」
怜が
「私はそんなにお金をかけてもらってないよ。それでも将来は結婚して子どもがほしいと思うわ。」
彼が
「そうですか。でも自分には無理だと思ったので。子どものためだけの生活、自分にはそこまでできそうにないんです。せっかく生まれてきたんだから人生をそれなりに楽しみたいですし。それにね、子どもが好きでも突然死んでしまうこともあるでしょう。そうなったら面倒見ることなんてできないですよね。」
というと、怜が
「いくら何でもそんなことまで考えるんだったら誰も子どもなんて作れないじゃないの。」
ゆかりも同意して
「なんか飛躍しすぎですよ。」
と笑いながら言った。
「いや、自分の親父がそうだったんです。結婚して子どもを作って、あ、自分のことですが、家を建てた。でも、自分が中学生のときに癌であっという間に死んじゃいました。親父はしっかり保険に入っていてくれてたんで家のローンは残らなかったんですが。そこには今自分の母親と義理の父が住んでいます。」
彼がそう言うと3人とも押し黙った。
すまない。保。すまない。お前はそんなことを考えていたのか。
ゆかりが厳しい表情で言った。
「子どものことだけは水巻さんの言うとおりだと思う。子どもを作ったら命がけで育てないと。自分の目先の欲望満たすために子どもを犠牲にする親なんてサイテーだよ。そんな親の子はどれだけ苦しむか。私も子どもを持つことは多分無理かもしれない。」
ゆかりが続けて言った。
「あ、でも医者を捕まえれば話は別かも。セレブな専業主婦かな。頑張らなくっちゃ。」
怜が驚いたように
「ゆかりは自立して生きるって言ってたのに。」
ゆかりが笑いながら言う。
「冗談ですよ。男ってほんとにろくでなしばかりだから。」
彼はゆかりの将来を想像する。なぜか、医師と不倫しているゆかりが思い浮かぶ。
「水巻さん、変なこと想像したでしょ。」
とゆかりが言う。
怜が
「えーそうなの。水巻さんどんなこと考えていたの。」
彼はびっくりして答えに詰まり
「あ、憲法のことっす。」
と言うと3人が声を出して笑った。
怜が
「絶対嘘だ。やっぱり変なこと考えていたんだ。ゆかりって鋭いんだよ。」
と言う。
ゆかりがきつい口調で言った。
「どんなこと考えてたのかな。ぜひ聞かせてほしいわ。」
やれやれ、ほんとに奇妙に鋭いところがある。
正田が
「今度の憲法の改正案には家族のことが含まれているけど水巻さんは賛成なの?」
と言った。
「いや、反対です。」
と彼が言うと3人とも驚いたようだった。
怜が
「でも、水巻さんって憲法改正派なんでしょう。反対なの?」
と訊いた。
彼が、
「いや、自分も改正案全部に賛成じゃないんです。というか、あの改正案の『家族』は年寄りのノルスタジーか、単なる責任転嫁ですよ。」
と言った。
ゆかりが
「私がデモに参加する理由はそこだよ。『家族』を押し付けらたらたまらないよ。家族は助けあえって、
余計なお世話だよ。助け合えない家族はどうしたらいいのよ。私がバレー部を選んだ理由は練習時間が長くて家から離れることができたからなんだ。そこで怜さんに会えたことは良かったけど。」
と言うと、怜が
「え、そうだったの。バレーボールが好きで入ったんじゃないの。」
と訊くとゆかりは
「やってみたらおもしろっくって。だから多分好きなんだとは思います。」
と答えた。
「よかった。すっごく厳しい練習をしたもんね。じゃ、どうして水巻さんは憲法改正に賛成なの?」
と訊いたので彼が答えた。
「9条です。あれどう見てもおかしいですよね。今ニポン国には防衛隊があるでしょう。なのに、戦力を持たないって。そんな馬鹿なことがあるはずがない。」
彼は続けて
「自分がそう言うとね、非武装中立で平和な国家って左翼は言うんですよね。そんなお花畑な平和主義でこの国が守れるはずが無いですよ。自分はその一点だけなんです。他の条文は気に食わないけどしかたがない。国防軍が必要なんですよ。」
と言うと、ゆかりが
「そういうことなんだ。でも私は違う。多分水巻さんは『家族』が好きだったんだ。だから、気に食わないと言いながらも許せるんだよ。この国じゃあね、時間をかけて『家』という軛を打ち破ってきたんだよ。それでもね、まだまだ強く縛られているんだよ。今でもね。だから私には今度の改正は絶対に認められない。」
彼が言った。
「いや、それとこの国を守ることを比べたらどちらが重いんですか。国がなければ家族も生活も成り立たないじゃないですか。」
ゆかりが
「じゃ、今度の憲法改正が否決されれば防衛隊はなくなるの?ほんとにそう思うの?これだけのことが憲法に書いてあっても防衛隊はあるじゃない。集団的自衛権も法律で決めちゃったでしょう。なくなるはずがないじゃない。今の憲法があるから防衛隊の拡張を少しでも抑えられるの。だから今のままでいいの。」
と言った。
彼はゆかりがこんなことを考えていたことに驚いた。奇妙で感情的な言い分だとも思う。ただ、ネットでの無機的なやり取りとは違う。肉声で聞いてみると納得するところもある。
「でも変ですよ。デモに参加している人たちは『憲法守れ』と言うじゃないですか。明らかに矛盾してますよ。」
と彼が言うと怜が
「ほとんどの参加者は今より悪くなることを止めたいんじゃないかな。私もそうだよ。」
と言った。
正田が口を開く。
「私も非武装中立を信じたこともあったわ。でも今はそうは思わない。」
彼が
「じゃ、何故、反対なんですか。」
と訊くと
「私は国防軍を持つという条文には賛成です。」
といったので、怜とゆかりは驚いたようだった。
「でもね、今の改正案なんてとても受け入れることができないの。名前が国防軍でもそのおそらく実態は普通の軍隊にすることでしょう。『防衛』軍にするのならこの国が侵略された時のみ戦力を行使すると条文に記してほしいの。」と正田が続けた。
彼が
「でも条文に『戦争の放棄』と『国際紛争の解決に武力を用いない』と記されていますよ。」
というと正田が
「『自衛権の発動を妨げない』とも記されているわ。自衛権という言葉は抽象的すぎるの。すべての戦争は『自衛権』が発動されて起こされきたはずよ。だれも侵略戦争を始めるなんて言わない。それに海外に居るニポン国民の生命、財産を防衛軍が守るとしたら派兵が必要でしょう。それは言葉を変えても戦争を意味するわ。いくら綺麗な言葉で書いてもね。海外に派兵したらたくさんの若者が戦死するわ。そんなことは絶対にあってはいけないの。命をかけるのはこの国が侵略された時だけでいいの。戦後70年以上この国の『軍』は人を殺さなかったわ。それは奇跡なの。それをしっかり守り、受け継ぐべきだと思うの。」
小さな声だがしっかりとした口調で正田が話した。
彼が
「じゃ、先制攻撃されたらどうするんですか。北コレア国がミサイル打ちそうになったら。」
正田が、
「それが覚悟なんでしょう。最初の一撃で人が死ぬかもしれないけど。それは私かもしれないしあなたかもしれない。だからそうならないように外交努力をする。お花畑といわれるかもしれないけど、それしかないと私は思っているの。ただし、攻撃を受ければ全力で反撃をする。申し訳ないと思うけど、国防軍には命をかけてもらうということなの。」
彼が
「じゃ、同盟国が攻撃されたらどうするんですか。」
と訊くと
「あ、麦国のこと。水巻さんは本気で麦国を攻撃する国があると思います?麦国の戦力って地球を2つ3つ壊せるわよ。彼らは絶対にこのおそるべき戦力を放棄しないでしょう。国連で戦争が禁じられてもあれだけのことをする国ですよ。もし自国が攻撃されたら何をするかわからないわよ。そんな国を本気で攻撃する国なんてあるはずがないわ。」
と答えた。
怜が
「でも、軍にして反撃する軍事力を備えようとしたら相手の国も軍備の増強をするでしょう。それは果てしない軍拡につながるんじゃないかな。大切なお金は皆が幸せになるために使うべきでしょう。世界中で人殺しの武器ばっかり作るって馬鹿げてるよ。今の憲法の理念は絶対に必要だと私は思うの。食べるもの、着るものを作らずに兵器を作って誰が幸せになるのよ。それにね、国のためだからって人権を抑えられたらたまらない。『公の秩序』を守るために軍が何をやっているか秘密にされたら怖くて仕方がないわ。」
と言った。
「あ、話に夢中になって忘れそうになっちゃった。」
そういって怜は立ち上がって鍋を食卓に運んだ。ゆかりが慌てて立ち上がった。持ち込んだ荷物からバゲットを取り出して切り始めた。
怜が鍋の蓋を開けるとスパイスの強い匂いが漂う。
「タイカレーなんです。最近ハマっちゃいました。」
そう言いながら皿に取り分けてくれた。
緑色の野菜を添えている。
独特の匂いがする。コリアンダーだ。彼はコリアンダーが苦手だがそれを言い出すことができなかった。
カレーの中には骨付きの鶏がたくさん入っている。
ゆかりがバゲットを推めてくれたので、コリアンダーを避けるようにバゲットにつけて食べてみる。
辛い。
でも、うまい。
「水巻さん。ワインもいかがかしら。」
正田がすすめてくれた。
彼はあまり醸造酒を飲まない。
しかし、この日は断らなかった。
カレーとバゲット、赤ワイン。
赤ワインはしぶみが強く甘みは全く感じない。
今まであまりうまいと感じなかったはずの味だ。
しかし、なんとも言えない味わいだ。
「あの、うまいです。自分が作ったことのない料理なんですが。」
と彼が言うとゆかりに
「水巻さん、コリアンダー避けているでしょう。」
と指摘された。
まったく、つまらんことを観察していると彼は思う。
「給食のときにグリーンピースだけ避けている子とかいたよね。」
と怜が言った。
「水巻さんもそうだったんじゃない。」
とゆかりがそう言いながらスマホを取り出した。
メールでも届いたのだろうか。
「私が小学生の頃は、給食は全部食べさせられたわ。皆が給食が終わって遊びに行ってるのに担任の先生の横に座らされて。」
と正田が言うと怜が
「あ、そうだったんですか。」
と言うと
「私は生の玉ねぎを食べるとお腹の具合が悪くなるの。だから、家でも生の玉ねぎは出なかったし。」
ゆかりが
「え、全部食べるまで残されたんですか。」
と訊くと
「そうなの、私にとっては拷問だったわ。生玉ねぎの入ったサラダが出る日は休みたくなっちゃった。」
怜がそれを聞いて言う。
「子どもが嫌いなものを食べないって、それは自由じゃないのかしら。」
と言うと
「いや、子供の頃に無理やり食べさせられておいしくないって感じたのに、大人になってから食べるとうまいものって結構ありますよ。」
と彼が言った。
するとゆかりが
「コリアンダーはどうなんですか。」
と言うと皆が笑った。
「でも、そばアレルギーの人に無理にそばを食べさせたらそれは殺人でしょう。
おいしくないと思いながらも別に体調が悪くならなければそれでいいの。でも子どもの能力ではそんなことはわからないし、うまく伝えられないでしょう。」
と正田が言うと
「じゃ、正田さんは玉ねぎのアレルギーなんですか。あまり聞いたことがないんですけど。」
彼が訊いた。
「多分そうなの。私なりに調べたんだけど、それほど症状がひどくなくて加熱したら大丈夫なの。」
と正田が答えた。
「あ、すると自分はコリアンダーアレルギーかもしれないですね。」
彼がそう言うと、ゆかりが
「水巻さんは花粉症なの。菊の花なんかで。」
と訊いたので彼が
「菊の花?そんな変なアレルギーなんて無いですよ。食用菊の花も好きですよ。」と応えた。
ゆかりはさらに、
「嫌いってことは食べたことあるんでしょう。そのとき下痢かなんかしたの。」
と訊くので
「そんなことはなかったと思うけど。」
彼が応えた。
「絶対に違う。水巻さんのは単なる好き嫌い。ちゃんと食べてね。」
ゆかりがそう断言した。
「え、なんで。なんで自分の場合はそうなるんですか。」
不平気に彼が言うと
「あのね、パクチーのアレルギーがある人はね、菊の花粉症がある場合が多いんだよ。」
と言った。
「詳しいですね。」
彼が感心して言いうと
「あのね、一応看護学科の学生なんだよ。それなりに勉強しているの。」
ゆかりが応えた。ゆかりは続けて
「えへ、そう言いたいところなんだけど、ついさっきスマホで調べたんだ。」
皆爆笑した。それからゆかりは
「ネットの情報だからちゃんと確認しないといけないけど、、。それと具合が悪くなったら食べるのをやめてね。」
と付け足した。
彼はおそるおそるパクチーを口に含む。
タイカレーの強烈な香辛料で独特の匂いが抑えられている。
もしかしたら慣れの問題かもしれないと彼は思う。
「でも、学校の先生は好き嫌いなのか、アレルギーかわからないですよね。」
と彼が言うと怜が
「学校は子どもの好き嫌いを認めたらいいだけじゃないの。無理に食べさせることが間違っていると思うわ。」
と言った。
正田が
「でもね、今はたぶんそんな無理強いをしなくなったでしょうね。個人が大切にされるようになったのかしら。」
怜が言った。
「その個人って言葉が今度の憲法改正案では消されちゃってますよ。」
彼が反論する。
「いや、今の憲法は『個人』を優遇し過ぎなんですよ。公益と公の秩序が優先するのは当たり前でしょう。」
怜は納得しない。
「その公の秩序って誰が決めるの?何でもかんでも公の秩序の前に制限されるんじゃないの?」
ゆかりが
「水巻さんの生き方なら、家族も子どもも作らないのでしょう。ただレガシーを使うだけじゃ、公益に反しているんじゃないの。」
と言うと、彼が
「そんな馬鹿な。真面目に勤労して納税しているよ。それがどうして公益に反するんだよ?」
とやや大きな声で言った。
怜が言った。
「でも、水巻さんが年老いたときに年金は誰が払うの?誰が支えてくれるの?水巻さんの次の世代でしょう。」
「いや、自分は厚生年金に入ってちゃんと年金を納めているよ。それが今の高齢者に支払われているんでしょう。それに子供が減っているんだから自分はそんなに多くを望まないよ。」
彼が応えると、正田が割って入る。
「子どもを産まなかった女にはけっこう辛い話ね。今の議論の本質じゃないことはわかっているけど。」
怜が
「あ、すいません。そんなつもりでいったわけじゃ・・・」
と言うと正田が
「わかっているの。気にしないでね。」
そう言うと皆引きつったような笑みを浮かべた。
ゆかりが言った。
「私、憲法改正派の人とこんなに話したの初めてかもしれない。友達ともあまり真面目に議論したことはなかったわ。」
怜も同意した。
「私も。それどころか、ゆかりの話にもびっくりしちゃった。」
正田がコーヒーをいれながら言った。
「水巻さんはどうなの?」
彼はしばらく考えてから答えた。
「自分も考え方の違う人とこんなに話したのは初めてです。賛成派か反対派かそれだけを考えて反対派を叩くことだけ考えていたかもしれないです。あ、ネットでのことですが。リアルな状態でここまで話したことはありません。でも、怒らないでください。」
ゆかりが
「なによ。」
と少しきつい口調で言う。
「他の人たちはどうなんでしょうか。変な言い方なんですが、『普通の人は』どうなんでしょうか。」
そう言ってしまってから少し後悔する。
ゆかりが、
「あたしが普通じゃないって言いたいの。」
彼を見据えて言ったが表情は何故か柔らかい。
「そう噛みつきたいところなんだけど、私にも水巻さんの言う意味がなんとなくわかるわ。」
と言葉を続けた。
正田が
「私も驚いたわ。皆さん若いのにいろいろあるんだと。」
と言った。
怜が
「水巻さんの言葉遣いって、すごく丁寧ですね。私達は普通に喋っているのに。どうしてなの。」
と言うので
「いや、二人とも自分が年上だと絶対思っていないでしょう。」
と応えた。
ゆかりが言った。
「えーそんなことないよ。水巻さんよりずっと若いわよ。」
「いや、そういう意味じゃないでしょ。でも、自分にはこの話し方があってるんです。だから気にしないでください。」
と彼が言うと、怜が
「そのわりにネトウヨで結構過激なことを書くんですよね。」
と言うと皆が笑った。彼は苦笑いであったが。
コーヒーを飲み終えてから彼が言った。
「もうこんな時間ですね。明日は仕事なんでぼちぼちおいとまします。どうもごちそうさまでした。」
そう言って食器を流しに運ぼうとすると正田が遮って、
「そのままにしておいてください。わたしが片付けますので。」
と言うとゆかりが
「私達も手伝うから大丈夫よ。」
と言った。
彼が玄関を出るとき3人が見送ってくれた。
彼は後ろ髪を惹かれながらもそさくさと歩き始めた。
話の続きをしたいと強く思った。
しかし、彼はそう言い出せなかった。
何してんだよ。あの3人も君と話の続きをしたがっているだろう。
様子を見ればわかるだろ。何故もう一度会いたいと言えない。
ⅩⅢ
2019/6/22
彼の生活は変わらない。
Life goes on.
ネット上での議論が何故か白々しく感じる。
あれほど熱心に読んで、書き込みをしていたのに。
時々webmailをチェックするが怜からのメッセージは入っていない。
明日はボランティア活動だ。
ゴミ屋敷の片付けだが気が重い。
NPOのメールで予定通りであることを確認する。
参加者を確認するとなんとそこに怜の名前があった。
2019/6/23
翌日、単車を走らせる。
現場に着くと彼を見つけて手を振っている女性がいた。
髪の毛をタオルで覆いマスクをしている。
それでも彼には誰かすぐにわかった。
怜だ。
彼も手を振り返す。
期待していたのかもしれない。
まだつながりは切れていない。
再会を喜んでいる自分に驚く。
「ああ、自分はこの女に会いたかったんだ。」
心の中で確認する。
すぐに彼も身繕いをする。
これからゴミを片付けるのだ。
スタッフのミーティングに参加する。
怜がマスクを外して自己紹介をした。
若い女子は珍しいので皆の関心を集めている。
すぐに作業が始まった。
ビニール袋に入ったゴミを次々と行政が用意したパッカー車に放り込む。
袋が破けて散らばっているゴミを集める。
じっとりと汗がにじむ。
どうしてこのようなことになるのだろうか。
これほどのゴミをたった一人の人間が作り出すものだろうか。
50リットルのゴミ袋を週に2つずつ出すとして1ヶ月で400リットル。
1年で96袋か。
10年でどのくらいになるのだろう。
ゴミが取り除かれるにつれて、家の元の姿が少しづつ現れる。
彼がそんなことを考えてながら作業をしていると休憩をとることになった。
怜は3人のスタッフに囲まれている。
彼は少し距離をおいて庭の地面に腰掛ける。
怜は彼を見つけると話を中断して、彼のところに歩いてきた。
怜が彼の横に座って口を開く。
「水巻さん、連絡くれないいんだ。」
彼が驚いて応える。
「え、メールなかったよ。」
怜が
「今日のボランティアのメンバーに私の名前があったでしょう。一緒にボランティアやるんだから連絡ぐらいくれたらいいじゃないですか。」
と言った。
彼は
「いや、どうせすぐに会えるんだから。」
と応えた。
「水巻さんはほんとに気が回らないですね。でも、また会えてうれしいですよ。」
と怜が少しはにかんだような表情で言った。
「自分もです。怜さんに会いたいと思っていました。」
彼は自分の言葉に驚く。
するりと彼の口から滑りだしたような言葉。
怜はきょとんとして、
「えー。そうなの。ほんとに。」
と少し高い声を出した。
「あの時の話、まだ終わりじゃないよね。なんだか不完全燃焼というのか、うまくは言えないんだけど。」
彼がそう言うと怜も
「そうなんですよね。私もなんかすっきりしなくて。」
と言った。
「もう少し掘り下げて話をしたいっていうか、うまく言えないんだけど。」と彼が言うと怜が
「そう、論点がずれてしまって、、もう少し話したいし、聞きたいし。」と応えた。
しばらく沈黙してから彼が言った。
「あの、ボランティアが終わったら夜ご飯でもしませんか。」
怜が
「え、今から水巻さんの家で?」
と聞いたので
「それがいいんだけど。外でもいいですよ。あまり得意じゃないけど。」
と彼が応えた。
「えーなんか意外。水巻さんてそんなふうに女の子を誘うの?イメージと違うんだけど。」
と言った。
彼は一瞬で葛藤を押しつぶしたのだ。
勢いで迷いを押しつぶして口に出したのだ。
今までの彼だったら絶対に口にできない言葉だった。
「いや、自分は普通はこんなことは言わないよ。」
と彼が言うと
「ほんとかな。でも今日はダメです。」
と怜が応えた。
「そうですか。残念です。じゃまたの機会にご飯を食べましょう。」
落胆したことを悟られないように、冷静さを装い立ち上がった。
怜も立ち上がって彼をじっと見つめて言った。
「あの、それだけですか?続きは?女の子を誘うときは相手の都合も聞かないとダメですよ。」
彼は少し戸惑いながら
「じゃ、来週はどうですか。日曜日にご飯をしませんか。」
と改めて訊いた。
「まだ自分の都合だけを言ってますね。でも、いいですよ。日曜日に水巻さんの家ですよね。変なことしちゃ、ダメですよ。」
と怜が応えた。
同じことを板倉からも言われたことを思い出した。
彼が顔を真っ赤にして
「あのね、、、あ、じゃ、橘さんも誘ったら。」
と言うと怜は吹き出した。
「冗談ですよ。ゆかりのこと考えておきます。」
怜はそう応えて立ち上がった。
「さぁ、頑張りましょうか。」
あいかわらずとらえどころがない。
でも、次の日曜日に約束ができたことが素直にうれしい。
彼にしたらこのような感覚は久しぶりのことだ。
家の片付けは結局午後3時までかかった。
かなり体を使ったし、汗もかいた。
スタッフが集まって簡単なミーティングをして解散となった。
怜と少し話をする。
彼女はスタッフの車に相乗りして最寄りの駅まで送ってもらうそうだ。
「じゃあね、水巻さん。メール待ってますよ。」
彼女はそう言い残して車に乗り込んだ。
怜を見送ってから、彼は愛車のスーパーカブに乗って走りだした。
空気は湿気を含むが、走りだすとなんとも心地よい。
保。君は気がついているかい。
世界は変わり始めているよ。