わだかまりと、嫉妬と
龍華帝国の先帝、隆慶嘉太上皇は、ほぼ二年ぶりに宮殿を訪れた。青の上衣下裳に太上皇の冠を被った正装姿で、皇帝への謁見を申し込むと、あっさりと皇帝の居住区である後宮の一室に通された。
「拒否されると思っていました」
侍従として同伴した林来の言葉に慶嘉は答えず、正面をむいたまま皇帝を待った。林来はそれ以上何も言わず、一礼して部屋を出て行った。一人部屋の中で慶嘉は、
(ここにいると、息がつまる)
後宮で生まれ育った身ではあるが、好きな場所ではなかった。常に女や役人たちの権力争いの渦の中心がここ後宮であり、安全ではなかったからだ。退位して離宮へ居を移し、やっと自由に呼吸できるようになった。
(綜藍皇帝陛下、いや、藍華も、同じような気持ちなのだろうか)
藍華とは、皇帝の母である藍后の藍の字と、龍華帝国の華の字を取って、慶嘉と藍后が考え呼んでいた、皇帝の幼名である。幼名と言っても、実際にこの名を知って呼んでいたのは、慶嘉と藍后だけだったが、呼ぶたびに息子への愛情を感じていた慶嘉だった。
瑜燈昇とアイシャから、アリアとアルスが後宮へ連れて行かれてしまったと聞いてから三日経った。当初、後宮の藍后に仲介を頼もうかと思案したが、やはり直接自身で訪ねる事にし、今日、宮殿を訪れるまで、慶嘉は皇帝に対し詰め寄る気持ちでいた。どこでいつ二人の事を知ったのかは分からないが、自分のせいで連れて行かれたのは間違いないだろう。しかし、二人は何もしていない。無理やり連れ去った皇帝へ怒りがあった。
けれど、
(わたしは、父親として、間違った事をしようとしていないか)
藍后は慶嘉の妃ではない。慶嘉には妃はいない。それは藍華以外に子供生さないよう、周囲に利用されないよう、結果藍華を守る為だった。それを忘れた訳ではない。だが、アリアに出会って、アリアを側に置きたいと強く願ってしまった。慶嘉にとって、アリアは初めて惹かれた女性だった。周りの事を考えずにアリアを望んでしまった。それでも、こうして皇帝に会う為に宮殿へ、後宮へ来てみると、ここにいた当時の気持ちを思い出してしまう。
(藍華の立場を守るには、わたしはアリアを諦めた方がいいのではないだろうか)
林来に話せば怒られるだろう。林来は慶嘉の事を第一に考えてくれているのだから。しかし慶嘉は一人の男であり、父親でもある。父親としては一人息子の事を考えなければならない。
「………」
皇帝を待つ間に、慶嘉は当初の勢いを無くし、すっかり意気消沈してしまった。
そこへ、
「待たせたな、太上皇」
ハリのある声とともに、若き皇帝が現れた。普段着の黒の深衣姿である。冠もなく、短い黒髪が見えている。ややつり上がった目を自分の父親に向けると、父親は下を向いて覇気がなかった。
「………お久しぶりです、皇帝陛下」
「………ああ」
隆綜藍皇帝こと藍華は、椅子に座りながら眉を顰めた。藍華は父親である慶嘉が来たと聞き、政務を放り投げてきた。藍華は待っていたのだ、父親がアリアを取り戻しに来る事を。来たら何だかんだ言いながらもアリアを返すつもりだった。宮殿嫌いのこの男が自ら出向いてくるようであれば、息子として盛大に祝ってやろうと思っていたのだ。
が、当の本人は、挨拶を交わして以降何も言わない。しびれを切らし、
「太上皇、顔色が悪いが、用件はなんだ?」
強めの声で問えば、
「………皇帝陛下、申し訳ございませんでした」
「何を謝る?」
「帝都の貿易商人、瑜燈昇の娘、アリアの事です。わたしは身の程をわきまえずに、彼女を側に置きたいなどと望んでしまいました。どこで陛下のお耳に入ったかは分かりませんが、彼女には何も責任はございません。どうか、親元へお返しいただけないでしょうか?」
「………親元に返すと言うが、太上皇はそれでいいのか?」
「はい」
「あの娘を側に置きたいのであろう? 太上皇は妃が一人もいない。あの娘を迎えればいいのではないか?」
「いいえ。望みません」
「何故だ?」
「わたくしは、退位し隠居の身でございます。妃は不要でございます」
藍華は思わず目の前の机を蹴った。大きな音と共に机が倒れる。
「陛下?」
椅子から立ち上がり、きょとんとしている父親に近づき襟を掴んだ。
「太上皇、いい加減にしろ」
「な、なにを」
「いつもいつも、何故そう逃げ腰なんだ? ちゃんと己の気持ちを言えばいいだろう!」
「わたしは」
「太上皇がそうだから、周りも舐めてかかる。己の力量を知り、それ相応に欲を持て!」
「欲を持てと言われても」
「退位して隠居? だったら好きにすればいいだろう。誰の事を心配している? 俺の事ではないだろうな?」
「陛下の事を考えるのが、臣下の役目………」
「臣下じゃないだろう! 父親だろうが!」
父親と呼ばれ、慶嘉は目を大きく開き、おずおずと頷いた。
「はい、左様でございます。わたしはあなた様の父です。だからこそ、あなた様の事を考えているのです」
「不要だ。もう幼子ではない。俺は俺自身で己を守る。太上皇は、太上皇自身の事を考えろ。妃を迎え、家族を持て」
襟首を掴まれたまま、至近距離で睨み付けてくる我が子の目に、慶嘉は、
「藍華」
口から洩れた呼び声に、藍華は、
「そうだ。そう呼べばいいだろう。その名は、父上と母上がつけてくれた名前だ。たしかに俺は皇帝だが、その前に、太上皇の子だ」
藍華が父親の襟から手を放すと、慶嘉の腕が藍華を包んだ。
「すまない、藍華」
「………」
「すまない、わたしの息子」
藍華は父親の手を払わず動かない。慶嘉は十数年ぶりに息子を抱きながら後悔していた。藍華がどんな思いで自分に『家族を持て』と言ってくれたのか、考えると胸が痛む。藍華を拒絶していたのは慶嘉自身だったと気づき、慶嘉は息子へ悔恨の念しかなかった。
そっと腕を放すと、藍華が恥ずかしそうに、
「わかれば、いい」
皇帝ではなく子供としての顔でそう言い、慶嘉は嬉しさにもう一度息子を抱きしめた。
「もういいからっ」
暴れる息子を開放すると、
「アリアは月の間にいる」
「弟君のアルスも一緒か?」
「ああ」
慶賀か何故二人揃って連れて来たのかと問うと、藍華はアルスと親しい仲であった事を話した。
「三年以上前から知り合い?」
「そうだ。だから、アルスの姉の話を聞いて驚き、一緒に連れてきた」
「そんな偶然があるとは………」
「偶然と言うか、必然と言うか」
藍華は大きな溜息を吐き、
「俺が小さい頃、西の国の本や絵を良く見せてくれいただろう? そのせいか、俺自身も西の国に憧れがある。アルスに初めて出会った時、あの赤い髪と茶色の目に惹かれた。俺も父上の事は何も言えない」
「そうだったのか」
慶嘉の顔がほころぶ。
「嬉しそうに笑うな」
「ふふふ」
藍華は部屋の扉を開け、月の間に向かって歩き出した。慶嘉も後に続く。
「後宮に連れてきたのは、あのままだとアリアの存在が周囲に知られ、危険が及ぶる可能性があったからだ。父上がアリアを迎えるのならば、きちんと正式な手順を踏んで迎えた方がいい」
「手順と言うと………」
「アリアは大店の娘だが貴族ではない。諸侯らの反対を押さえ太上皇の妃になるには、貴族の家に養子縁組した方がいいだろう」
「あ、それについてだが」
慶嘉は周囲を見回し、侍従たちが側にいない事を確認した上で藍華の耳元に口を寄せると、
「アリアたちは貴族ではないが、少しやっかいな立場だ」
「どういう事だ?」
「アイシャ・ムフタールという王女を知っているか?」
「西の国『ソリュシュエレン』の王の妹で、海軍を率いる女将軍だろう? 知らないはずはない」
「その方は、瑜燈昇殿の奥方だ」
「………はぁ?」
「つまり、アリアとアルス、二人の母君だ」
「!」
藍華は声が出ないほど驚き、口を何度か開いて閉じた後、
「父上、洒落にならない冗談はやめてほしい」
「冗談が言えるほど面白い人間ではない。アイシャ殿下本人から聞いた話だ」
「帝都に来ているのか?」
「ああ。三日前から」
「という事は、二人が後宮にいる事をご存じなのか?」
「ああ。実はアイシャ殿下と瑜燈昇殿からわたしは聞いた」
「………今はどこに?」
「昨夜までは西の離宮に滞在していただき、今朝方昇魚屋へ戻られたが」
数人の侍従が足早に近づいてくる姿が見え、慶嘉は言葉を止めた。
「両陛下、失礼いたします」
「どうした」
「港の警備隊からの知らせです。西の国の海軍の船団が港に現れました!」
慶嘉と藍華は顔を見合わせた。
朱門の扉についている紐を引っ張り鐘を鳴らすと、すぐさま役人が顔を出してくれる。
「いかがされましたか?」
「あの、藍后様にお会いできますか?」
アリアの希望に役人は表情を崩す事もなく、
「伺ってまいります」
とだけ言って門の外へ消えた。
門には外から鍵がかけられており、中からは開けられない。
「今度こそ会えますように」
門に向って拝んでいると、
「姉さん、これで何回目?」
「うーん、七回か八回」
「藍后様って、忙しい方なんだね」
「そうねぇ」
後宮から逃げ出す為に、皇帝の母である藍后の手を借りようと面会を求め三日目。藍后は不在とか、お茶会中などで会えないままだった。
「もうさ、自分たちでどうにかしようよ」
「でも、この朱門も鍵がかかっているし、反対側の入り口は皇帝陛下の部屋につながっていると言うし、庭の壁は高くて登れないし、どうにも出来ないわ」
「うーん」
「唸ってないで、あんたも何か考えて」
「姉さんが思いつかないのに、僕が思いつくはずないよ」
そうやって姉弟二人、朱門の前に座っていると、門の扉が開き役人が現れた。ただしいつもの白髪交じりの役人ではなく、歳若い男である。
「藍后様がお会いになるそうです。ただ、こちらへいらっしゃる事ができませんので、お二人にお越しくださるようにと」
(月の間を出られる!)
アリアがアルスを見ると、アルスも同じ事を思ったのか頷いた。アリアは、
「参ります。案内していただけますか?」
「こちらでございます」
アリアとアルスは役人の後について月の間を出ると、朱色の円柱が並ぶ回廊を抜け鳥の絵が描かれた扉の部屋に通された。
「こちらでお待ちください」
言われた通りに二人で待っていると、くすくす笑い声がどこからが聞こえ始めた。
「なあに、あの髪は?」
「下品な色ね」
「日に焼けたのかしら」
「それって外で働いているから?」
「きっと身分が低いのね」
「そんな女が月の間をいただいたの? おかしいわ」
「本当よ。おかしいわ」
数人の女の声である。どうも覗かれているらしい。
「姉さん、ここって本当に藍后様のお部屋?」
「違うみたいね」
部屋の中に置かれた調度類を見ると、月の間にあった物よりも数段落ちる。とても皇帝の母后の部屋とは思えない。
「出ましょう」
アルスの手を取り部屋を出ようとした時、部屋の奥からワラワラと女たちが出てきた。腰まである黒髪の女性が、
「勝手に出て行こうとするなんて、礼儀がないわね」
「どなた様でしょうか? わたくしたちは藍后様に呼ばれて来たのですが」
「藍后様があなたたちを呼ぶはずがないでしょう?」
「では、失礼いたします」
扉に手をかけ出ようとした時、頭に痛みが走った。振り返ると、黒髪の女に、結い上げていた髪を後ろから掴まれていた。
「何をするんですかっ」
「汚い色ね。わたくしが綺麗にしてあげるわ」
「放してください!」
「姉さんを放せっ」
アルスが女に手を伸ばすが、他の女たちがアルスの腕を掴んだ。
「あなた宦官じゃないわね」
「宦官ではない男が後宮へ入ったら死刑よ」
弟の危機に、アリアは自分の髪を掴む女の手を払おうとしたが、さらに髪を掴み上げられ、痛みに呻いた。簪が落ち、髪がばらける。
「痛いっ」
「ほら、綺麗になりなさい」
女はそう言って、もう片方の手に持っていた小さい水差しをアリアの頭上で傾けた。
「え………」
頭が濡れた感触と、頭から額、額から頬と液体が伝って流れてくる感触に、手で頬に触れれば、指が黒く染まった。墨だった。
「髪も顔も黒くして差し上げるわ。これで少しは綺麗になるでしょう?」
頭から墨をかけられた衝撃で、呆然としていると、
「うわっ」
アルスの悲鳴。見るとアルスも墨をかけられている。
「アルスっ」
弟を助けようと手を伸ばした。その時、耳元で『ジョキ』と音がした。肩越しに振り返ると、アリアに墨をかけた女が、今度はその手に鋏を持っていた。そしてもう片方の手には一房の髪を握っている。アリアは墨だらけの自分の頭を押さえ、髪を切られた事を知り、
「ひ、ひどい………」
「まあ。汚い髪を綺麗にしてあげているのに、その言い草は何? これだから平民の子は困るわ」
女の言葉に周りの女たちが笑う。
「さあ、もっと切ってあげる。怪我をしたくなければ、じっとしてなさい。手元が狂うと、耳や首を切ってしまうかもしれないわ」
目の前に鋏を突き付けられる。恐怖に目を閉じた。そこへ、
「アリアっ」
男の声がした。聞き覚えがある声だった。目を開けると、部屋の扉が全開になり、二人の男が立っていた。一人は皇帝、そしてもう一人は、
「慶嘉様」
アリアは会いたかったその人の名前を呼んで、はっと我に返った。墨をかけられ髪を切られ、ひどい有様である。見られたくなかった。顔を手で隠し、後ずさりながら
「こ、来ないでください」
「アリア、大丈夫か」
「お願いです、見ないでください」
「アリア」
「慶嘉様、お願いです、見ないでっ」
体をぎゅっと包まれた。包んだのは慶嘉の腕だった。目を開くとすぐ目の前に青の上衣下裳が見えた。金糸で刺繍がされている上等な服である。
「慶嘉様、ご衣裳が、墨がついてしまいます。汚れてしまいます」
「いいから」
「ですが、ですが」
「いいから気にするな」
「でもっ」
「落ち着け、アリア。大丈夫だから」
背中を撫でられる。服越しでも分かる温かい手に、気分が落ち着いていく。けれど、
「見ないでください。こんな姿、見ないで………」
アリアはボロボロと涙を流した。初めて見せる娘姿がこんな状態でアリアは悲しかった。
「アリア、顔を上げてくれないか」
墨と涙で真っ黒になっている顔を見せられず、俯いたまま顔をふる。慶嘉は無理強いはせず、
「藍后、湯殿へアリアを連れて行ってもらえないか?」
少し顔を上げると黒い襦裙を着た藍后の姿があった。
「かしこまりました。アリア、行きましょう」
藍后が手を伸ばしてくれる。素直にその手を掴んだ。
「弟君はどうされますか?」
藍后の問いかけで、アルスの方を見ると、アルスをその腕に抱いて守っていたのは皇帝だった。
「俺が湯殿へ連れて行く」
皇帝の声は低く、怒りが伝わってくる。皇帝は腕にアルスを抱いたまま、
「円李」
街で出会った配下の女性の名前を呼んだ。音もなく女性が現れる。街で見た時は着崩れた襦裙姿だったが、今日は胸元をしっかり隠した灰色の襦裙を着ていた。表情がない円李に対し皇帝は、
「この場所は任せる」
「御意」
円李は冷たい視線を部屋の女たちに向けた。女たちが体を震わせ藍后に助けを求めるようとしたが、藍后は女たちには見向きもせず、アリアを手を優しく握り、
「さ、行きましょう」
アリアは頷き、藍后と共に部屋を出た。