ネトウヨ男子がリアルな世界にひきずり出されて、出会う
Ⅰ
2018年11月、平昌五輪、サッカーワールドカップの喧騒が残る中、国会の臨時会が召集された。
与党から憲法改正案が提出された。
この改正案は憲法審査会で審議されていたが議論は荒れに荒れた。
結局咬み合わないままであった。
本会議でも野党が激しく抵抗し議論は収束しないまま採決された。
衆院、参院とも3分の2以上の議員が賛成し、憲法改正案が発議された。
その結果改憲の是非を問う国民投票が実施されることになったのである。
2019年4月のことであった。
周知期間は法律に定められた最長の180日に決まった。
これは、新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌等のあらゆるメディアが「国民に周知するためには十分な期間が必要」と声高に叫んだからである。そのプロパガンダは激しく執拗で与党は折れざるを得なかった。
投票日は2019年10月13日に定められた。
「国民投票運動」がはじまり、新聞、ラジオ、テレビには「広報」が溢れかえった。
この「運動」には公職選挙法による規制が無い。
政党が利用する公金を使った無料放送だけでは収まるはずがなかった。
特に改憲をすすめる保守政党側は豊富な資金力にものを言わせて広告を垂れ流す。
その事態を予測していた野党が広告費を規制する案を提出したが成案とはならなかった。
それはメディアが一斉に無視したからかもしれない。
改憲に反対する勢力も意見広告を次々に繰り出す。
メディア関連会社には多額の広告費が流れ込み、業界はにわかバブルに沸いた。
この祭は半年も続く。
テレビ局は特集番組を組み「周知」を諮る。
その番組には賛成、反対の各派の意見広告が流れる。
広告が減っていた新聞社も息を吹き返し特集記事が次々と掲載された。
ネットには規制らしい規制がなかったのでさらにヒートアップした。
国民投票法はラジオ・テレビによる虚偽放送、歪曲放送の禁止を定め、罰則が規定されている。
しかし、特に匿名のネットは野放し状態であった。
3チャンネル、ネコ動、twitterなどの書き込み件数は記録的なものになった。
掲示板には双方の意見が書き込まれ、至るところで論争が巻き起こり、怪情報が溢れる。
これまでのニポン国の選挙は「人物本位」になり、思想や政策が曖昧にされることが多かった。
判断基準がはっきりとしない「選挙」になってしまう。
しかし、この国民投票は候補者を選択するのではない。
純粋にこの国の骨子となる「憲法」が問われている。
憲法改正案は一括投票で是非が問われる事になったため、国民は単純にイエスかノーを選択することになった。
反対派は憲法条文ごとの個別投票を求めたが国会では少数であり否決された。
個別投票では「あまりに国民の負担が大きい。」というのが与党の言い分であった。
このような選択はニポン国民にとって初めてのことであり、まさに百家争鳴となった。
憲法改正が発議されるとすぐに世論調査が実施された。
調査を実施した会社によって結果は異なる。
様々な調査結果を俯瞰してみると賛成が数%程度多い様相であった。
しかし半数はどちらに投票するか決めていなかった。
この結果は両陣営をさらに激しいプロパガンダに駆り立てた。
2年前なら与党が圧倒的に強かったので改正案もすんなり通る可能性が高かった。
しかし度重なるスキャンダルでその支持率を大きく落としていた。
閣僚の横暴さに一部の国民は辟易とし、なにより長期政権に国民が「飽きて」いた。
世論調査が正しければ国民の半分はどちらに投票するか決めていないのである。
両陣営とも残り「5割の国民」に働きかけを強める。
この5割に通常の選挙に行かない人々も含まれている。
どうなるか結果は全くわからない。
得体のしれない「風」が勝敗を決める。
Ⅱ
水巻保。
改憲派であり、左翼リベラルを嫌う。
バーチャルな世界では過激な発言を繰り返す。
しかし、リアルな世界では極めて真面目な生活を送っている。
自ら「ネトウヨ」であると自認している。
水巻保が中学生の時に父親が他界した。
肉親の喪失感はあまりに大きかった。
彼は父親が使っていたパソコンでインターネットにのめり込んだ。
3チャンネルとtwitterにハマりこんだ。
欺瞞とむき出しの差別意識、憎悪、優越感、ごちゃまぜの「便所の落書き」を読み漁った。
まだ、中学生であった彼への影響は大きかった。
いや、甚大であった。
拙い内容のレスをつけ、論破されたら逃げ、罵倒されたら「そっと閉じ」。
大人との接触が比較的少なかった彼はその清濁、、いや清濁濁濁濁濁あふれる情報に飲み込まれそうであった。
成績は、上位クラスの下のあたり。
学習塾をやめてしまったためか伸び悩んだ。
それでもネットにのめり込みながらも、最小限の学習はこなした。
彼と同じくらいの成績の生徒たちはほとんどがそれなりの進学校を希望した。
しかし、彼は工業系の高等学校を選択した。
その意思は固く、
「おいらの成績じゃ、普通科高校に行っても、先がしれてるでしょう。」と、
妙に大人びたことを言って担任を驚ろかせた。
高校では電子工学系の学科でコンピュータの知識を身につけた。
システマチックなカリキュラムが彼によくあい、居心地が良かった。
高校では抜群の成績であった。
熱心な担任が進学をすすめてくれた。
しかし、彼は頑として受け入れなかった。
「自分のレベルじゃ、大学行ってもたかがしれてますよ。」
そう言って頑なに就職を希望した。
一刻も早く家を出て独立したかった。
彼が高校2年生の時に母親が再婚した。
相手は母親より年下の男であった。
職場で知り合ったという。
別に悪い男であったわけではない。
いや、義理の父はどちらかというと善人だ。
彼にも十二分に気を使ってくれた。
実の父に義理立てをして「母の再婚」に憤りを感じたわけでもない。
ただ、母親に「女」が感じられ、彼にはそれが息苦しかったのだ。
いいんだよ。
母さんも大変なんだ。頼れる人ができてよかったじゃないか。
彼の希望は、「倒産しないこと」と、「給与は少なくても残業の少ない仕事」であった。
真面目で成績優秀な生徒である。
進路指導担当の教員は少しでも「いい会社」に入れてやりたいと一部上場企業を推めた。
しかし、彼は地方に本社を置く堅実な中規模の企業を選択した。
「社畜」にはなりたくなかった。
それを心の中にしまい込み、おくびにも出さなかったが、会社は時間を売って、金を稼ぐところと割りきっていた。
彼は大志を抱いていないのだろうか。
この時代であるから妙に老成したような青年になったのだろうか。
Ⅲ
この年、水巻保は30歳になっていた。
給与はそう多くない。
彼の生活は質素であり、倹約に務めているように見える。
しかし、決して無理をしているのではない。むしろ十二分に生活を楽しんでいた。
そのため、どちらかといえば薄給でありながらも貯金は1000万円を越えた。
なんと18歳から毎月5万円ずつ天引き貯金を続けてきたのである。
さらにさほどは多くはないボーナスも貯金にまわした。
平均すると年間90万円程度の貯金を11年間続けたわけだ。
時々密かに預金通帳をみて不気味な笑みを浮かべている。
彼の情報源はネットと図書館だ。
テレビはたまに見る程度であまり好きではない。
彼はリアルな世界と書籍、ネットから知識を吸収し「知恵」を蓄えた。
ネットさえあれば情報は十分に得ることができると信じている。
しかしSNSを読めば「正しい情報が得られる。」と信じているわけではない。
新聞も雑誌もネットで読むだけのことだ。
紙媒体なら新聞は月に4000円程度必要だし、雑誌も1冊400円以上する。
その点ネットの情報は有料サイトを利用しても格安だ。
SNSはマスメディアの情報を消化するためと発信のために使う。
図書館は頻繁に利用する。
図書館にない場合はやむを得ず購入する。
読了後の本はすぐに古本屋に持ち込む。
図書館に寄付することもある。
だから彼の部屋には読みかけの本が二、三冊あるだけだ。
書物を所有したいとは全く思わない。
金をかけなくても生活は楽しめる。
ネットにはそんな知恵も多く記されている。
彼は大雑把でも無駄遣いをしない身の丈に合わせた金銭感覚を身につけていた。
身長は168cmで体重は55kg。
小柄であるがスラリとした体型でイケメンと言えなくもない。
高校生の時に後輩の女子から告られた経験もある。
それも一度ではない。
5年ほど前には1年間ほど続いた彼女がいた。
twitterでそれなり知られたハンドル名を持つ。
始めたばかりの頃は、バカとレスされることも多々あった。ハンドル名を変えて逃げることもあったが、それなりの立ち回り方を学習した。現在のハンドル名には結構な数のフォロアーが付いている。
全く趣向の異なる書き込みをするために二つのユーザーネームを使い分けている。
彼の右翼的なツイートを読んだものはそれぞれ勝手に彼の人物像を想像する。
汚い部屋でカップ麺をすすりながら掲示板に人を罵倒する書き込みをする「ネトウヨ」のイメージを持たれることが多いようだ。宗教にのめり込む老人をイメージするものもいる。
相手の勝手な想像は彼を楽しませる。
彼の仕事は原則8時間だ。
残業は殆ど無い。というより、会社の方針で残業は厳しく制約されている。
残業代を浮かそうとする経営側の方針でもある。
この会社の労働密度は驚くほど高い。
無駄を徹底的に廃して仕事をこなす。
彼は元来器用であり時間内にそれなりの仕事をこなす。
工作機械の扱いに長けているのだ。
図面を読み、行程を組み立てる。
工作機械にデータをセットする。
淡々と仕事をこなす。
トラブルがあると1、2時間残業することはあるが、ほぼ定時に仕事を終える。
彼の希望通りの仕事だ。
本人は現状に満足している。しかし退職をひかえた上司からするとそうでもないようだ。
時々説教をされる。
彼はその説教は「仕事に全精力を注げ」ということに行き着くという。
スマートに仕事をこなしているものの、どこかがむしゃらさに欠けるように見えるのだろう。
酒席に付き合わない彼に不満もあるのだろう。
ただ、それこそが彼が選択した「生き方」なのだ。
それでも彼は上司の「主任さん」が結構好きだ。
話をよくする。面白いとも感じる。
ただし、説教意外ならでは、であるが。
「主任さん」からはしばしば付き合っている女性がいるかどうか聞かれる。
パートのおばちゃんからも結婚のことを聞かれる。
結婚するつもりはない。
今は付き合っている女の子もいない。
ただ、それを悲観しているわけではない。
結婚は「コストに合わない選択」だと固く信じているのだ。
子供が欲しいとも思わない。
子供を一人育てるのにどれほどの時間と金がかかるのか。
彼の情報源の一つである掲示板には嫌というほど書き込まれている。
休日はたまに高校時代の友人とつるんで遊ぶ。
ツーリングで近辺の田舎へ出かける。
彼の愛車は、彼いわく「国産の」スーパーカブだ。
排気量90ccで少ないガソリンで長距離を走ることができる。
程度の良い中古を8万円で手に入れた。
部品をいくつか交換しピカピカに磨き上げている。
気の合う友人たちも似たような単車に乗っている。
ツーリング時にコンビニで休憩していると、大型バイクにまたがった一団を見ることがある。
こういうバイクのドライバーには高齢者が多いように感じる。
資金力の差を感じる。
彼はこの世代に常に複雑な思いを持つ。
その理由は彼の多くない給与から天引きされている年金が高齢者に支払われるからだ。
また介護保険も彼の世代は30歳から負担させられている。
しかしこの世代の作り上げたものにさんざん世話になっているとも思う。
友人たちともその話題で盛り上がることがある。
彼は巨大なバイクを欲しいとは全く思わない。
「あんなのガソリンを垂れ流しているし、重いし、場所を取る、、うるさい、、いらないよ。」と言う。
どうも負惜しみではないようだ。
心からそう信じている。
彼のこれまでの生活が彼の「思想」に影響を与えているのかもしれない。
いや、彼は彼の独特の「思想」に従って生活しているのかもしれない。
彼は思想という言葉を嫌がる。
「考え方」なんだと。
彼の友人はそれが何を意味しているか理解できない。
もしかしたら彼自身もわからないのかもしれない。
その「考え方」に従っているのだろうか、彼はボランティア活動にも精を出す。
徹底的に合理的な生活をしている。
少なくとも彼はそう信じている。
判で押したような日々を過ごす。
早朝、始業50分前の6時10分に出社する。
製造機器の点検と準備を行う。
加工が難しく、単価の高い部品を製造する企業なので、オペレータとして十分な知識を持っておく必要がある。
必ず設計図を読み込む。
行程を考える。
時間が余れば日付が古くても、会社がとっている業界紙には目を通す。
製造機械の知識のブラッシュアップも必要だ。
これは彼の嫌う形を変えたサービス残業である。
しかし、この作業を行うことで、残業になる確率はぐっと下がる。
またそれとなく上司に恩を売るということも計算している。
昼休みには会社の一室で弁当を開く。
パートのおばちゃんたちも一緒だ。
「感心、感心、お弁当続いているね。」
「お嫁さんいらないね。」
思い出したようにこの手の話題が湧き上がる。
彼が食べているのはコンビニやスーパーの弁当ではない。
彼が作った弁当だ。
たっぷりの飯と好きなおかずを詰め込んだ弁当は彼の必需品だ。
それなりに健康管理に気を使っているようだが食品に関する知識はかなり怪しい。
昼休みが1時間で、通常は4時過ぎには彼の仕事が終わる。
遅番の社員はベテランで仕事がよくできる。引き継ぎもスムーズに済ますことができる。
5時前には会社を出る。
規則正しい毎日だ。
会社は完全週休二日制だ。
1年間に10日ほどは有給休暇が取れる。
彼は平日の休みが大好きだ。
あらゆる施設が空いているからだ。
Ⅳ
2019/5/24
初夏の金曜日のことであった。
4時過ぎまでにそれなりに働いて、仕事を片付けた。
私服に着替えて、作業服をバッグに詰め込む。
工場から明るい外に飛び出す。
フルフェイスのヘルメットをかぶり、愛車にまたがる。
若い彼はまだまだ余力がある。
スーパーカブのエンジンをかけ、ほんの少し暖気してから走りだす。
彼はこの静かで丈夫なエンジンの音が好きだ。
なんとも言えない開放感を感じる。
まずは近所のホームセンターに行く。
予約しておいた品物を受け取るためだ。
ここは最新の設備を備えロボットショップと呼ばれている。
彼は入店するとすぐに受付を済ます。
携帯ディスプレイのQRコードを読み取り機にかざすだけだ。
ソファーに座って順番を待つ。
まるで病院の受付だと思う。
数年前までホームセンターといえば様々な商品を効率的に展示し販売していた。
店内を買い物用のキャリア―を押してまわり必要な商品を集めたものだ。
もちろんまだその形式の店舗の方が多い。
彼の利用している店舗は注文がすべてネットからできる。
ただ通信販売ではない。
商品は店舗に揃えられている。
ただし商品はまったく展示されていない。
店頭で端末を操作して注文することもできる。
このシステムは彼にとっては無駄な時間を使わずにすみ、少しでも安いほうが良いのだ。
流通業界の変革は凄まじい。
店舗はここ数年で著しく変わった。
彼は自分が流通業界に勤めなくて良かったと思う。
いや激変したからそのさなかに自分がいたら「意外に奮闘したかな。」とも考える。
合成音声の受付に呼ばれて空いたカウンターに行く。
彼の注文した商品はすべてロボットクレーンとコンベアによってカウンターに揃えられていた。
商品は倉庫ロボットが扱えるよう規格化されたプラスチック製の箱に収まっている。
そのプラスチックの箱が4つあった。
一つずつ取り出して確認する。
空箱をコンベアに返す。
携帯ディスプレイを専用端末にかざして支払いを済ませる。
店のスタッフ数名がはカウンター周辺で顧客の補助をしている。
このシステムを使い慣れた彼にとってはそのサポートは必要ない。
次に彼は行きつけの生鮮食品を扱う店に向かう。
快適に買い物ができるところではない。
魚介などを大量に仕入れ大量に売りさばく安売り店だ。
いつものように1週間分の食材を仕入れる。
彼は買い物は金曜日か土曜日と決めている。
魚のあら、鶏胸肉、野菜、卵・・・・・
たまに惣菜や弁当を買う程度で、基本的に食事は自炊する。それは彼にとって当たり前のことだ。
結構な量の荷物をカブの荷台に取り付けたラゲージボックスに放り込む。
15分ほど走って、自宅に到着する。
彼は一軒家に住んでいる。
家賃は月に4万円。
会社から月に3万円の住居手当が支給されるので実質1万円の負担で彼はこの家に住んでいる。
一軒家と言っても平屋建てで、リビングダイニングキッチンと洋間が2部屋の小さな家である。
一部屋はクローゼット兼、作業部屋兼、物置として使っている。
誰も待っているわけではない。
それでも家に入ると気分が落ち着く。
何故か安堵感を感じる。
パソコンを立ち上げ、お気に入りの音楽をかける。
携帯のコアを充電する。
いつもの所作だ。
携帯ディスプレイを大型のものに切り替える。
彼のスマホはディスプレイと本体の分離型だ。
画像の無線転送の技術が進歩したおかげで出来た最新型だ。
外出時はコアに携帯用のディスプレイを装着して使用する。
大型のディスプレイが使用可能な環境になればそちらに表示させる。
キーボードとマウスをワイヤレスで接続すればほぼパソコンとして使うこともできる。
ただ、まだこのコアだけですべてのことがこなせるわけではない。
パソコンはパソコンで彼には必要だ。
購入した食材を手際よく片付ける。
それから、夕飯の支度を始める。
無洗米を炊飯器に測り入れスイッチを入れる。
買い物をしているときに、今晩の献立はカンパチのあら炊きと野菜炒めに決めてある。
携帯端末を操作して、料理のサイトを閲覧する。
材料を入力して料理を閲覧する。
もう作り慣れた料理なのだが、調理方法や味付けに新しいものがないかチェックする。
塩味のあら炊きのレシピがあったので、その味付けに決める。
カンパチのあらを熱湯で処理し、丁寧にウロコと汚れを取り除く。
中華鍋に少しの水と、昆布を敷く。
料理酒をたっぷり注ぐ。
沸騰してから、あらと豆腐、冷凍の里芋、調味料を入れ、落し蓋をする。
野菜を洗い、刻む。冷蔵庫から低温調理した豚肉を取り出し、薄く切る。
スキレットを取り出し、余熱をせず野菜をゆっくりと炒める。
きのこを入れる。
塩とコショーで薄く味をつけ、皿に盛り付ける。
その上に薄く切った自家製の焼豚をのせる。
あら炊きも良い感じに仕上がっている。
鉢に盛り付ける。
簓で中華鍋とスキレットを洗い、付近で水分を拭き取る。
薄くごま油を塗りつけて片付ける。
--やれやれ、、あいかわらず器用なものだね。
テーブルに食器を並べて、冷蔵庫からキムチを取り出す。
彼はコレア国が嫌いだ。
twitterでも良からぬ書き込みをしている。
しかし、実はこの漬物が大好きなのだ。
特にあら炊きと絶妙に合う。
タカラ焼酎を200ml計り、チロリに移す。
レモンを刻む。
このレモンは道の駅で買ったものだ。
ポストハーベストの防カビ剤の嫌な刺激がない。
食事を始める。
音楽が心地よい。
無味なタカラ焼酎にレモンを絞り、氷を入れ、水を注ぐ。
あらの身を口に含み、水割りを飲む。
「うまい」
また、ほんの小さな幸せを感じてしまう。
パソコンでボランティアの予定をチェックする。
NPOから複数のメールが入っている。
彼が参加するボランティアは「空き家の片付け」だ。
交通費だけは所有者が負担してくれる場合が多い。
このボランティアを始めてから7年ほどになる。
「空き家片付け隊」というNPOがボランティアの紹介をしてくれる。
このNPOが設立された時からボランティアとして参加している。
彼はここのNPOのスタッフからそれなりに信頼されていると感じている。
ボランティアの依頼がやたらと多い。
真面目に続けていたからだろう。
もしかしたら彼の勤め先も関係があるのかもしれない。
このボランティアにはしばしば不心得者が紛れ込む。
空き家に残った物品を狙う輩がいるのだ。
だからNPOが間に入り、それなりに信頼できる人物を紹介しているのだ。
利用者はNPOの経費の一部を負担する。
それによって活動がサポートされている。
彼の持ち物には僅かだが分不相応なものが紛れ込んでいる。
それらはすべてこのボランティア活動をしたときにもらったものだ。
ただ、彼が「物をもらう」ことはごく稀だ。
「おいらはレガシーに生かされている。」と常々彼は考えている。
彼からすると、この貰い物も「レガシー」なのだ。
人口減が声高に叫ばれるが、それは若い彼にとって悪いことではない。
住民が減り、空き家が増える。
しかし見方を変えれば空き家もレガシーなのだ。
効率だけを考えると、取り壊してしまうだけの大きなゴミかもしれない。
どうしようもない安普請の建物もある。
しかし大部分は時間と手間をかければ再生できる。
問題は「時間」と「手間」が産み出せる環境があるかどうかだ。
彼は会社で働き日々の糧を得ているがすべての時間を賃金に替えようとは思わない。
ニポン国の人口は毎年100万人近く減少している。
これは政府の予想を上回るペースだ。
おかげで景気はそう良くないのに労働市場は買い手市場にならない。
どの企業も慢性的な人員不足に悩む。
人が溢れて使い捨てにされる社会よりよほどマシだと彼は思う。
企業は少しでも使える人材であればそれなり大切にする。
ただし、それは「そう多くない賃金で使える人材」のみだが。
そんなことは嫌というほどわかっている。
彼が高卒でそう多くの賃金を支払う必要がないから、今の条件で仕事を続けることができるのだ。
これは彼の持論である。
同年代の大学院卒の社員は彼の2倍ほどの賃金をもらっている。
ただ院卒の採用条件は高卒と比べるとはるかに厳しい。
何より労働時間が長い。
彼はそういう生き方に全く魅力を感じない。
野菜炒めを食べる。
スキレットで炒めた野菜はうまい。
焼酎を飲む。
食事を続けながらボランティア活動の場所を確認する。
最寄りの駅から2駅先だ。
Google mapを使って、ストリートビューを見る。
「うわ、この家、でかい。」
メンバーを確認する。
「あれ、、明日はおいら一人?」
予定していたボランティアの都合がつかなかったようだ。
古い大きな家で面白そうだ。
予定を再度確認して受諾のメールを送る。
炊きあがったご飯をキムチとあら炊きの残りで食べる。
「うまかった。」とおもわずつぶやいた。
手早く食器を片付けて、コーヒーを入れる。
その日の彼は何故か日頃の警戒心を欠いていた。
眠気が襲うが、習慣にしたがってtwitterを開く。
「憲法改正」で検索する。
国民投票が近づいている。
すさまじい数がヒットする。
2011年9月11日にアメリカから押し付けられた憲法がようやくニポン人の手によって書き直されるのだ。
彼はそう信じている。
ほろ酔いになって気分がいい。
「あれ?これは、、、」
彼が目に止めたのは憲法改正反対派のデモについてツイートだ。
レイ@kaesasenaiがデモへの参加を呼びかけている。
学生中心のkaesasenaiのメンバーのようだ。
ツイートを読むと大学生ということになっている。
「なんだこれ、近所じゃん。」
「ふーん、こんな地方都市でもやるんだ。」
早速、ディスる。
彼は汚い言葉は使わない。
ただし、釣れた相手には丁寧な言葉で相手を叩く言葉を書き込んでいく。
リプライを書き込む。
Asayake@nipondaisuki
左翼のみなさんは都落ちですか?
国会前から追い出されたのですか?
こんな田舎町で何をするのですか?
3チャンネルを開く。
もともと混沌とした掲示板だったが、憲法改正については膨大な書き込みがなされている。
改正派、半改正派とも怪情報をまき散らしている。
彼はここで、明らかなデタラメに反論する書き込みを日々行っている。
「憲法が改正されると、生活保護が減額されやがて打ち切られる。」
「ニートは徴兵され強制的に自衛隊で訓練される。」
「透析患者は健康保険が打ち切られ全額自己負担になる。」
「年寄りの医療は自己負担額が5割になる。」
これらの書き込みはなんど叩いても繰り返し現れる。
もっとも改正派のデマもひどい。
どちらもどちらでまともな論議などになるはずもない。
3チャンネルはもともとそんなところなのだ。
「意味がない」、そう思う時もある。
それでも彼はここに書き込まれたことが結構拡散すると信じている。
ただ、あまりにひどい書き込みが多い。彼も辟易とすることがある。
twitterに戻ってリプライをチェックする。
レイ@kaesasenai
追い出されたんじゃないですよ。
広がったんです。
デモはこっちでは初めてですけども。
なんか、変なリプがいっぱい。
Asayakeさんのお友達ですかね。
Asayake@nipondaisuki
あ、左翼の嘘が都内では「広がって」、人集まらんのですかね?
都落ちですか?
しばらく間をおいて、
レイ@kaesasenai
もうブロックするの大変。
なんかいい手段はないですかね。
あなたのツイート読んでみると、思い込みの激しいウヨさんですね。
想像するだけじゃなく実際に見に来られたらどうですか?
今までの彼のtweetに目を通したようだ。
Asayake@nipondaisuki
いやですよーーー。
行ったら、参加者にカウントして、お得意の水増しするんでしょ!!
あなた達の得意技でしょう。
続けて
Asayake@nipondaisuki
ここはニポンの街ですよ。
どっか、別のところでやってくれませんか?
しばらく レイ@kaesasenai からのツイートが途絶える。
「このくらいで終わりか。ま、温室育ちのお嬢さんかな。いや、装っている連中も多いからわからんな。
「コンピュータの前には犬が」か、どんな親父が座っているかもしれんしね。」
レイ@kaesasenai
Asayakeさん あなたはデモに行ったことあるの?
あれ、ブロックされていないのか?
帰ってきたリプライを読む。
Asayake@nipondaisuki
それほど暇じゃないです、、
学生さんはいいですよね。
でも、洗脳から覚めてくださいね!
この国のことを真剣に考えたらどうですか?
レイ@kaesasenai
暇じゃないのにレス、ありがとう。。
Asayakeさんはこの街に住んでるんですか?
「おろ?」
レイ@kaesasenai
近いんでしょ。ぜひ、見においでよ。
Asayake@nipondaisuki
でたね。左翼の決めつけですか!
せん妄なのですか?
住んでる場所も個人情報ですよ。
憲法で保証されているでしょう。
憲法が守るのは自分たちの人権だけなのですか?
「やれやれ、意外に鋭いな。
ま、今日はこのくらいのほうがいいだろうね。
匿名掲示板じゃないし、、、。」
普段の彼は用心深い。
酔ったと感じたらROMに徹して書き込みはしない。
近場のデモということで好奇心がそそられたのかもしれない。
レイ@kaesasenai
Asayake君、、集合場所と時間、わかりました?
待ってますよ。
Asayake@nipondaisuki
○△市まで遠いので無理です。
交通費出してくれます?
活動費もらってるんでしょ。
おいらにはそんなのがないんですよ。
レイ@kaesasenai
・・・・・・クス・・・・・・・・・
「『クス』って、ベタな書き込みをするかよ。今日はこんなものにしておこう。」
奇妙な「引っ掛かり」を感じる。
何故かはわからない。
Ⅴ
2019/5/25
次の日の朝、twitterを開くと
レイ@kaesasenai
からフォローされていた。
彼もすぐにレイ@kaesasenaiをフォローする。
彼の休みの一日目は忙しい。
洗濯をし、掃除をする。
もともと綺麗に片付いているのに、全て部屋に掃除機をかけ、水ぶきと乾拭きをする。
きれい好きだ。だが、病的ではない。彼は部屋を整理整頓することを楽しんでいる。
もともと綺麗に整頓をする少年であったが、工業高校で工具の整理整頓方法を学んでその傾向に拍車がかかった。
洗濯は簡単だ。
基本的に会社では支給される作業服を着ているわけだし、通勤はジーンズと綿のシャツと決めている。
ほぼ同じようなデザインのものばかりを着ている。
洗っても繰り返し気持よく着られるものだけを選択しているのだ。
ジーンズはそれなりにお金を出したほうがかえってコスパがいいと考えている。
飽きずに長く履けるからだ。
常備菜を作る。
豚肉と鶏肉を低音で調理する。
ジップロックに下味をつけた鶏肉を入れ、空気を抜く。
豚肉はロースの塊をそのままジップロックに入れて空気を抜く。
この2つを炊飯器に入れ、ひたひたに熱湯を注ぐ。
炊飯器を保温モードにして2時間。
2時間後に取り出して、ジップロックを開き彼特製のタレをそそぐ。
豚肉と鶏肉で配合を変えてある。
醤油、みりん、みそ、豆板醤、ハーブ、、、、。
ジップロックの口を再度しっかりと閉め、粗熱が取れたら冷蔵庫に放り込む。
次に、白菜ときゅうりの浅漬を作る。
キムチも好きだし、浅漬も好きだ。
1週間分、結構な量を作る。
塩と、化学調味料、昆布、、、。
大きめのジップロックに入れて、軽く手で揉む。
そのまま冷蔵庫に放り込む。
これらの作業は毎週欠かさず行う。
便利な食べ物だ。
「おいらは若干アスペだよな、、、、。」
ネトウヨらしく、差別的な言葉を口にする。
昼ごはんを作る。
昨晩炊いたご飯に、先週作った低温調理肉の残りをのせて丼にして食べる。
食器を片付けたら、オンラインの雑誌を読んで、昼寝をする。
意識的に3ちゃんやtwitterは開かない。
1時間程、うとうとする。
目覚めたあとも庭掃除などの「彼のルーチン」を片付ける。
夕食後、PCを起動してみると、twitterにダイレクトメッセージが入っていた。
「ほうほう、、、お嬢ちゃん?にしては上出来。」
レイ@kaesasenai
近くでしょう。
デモ、見に来られたら?
Asayake@nipondaisuki
どうして、、、おいらがどうして近くに住んでいると思い込んだのですか?
すぐにレスが来た。
レイ@はオンラインのようだ。
レイ@kaesasenai
だって、「ここは」って書き込み、地元感満載ですよ。
それからね、ちょっと調べました。
tweetに天気のこと書いてますよね。
ちょっと前の地震で揺れたことも書いてましたよね。
あの地震は直下型だったかな、このあたりは結構揺れたんだけど範囲は狭かったはずですよ。
天気も地震も偶然の一致ですか?
そう遠くないところにおられるんでしょう。
こそこそ隠れてないで出てきたらどうですか。
明るい世界はいいものですよ。
確かに大雨のことや地震のことをtweeterに書き込んだことがあった。
同じ地域に住んでいたら日付とツイートを調べたらある程度はわかるかもしれない。
しかし大雑把な分析だ。
Asayake@nipondaisuki
ストーカーみたいですね。
でもこんな活動やってること知られたら、、、。
就職にも影響するかもしれませんよ。
親も悲しむでしょうね。
いいんですか?
自分でも嫌なことを書いていると感じる。
地元のことはさらりと流す。
レイ@kaesasenaiを掘ってみるが当たり障りのないコメントばかりで叩きようがない。
ツィートの分析ツールを使う。
レイ@のツイートの傾向を調べる。
書き込みの時間帯、よく使う言葉、、調べてみても取り立てて目立つところはない。
それにしても深夜の1時から翌朝7時まで全く書き込みがない。
よほど規則正しい生活をしているのだろうか。
アンドロイド端末からの書き込みが多い。
パソコンからの書き込みもある。
デモの参加呼びかけてんのに政治的なコメントも殆ど無い。
よく使う言葉は「大学」と「授業」。
本当に女学生なのかもしれない。
しかし妙ににフォロワーが多い。
レイ@kaesasenaiがフォローしてるメンバーを調べてみる。
「うわ、、、左翼系の論客ばっかり。」
思わずつぶやく。
レイ@kaesasenai
心配していただいてありがとうございます。
でも、悪いことをしているわけではありませんので。
あなたはコソコソ隠れて国士気取り。
中身はすっからかんじゃないんですか。
女をネットで脅す。
ウヨのおじさん、、、
サイテー!
Asayake@nipondaisuki
あの「女」ならだめで、「男」ならいいのですか。
それなんか変じゃないですか?
あなた達は男女平等って言ってますよね。
レイ@kaesasenai
あ、ご指摘ありがとうございます。
そのとおりですね。
じゃ、改めて、
人をネットで脅迫する。
サイテー!
これでいいですか?
なんか、変だ。
いつもの調子にならない。
ダイレクトメッセージなんかでやりとりしたのが失敗かな。
レイ@kaesasenai
私ははデモの前の方ででプラカードを持って歩くつもりです。
身長169cm。体重は?ですよ。
私は結構スタイルいいんですよ。
どこかでこそこそ見るんでしょう?
見たい?
来たら?
じゃね。
ちょっと待て、憲法改正の中身を全くやりあっていないよな、これ。
お花畑の9条信者を叩くやり方は十二分に知っているつもりだ。
モヤモヤとした感情は残るがネットではよくあることだ。
Ⅵ
2019/5/26
お前は慎重すぎるんだよ。
今の生活は悪くはないかもしれないが、そこからもう一歩踏み出せよ。
翌朝、ボランティアの場所を再度チェックする。
目的の空き家は彼の最寄り駅から2駅先だ。
その駅でNPOのスタッフと落ち合うことになっている。
駅につくとそのスタッフの板倉が彼を待っていた。
板倉とは何度も一緒に活動をしたことがある。
確か、二児の母だったはずだ。
「水巻くん、朝早くからご苦労様。」
「おはようございます。今日はボランティアスタッフは自分だけなんですね。」
「そうなっちゃったの。ごめんなさいね。」
「いやいいです。」
「でもよかったわ。今日の案件は水巻くんでなければ難しところだったの。」
「へ?」
「あ、歩きながら話さない。ここから20分くらいだから。」
そう言って板倉は歩き出した。
「今回の案件は微妙なところなの。」
「そうなんですか。」
「近隣の迷惑になっているわけでもないし、それほど家がひどいことになっているわけじゃないの。」
「すると管理の方ですか。」
管理というのは空き家の所有者が近隣にいない場合に定期的にスタッフが見回りし、状況を報告するサービスだ。NPOなので格安で請け負っている。
「そうじゃないの。なんでもこちらに帰ってこられて住まわれるようなの。」
板倉は微笑んで言葉を続ける。
「大きな家だしね、それに女性一人なのよ。」
水巻は
「それどういう意味ですか?」
とやや真顔で応える。
「冗談よ。でも、水巻くんまだいい人ができないの。」
「またそれですか。」
「不思議ね。私が若かったら放っておかないのに。」
多分にお世辞が入っているのだろうと感じながらも彼が応える。
「いやもう前にお話したでしょう。自分はずっと一人でもいいんです。別に強がりじゃないですよ。」
「うん。それがホントだってわかっているけどね。でも今日の空き家の持ち主は、そうね、水巻くんのお母さんくらいかな。」
「母は一人だけでいいですよ。」
と彼が返すと板倉は声を出して笑った。
「行政の支援金は多分無理でしょう。それよりどうしたら良いかわからなくて困っておられるみたいなの。行政の方は一応私が担当するんだけど。片付けのボランティアに入ってもらえるかしら。」
「はい、もとよりそのつもりですけど。」
目的の空き家は県立大学の近くにあった。
空き家に到着すると40歳過ぎくらいだろうか、上品な雰囲気の婦人が出迎えてくれた。
彼の想像よりは若く見える。
「おばさんだけど、、、綺麗な人だ。」
彼は素直に思う。
しかし、彼の関心は空き家の方にある。
広い玄関。
中に入ると、玄関は綺麗に掃除されていた。
ただ、そこから続く廊下には埃が溜まっている。
「正田と申します。」と挨拶をされた。
板倉も丁寧に挨拶を返した。
「おはようございます。よろしくお願いします。」
彼がそう言うと正田が
「どこから手をつけたらいいものか困っていまして、NPOさんに相談に行きました。今日はよろしくお願いします。」と言った。
板倉が行政の支援を説明する。
申請はするがあまり期待できないことも伝えていた。
さらに片付けの手伝いについてはボランティアが手伝うことが可能なことと、その制度について詳しく話した。
最後に彼のことを
「すごく信頼できる人です。うちの古参のボランティでいろいろなことを知っています。知らなくて良いことまで知っています。独身です。」
と笑いながら紹介した。
「板倉さん、何なんですか。」
と彼が言うと板倉が
「あ、余計なことを言っちゃったかしら。すごく信頼できるというのは本当です。ね、水巻くん。」
板倉は続けて
「ただ申し訳ないんですがこの家の場合は緊急性がないのでNPOとしては優先順位を高くすることはできません。ゴミ屋敷とか、倒壊の恐れがあって近隣が困っているような空き家が結構ありますので。」
と言った。
「でも、ボランティアスタッフの募集はします。参加希望者がいれば手伝ってもらえます。あまりお力になれないんですけど、それでよろしいでしょうか。」と板倉が聞くと正田が
「ええ、もちろんです。」と応えた。
彼が、「あの、おひとりで片付けておられるのですか。」
と訊くと
「そうなんです。始めたばかりなんですけどどこから手をつけていいのかわからなくて、正直困っています。」
この人だけでは重い物を移動するのは無理だろう。
力仕事はそれなりに人手が必要だ。
板倉が「そうですよね。困っちゃいますよね。ね、水巻くん。」と相槌を打つ。
彼が「板倉さん、そこまで言わなくてもやりますよ。この家にすごく興味もありますし。」
と言うと
「ありがとう。きっとそう言ってくれると思ってたわ。」
と笑みを浮かべた。
「あの、水巻さんは結構頼りになりますよ。ほんとにボランティアなのに一生懸命やってくれます。」
と続けた。
彼は板倉が驚くほどの薄給でNPOの仕事をしていることを知っている。専従と言ってもその給与は民間の半分以下だろう。
「じゃ、私は事務所に戻らないと。あ、水巻くん、正田さん綺麗だから、悪いことしたらだめですよ。あとはお願いね。」
彼は顔を赤くして反論しようとする。
しかし板倉はさっさと帰ってしまった。
まぁ、いつもの調子なんだが、彼女に救われたことが何度もある。
彼は初対面の人に対して緊張してしまい思うようにコミュニケーションが取れないことがあるのだ。
板倉は場の緊張を巧みにほぐしてくれる。
そう考えていると
「水巻さんは、このボランティアをやられて長いのですか?」
と正田が訊いた。
「はい、えっと、7年になります。」
「え、随分お若いようなのに、そんなに?」
「いや、そんなに若くないっす。30歳です。」
「ずいぶん長くやられているんですね。」
「ええ、まぁ。」
「他の方たちはどんなふうに片付けをされたのかしら。」
彼はしばらく考えて、
「とにかく不要なものを捨てることでしょうか。」
「ここにも、もう使わないものがいっぱいあるんだけど、どうやって捨てたらいいのかしら。」
どうしたらよいか全くわからない様子だったのでいくつかの例を紹介する。
「量があまり多いとその処理が大変なんで業者さんを呼ぶことがあります。小分けにして自治体のやってる定期収集を使うこともできますし、有料になりますがここまで収集に来てもらうこともできますよ。」
「業者さんはどこにお願いすればいいのですか。」
「NPOに情報がありますよ。事務所に行けば良心的な業者さんを紹介してもらえると思います。でも東京や大阪なら空き家専業の片付けの業者さんがあるようなんですが、ここにはありません。不要品を運びだして処理はしてくれますが。時間が許すのならご自分である程度は片付けられたほうが良いと思います。」
「そうですか。結構思い入れのあるものがたくさんあるから時間をかけてやってみます。私にできるかしら。」
「多分大丈夫でしょう。役所のホームページを調べたらゴミの処理方法が出てますよ。
大型の家具なんかは収集に来てもらうことにして、あとは分別して定期収集に出せばなんとかなると思います。時間と手間をかければできますよ。大きい物の運び出しはお手伝いしますよ。」
彼がそう言うと、正田の表情が明るくなったようだ。
「ありがとうございます。そうしてみます。時間はありますから。」
彼が
「今日は何をしますか?」
と訊くと
「もしよろしかったら、生活する場所を確保したいので、荷物の運び出しを手伝っていただけるかしら。」
と、正田が答えた。
彼が
「ここに住まれるのですか。」
と訊いてみると
「ええ、そのつもりなんです。でもこのままじゃ寝る場所もないので。実は、電気と水道も一昨日復旧させたばかりなんです。ガスはまだ使えないですけど。今日はこの部屋だけでもなんとして、ここで寝泊まりしようと思います。」
正田はそう言って、玄関のすぐそばの部屋のドアを開けた。
そこは客間として使われていたようだった。
二人でなんとか動かすことができるソファーやセンターテーブルを広い廊下に運びだした。
サイドボードなど重いものは正田と二人だけでは無理そうなのでそのままにした。
そこに飾られていた写真や小物は正田が次々と段ボール箱に入れて片付けた。
その箱を彼が廊下に運びだす。
3時間ほど二人で働くとなんとか生活できるスペースが確保できたようだ。
二人だけでできることはこんなものだろう。
この日はちょうどこのあたりが区切りだと彼が感じていたところで正田が言った。
「どうも、ありがとうございました。とっても助かりました。また来ていただくことはできるのですか。」
「たぶん大丈夫ですよ。次は一人じゃないといいんですが。あ、自分は日曜日しか無理なんですがそれで良かったらまたNPOに申し込んでおいてください。」
と応えた。
「本当に良い方に来ていただけました。あ、これ交通費です。NPOの係の方から伺いましたので。」
そう言って、封筒を渡してくれた。
彼はその封筒をすぐに開けて中身を調べた。
正田は驚いたようだ。
案の定、その封筒の中には多すぎる金額である5千円が入っていた。
彼は財布を取り出して4千円を返そうとした。
「あの、交通費は千円で十分です。自分は無償ボランティアなんです。」
しかし、正田はなかなか受け取らない。
わざわざ来てもらって何のお礼もしていないし食事も出せない、だから受け取って欲しいと言われた。
困った彼は「じゃぁ、NPOに寄付してあげてください。運営費を出すの結構厳しいそうですから。」
半ば無理やりであったが4000円を返した。
「あの、自分はこのボランティアが結構好きなんです。しんどいこともあります。汚れることもあります。でも、空き家になった家にはなんというか、記憶みたいなものがあって。それとちょっと考えていることもあっていろんな空き家を見ておきたいんです。」
と言うと正田が
「そうなんですか。じゃ、NPOにさんに少しですけど寄付いたします。あ、これもし良かったら。」と言って1枚のチラシを手渡した。
それは、「憲法改正反対デモ」の案内であった。
「行かれるんですか?」
と彼が訊くと、
「ええ、近くであるみたいだから。」
「一応預かります。でも、あの、僕は改正派なんです。」
「あ、そうなの?ごめんなさいね。無理やり誘うつもりはないんですけど。」
と正田が申し訳無さそうに言った。
「いや、気にしないでください。考え方の違いと人間関係は別物だと思いますので。」
これは正直な気持ちだ。
しかし現実社会が決してそうではないことも知っている。
だから余計にそうありたいと願っている。
正田が少し心配そうな表情で言った。
「反対派でも、また片付けを手伝っていただけるのかしら・・・・。」
彼は笑顔を作り、
「はい、もちろんです。」
と、意識して明るく応える。
「ありがとう。」
と正田が安堵したように言う。
「じゃ、また来ます。」
彼はボランティアが終わって別れるときにはいつもこう言うことにしている。
正田の見送りを受けて帰路についた。
Ⅶ
2019/5/31
週末の金曜日、この日は蒸し暑かった。
夏の気配だ。
仕事帰りにいつものように食材を買い込む。
彼の生活は変わらない。
Life goes on.
高校生の時、英語の教師が教えてくれた。
彼はこの言葉が大好きだ。
仕事をこなす。
ネットから情報を収集し、twitterと掲示板に書き込みをする。
いつもと変わらない日常だ。
単調なようだが決して退屈ではない。
食事を済ませてパソコンを開くと レイ@kaesasenai からダイレクトメッセージが入っていた。
レイ@kaesasenai
やっほー。
場所と時間覚えてる?
いよいよ明日だよ。
「なんだよな。誰が行くかよ。」
メッセージを無視することにする。
しかし気になる。
レイ@をフォローしたためか、妙なリプライが眼につく。
この憲法法案が出されてから各地でデモが頻繁に行われるようになった。
賛成のデモもあるが圧倒的に反対のデモのほうが多い。
もちろん彼もかつてこの国で安保法案に反対して各地で過激なデモが繰り広げられたことは知っている。
しかし1960年、1970年は彼にとっては生まれるずっと前のことだ。
彼にとっては歴史の一コマで現実感はない。
しかし不思議なことに職場で改憲が話題になることは殆ど無い。
まれに憲法改正の話になってもだれも意見をはっきりとは言わない。
彼も黙っている。
まれに話題に登っても話の中心は「有名人の誰かれが何を言っていたか。」に変わり、言論人のスキャンダルに変わっていく。
イギリスのEU離脱を問う国民投票やアメリカの大統領選挙の様子とはあまりに異なる。
何故だろう。彼はこの問題をよく自問する。
意見をはっきりと言ってしまうと、何らかの不利益を受けるのではないか。
おそらくそれを肌で感じとって黙っているんのだろう。
突き詰めて考えると「考え方」を知られることが不利になるということだ。
果たしてそれは杞憂でなのだろうか。
少し前に左派の論客がネットではげしく叩かれたことがある。
新聞社も叩かれた。
権力がメディアを半ば恫喝していると感じたこともある。
しかし彼はそれまでにメディアはあまりに独善的だと感じていたのでその状況に喝采を送った。
この国ではもしかしたら自由に発言できるのは一部の特権階級だけなのかもしれない。
いや、自由に発言できる国であるのにそれを思い込みと忖度で放棄しているだろうか。
デモに参加するだけで意見表明になる。
デモに誘うだけでもだ。
何故か一度会っただけの正田のことが気になった。
どうしてデモになんか行くのだろう?
こんな地方都市でデモをやってなんか効果があるのだろうか?
リアルなレイ@も気にかかる。
さらに彼には彼の眼で確認したいことがあった。
それはデモ参加者の人数だ。
警察発表と主催者発表の数字はいつもいつも食い違う。
ネットでもしょっちゅう話題になる。
主催者の数字は希望的観測が入っていると彼は考える。
かといって警察発表は少なすぎるようにも感じる。
実際はどうなのだろうか。
自分の眼で確認してみたい。
しかし、レイに引っ張り出されたようで何となくばつが悪い。
何かよい方法がないものかと思案する。
「サングラスに、、マスク、、、あ、だめだ。不審者みたいでかえって目立つ。」
「バイクを押して歩道を歩くか、、それなら偶然のように見えるかな。」
あれこれと思案したが、名案が浮かばない。
彼はずいぶん迷った。
2019/6/1
翌日、心の中にもやもやした気持ちを抱きながらも休日1日目の日課をこなす。
こんなときは体を動かすと気持ちが落ち着くことを彼はよく知っている。
しかし好奇心を抑えることができなかった。
デモのビラを取り出して、時間とコースを確認する。
あれこれ小細工はしないで見に行くことにする。
人に紛れればレイ@にわかるはずがない。
一旦決めると彼の行動は早い。
Google mapを使って、デモ隊の時間と位置を予測する。
デモ隊が通過する場所まで15分程度歩いた。
思ったよりずっと多くの人が街頭に出ている。
彼のような野次馬なのだろうか。
歩道には多数の警察官が出て警備にあたっている。
こんな地方都市で「改憲反対」を叫んで意味があるのだろうか。
「改憲反対!」
「絶対反対!」
「憲法守れ、平和を守れ!!」
ドラムの音、ラップ調のシュプレヒコールが近づいてくる。
近づいてくるにしたがって、そのボリュームに驚く。
彼が考えていたよりずっと規模が大きいのかもしれない。
「改憲反対!」
「絶対反対!」
「憲法守れ、平和を守れ!!」
「戦争嫌だ、、守れ、守るぞ、憲法守るぞ!!!」
わからない。
どれほどの参加者がいるのか。
沿道の人の数すらわからない。
上空からの写真があればある程度は推測できるだろう。
しかしすでに薄暗い。
まもなく完全に暗くなるはずだ。
デモの目的地は市立の公園だ。
デモ隊の大部分はゴールで流れ解散していく。
一体どうやって参加者の人数を調べているのだろう。
主催者も参加者の人数を正確に把握しているとは思えない。
警察はどうやって調べているのだろうか。
先頭の集団の顔が識別できるくらいまで近づいてきた。
レイは先頭の近くにいるそうだ。
身長が169cmのはずだから、女性としては長身のほうだ。
もしダイレクトメッセージが嘘でなければ見つけることができるかもしれない。
レイ@がなりすましでなければだが。
幸い彼が立っている場所のすぐそばには街灯がある。
その街灯はデモ隊が通る道路を明るく照らしている。
ここを通れば顔も見えるだろう。
デモ隊が彼のすぐそばまでゆっくりと近づいてくる。
シュプレヒコールが響く。
最前列が通り過ぎる。
彼はデモの行列を見つめる。
しばらくすると背が高くプラカードを掲げる女性が見えた。
水色の長袖のシャツ、ジーンズ、周りの女性たちより頭ひとつ背が高い。
「レイ@だ。」
直感がそう告げる。
彼が凝視している間、デモ隊はゆっくりと進み、レイは更に近づいてくる。
10mぐらい先だろうか、十分に顔が見える位置までレイが近づいた時、目があった。
「えっ!」
と、彼が思った時、レイがプラカードを片手に持ち替えて手をふった。
口が動いているので、何か言っているようだがよく聞こえない。
「いや、まて、わかるはずがない。」
「単に通行人に手をふっているだけだ。」
彼は目をそらして平静を装う。
レイ@はどんどん近づいてくる。
すぐそばに来た時、レイは片手でスマホを取り出した。
「あ・・・」
と彼が思った時、スマホが光る。
「あ、カメラ・・」
そう思った時、平静を装っていた彼は思わず、手を前に出して顔を隠そうとしてしまった。
フラッシュが瞬く。
しまった、、、彼は焦った。
再びフラシュが瞬く。
写真を何枚か取られてしまった。
レイはスマホを持った手を振って、大きな声を出した。
「やっほー!!やっぱり来たねーー。」
「ああああ、やっぱりこの女性だ。」
「やばい、やばやばやばし、、、。」
彼は混乱する。
「水巻君。」
「水巻くーん、、、水巻君」
女性の声が聞こえる。
「えーーーー。だ、誰?」
よく見るとレイから5人ほど後ろに、なんと正田がいた。
笑顔をたたえて彼の名を呼んでいる。
彼は仰天した。
レイが通り過ぎ、目の前に来た正田は彼に向かって会釈をし、通り過ぎていく。
彼は反射的に会釈を返した。
通り過ぎたレイが振り向いた。
おそらく正田の声が聞こえたのだろう。
レイはプラカードを小脇に持ち替え、デモ隊の列の脇に逸れ(それ)て歩みを止めた。
彼は踵を返して、足早に立ち去る。
声を出して走り出しそうだ。
その気持ちを懸命になって抑える。
レイは正田を待つつもりだったのだろう。
その後どんなことになるかは容易に推測できる。
何でもないことだ。
彼は犯罪者でも何でもない。
善良な市民だ。
地方都市で真面目に労働している。
しばしばボランティ活動で汗を流す。
ただ、その地方都市で
Asayake@がリアルな世界で水巻保と重なりあった。
Asayake@がレイの中で現実の人となった。