知ってほしい事と、伝えたい事と
◆龍華帝国
大陸の東に位置する皇帝が統治する国家。1000年帝国。
◆西の国
正式名は『ソリュシュエレン』。帝国では発音しにくいので、通称である「西の国」と呼ばれている。
帝国との間には大きな砂漠あり、陸路より海路で交易を行っている。
部族制で、時代によって統治している王の部族が異なる。
現在はムフタール族が統治している。
皇帝の母である藍后は、
「また来るわね」
と笑いながら月の間を出て行った。
アリアは半ば呆然としつつ藍后を見送り、ややして、
「あ、アルスは?」
風呂場へ行った弟が、だいぶ時間が経つのに戻って来ていない事に気づき、
「アルス?」
弟の名前を呼びながら風呂場へ向かうと、背の高い男が歩いてくるのが見えた。後宮に出入りできる男は宦官か、もしくは、
「………皇帝陛下」
しかいない。
最初アリアに『藍華』と名乗った短髪とつり目の男は、黒の深衣を着て優雅に廊下を歩いて向かってきた。
「月の間は気にいったか? アリア」
「…………………」
返答に困り、結果無言になってしまった。流石に皇帝に対して無礼ではある。とりあえず頭を下げた。
「アルスはどこだ?」
「………お風呂場です。勝手に使い申し訳ございません」
「この月の間は、代々の皇帝の皇后、もしくは寵姫が住む部屋だが、俺の代ではまだ誰も住んでいなかった。好きに使え」
「どうして、わたくしと弟がここへ連れてこられたのでしょうか?」
「言っただろう? 守ってやろうと」
「守ってもらうような事はございません」
皇帝を見上げると、皇帝は面白そうに笑い、
「本当にお前とアルスはよく似ているな。赤い髪といい、その強気な茶色の目といい、見ていて飽きない」
皇帝はアリアの頭に手を伸ばした。逃げられず触られる。皇帝はアリアの髪を一房手に取り、
「まあ、しばらくここでのんびりしておけ」
「いつ、帰れるのでしょうか?」
「さあな」
「陛下っ」
「あの男がお前を迎えに来たら、帰してやろう。来るとは思えんがな」
あの男と言うのは慶嘉の事だろう。自分の父親をそんな呼び方をする皇帝の真意が分からず、アリアは何も言えない。
「ところで、アルスは風呂に行ったばかりか?」
「いえ、もうだいぶ経つので、見に行こうかと思いまして………陛下?」
皇帝は踵を返すと風呂場へすたすたと歩いて行く。アリアも早足でついて行った。
「アルス?」
石で作られた円弧状の門が風呂場の入り口だった。門をくぐった皇帝が声をかけるが返答がない。湯殿へ続く木で作られた引き戸を皇帝が開くと、湯気がもわっと出てきた。皇帝は履物も脱がずにそのまま中へ入ると、
「大丈夫か!?」
その声にアリアも急いで中に入ると、裸のまま床に倒れていたらしいアルスを抱き上げる皇帝の姿があった。
「アルスっ」
アリアが叫ぶと、
「のぼせたようだ。ったく」
皇帝はアルスを抱き上げると風呂場を出て、一番近くの寝室に入った。
「水と、衣裳部屋から服を持ってきてくれ」
「はいっ」
月の間にはお茶程度は用意できる炊事場があった。アリアはまず炊事場で水差しと杯を用意して先に寝室へ運び、衣裳部屋から男物の服を取り出して急いで寝室へ戻った。
「あの、アルスは」
「自分で水を飲んだから大丈夫だろう。念の為侍医を呼ぶ」
「わたくしが呼んでまいります」
朱門へ走り紐を引いた。鐘が鳴るとすぐ役人が朱門を開けて入ってきた。
「あの、弟がお風呂場でのぼせて、皇帝陛下がお医者様を呼ぶようにと仰っています」
役人は少しだけ眉を動かし、
「かしこまりました。急ぎましょう」
と、朱門を出て行った。
アリアはまた寝室へ戻ったが、入る直前に話声が聞こえ、入るのを躊躇った。
「頭は痛くないか?」
「大丈夫」
「吐き気はないか?」
「大丈夫だって」
「侍医が来るから」
「大丈夫だってば…………失礼いたしました、皇帝陛下」
「そんな態度を取るな」
「陛下は陛下ですから」
「俺は俺だ」
「でも、陛下だし」
「陛下と呼ぶな。今まで通り藍華と呼べ」
「呼べる訳ないじゃん」
「呼べばいいだろう」
「呼べないよ」
「何故だ?」
「藍華って、本当の名前じゃないでしょ? 隆綜藍陛下」
「藍華は俺が幼い頃、母と父が呼んでいた名前だ」
「父と母? 父って」
「太上皇だ」
「そうなんだ」
「だから、俺の名前だ」
「ふーん」
しばらく間があって、
「でも、呼べないよ。もう」
「呼んでほしい」
「どうして?」
「アルスに、陛下とか呼ばれたくない」
「どうして?」
「呼ばれたくないから、呼ばれたくない」
「我儘だな」
「我儘なのは知っているだろう」
「知っているけど」
「お願いだから、藍華と呼んでくれ、アルス」
「ふーん」
「怒っているのか?」
「そうだね」
「すまない」
「そんなにすぐ謝らないでよ」
「黙っていて悪かった。驚いたか?」
「驚かないわけないじゃん。皇帝とかって、どんな冗談? ありえないよ」
「すまない」
「その上、こんな所へ連れて来てさ、僕と姉さんをどうするさ?」
皇帝は答えず、二人は黙ってしまった。
(もう、入っていいかしら)
二人の会話を盗み聞きしてしまったが、
(藍后様が、皇帝陛下がアルスを気にいっていると仰っていたけど、本当なのね)
二人の様子はまるで兄と弟のようだ。
「あの、失礼いたします」
顔を出すと、
「あ、姉さん」
「着替えを持ってきました。あと、お医者様もお呼びしました」
「お医者様はいいよ、もう大丈夫だから」
アルスの拒絶を皇帝が、
「大事があってはいけない。見てもらえ」
「やだなぁ」
寝台の上で薄手の布団を体に巻き付けながら嫌がる弟に、
「ほら、着なさい。風邪をひいてしまうわ」
「うん」
布団から出て寝台の上から下りたアルスは、自分が裸でいる事に気づき、
「ちょっと、姉さん、恥ずかしいから出て」
「弟の裸なんて見慣れたものよ。恥ずかしがってどうするの?」
「だって」
アルスの目が皇帝へ向けられる。皇帝は、
「男同士で恥ずかしがってどうする?」
「だって、皇帝陛下に裸見られるなんて嫌だよっ」
「皇帝でなければいいのか?」
と、皇帝。
「そういう問題じゃないってば」
アルスがあまりにも嫌がるので、アリアと皇帝は部屋を出た。
「陛下、弟が不躾で申し訳ございません」
「いや、アルスはあれでいい」
皇帝の顔を見ると、機嫌がよさそうだった。
「アルスには、俺を藍華と呼べと言ってある。アリアも俺の事は藍華でいい」
「それは」
出来ないと言おうとして、
「藍華と呼ばないと返事はしない。分かったな」
「ええっ! あの、陛下」
皇帝は宣言した通り返事をしない。見向きもしない。
アリアは覚悟して、
「………藍華様」
「様はいらん」
「藍華」
「なんだ?」
「弟の事、ありがとうございます」
「気にするな」
そこへ役人と侍医と思われる老人が来た。
「アルスは中だ」
「かしこまりました」
役人たちが中へ入って行くが、皇帝は動かず入り口に立ったままだ。アリアはどうしたらいいのか分からず同じように並んで立っていると、
「アリアは、俺の父の事が好きなのか?」
唐突な質問に、アリアは顔を真っ赤にして、
「その、それは、あの、まだよくわからないと言うか………その」
「会ってまだ間もないと言っていたな」
「はい。二度、です」
「二度? 二度だけしか会っていないのか?」
「はい。それもアルスのフリをしてお会いしました」
アリアは事の発端を話した。
「なるほど」
「その、確かに慶嘉様の事を思うと、胸がその、どきどきして」
「ほう。だいぶ歳が離れているが気にならないのか?」
「慶嘉様はおいくつですか?」
「今年三十六だ。俺より十六歳上だ」
「そうすると、私より二十上です」
「親子のようだな」
「そうですね」
「それでもいいのか?」
アリアは胸を押さえ、
「………はい」
「そうか」
皇帝は一つため息を吐くと、
「アリアは、太上皇の皇帝時代を知っているか?」
「いえ、正直に申しますと知りません」
「そうだろうな。太上皇は一昨年まで八年間、皇帝としてこの帝国を統治していた。その間に遠征を四回行い、全て勝利している」
「え?」
「そのうちの一つ、北の蛮族討伐戦では、自ら敵の族長の首級を取り戦果を上げた」
「え、え?」
「行政においては、地方の灌漑事業に手を入れ、収穫高を飛躍的に上げた」
「ええ?」
「帝都内も、帝都警備隊の不正と怠慢を罰し、体制の立て直しと帝都内の治安回復をはかった」
「………それは、どなたの事を仰っているのでしょうか?」
「だから、太上皇の事だと言っているだろう?」
「うそお」
思わず本音が漏れ、すぐさま手で口を押えた。
「失礼いたしましたっ」
「いや、虫や小動物を触れないあの男の事を知っている者は皆そう思うだろう。そしてあの男の事を知らない者は、あの男の業績も知らない。あの男は自分を過小評価するあまり、自身の功績をいっさい周知しない。愚かだろう? それゆえ、ほとんどの者があの男の事を知らない。ただ『中継ぎ皇帝』とかしか思っていない」
皇帝は苛立った口調で、指の爪を噛んだ。その様子に、
「藍華は、慶嘉様の事をお好きなんですね」
皇帝はアリアを見つめ、ふっと目を和らげると、
「当たり前だろう。父親だ」
「それを、慶嘉様はご存じですか?」
「知らないだろう。俺が五歳で皇太子になって以来、あの男は俺の事を皇太子殿下とかしか呼ばないし、俺が十九歳で成人したらあっさり退位して、さっさと離宮に隠居し、西の国の本やら絵やらだけを見て過ごしている。俺の事など見ていないさ」
「…………」
「宰相どもは、あの男が退位してからあの男の有能さに気づき焦っている。俺よりはるかに皇帝に向いているからな、あの男は」
「藍華もそう思っているんですか?」
「そうだ」
皇帝は笑顔で、
「そんな俺の父親を、好きになってくれてありがとう、アリア。父は、妃の一人も娶らなかった。それは俺のせいだ。父に新たに子が出来れば俺の立場が危うくなる可能性があったし、これから先も子が生まれれば利用しようとする者も現れるだろう」
「それでも、いいのですか?」
「ああ。俺はもう子供ではない。自分の身は自分で守れる。それよりも、父が己の気持ちを優先してくれる事の方が嬉しい。離宮に一人閉じこもるのではなく、家族を得て、幸せになってほしい」
「藍華も、ご家族でしょう?」
「父はそう思っていないだろう。そう思える状況ではなかった」
「それでも、慶嘉様の幸せを願っていらっしゃるのですね」
「ああ」
藍華の顔に迷いや偽りはなかった。アリアは、
「藍華、私をここから出してください」
「なぜ?」
「藍華の気持ちを、慶嘉様にお伝えしたいのです」
「そんな事はしなくていい」
「駄目です。慶嘉様もきっと藍華の事を思っています。だって、あの、さっき聞いてしまったんですが、藍華の名前、慶嘉様が呼ばれていたお名前なんですよね?」
「そうだ。父と母が考えて、呼んでくれていた」
「いいお名前だと思います。あの、慶嘉様は、子猫に触れるのも怖がって出来ない方だったので、藍華にどう接していいのかわからないんだと思います。でも、けして藍華の事を思っていないはずはありません」
皇帝は答えず、その場を離れようとした。アリアは皇帝の背に向かって、
「ここから出してください」
「あの男が迎えに来たらな。それぐらいは、あの男の男気を見てみたいのさ」
「藍華っ」
皇帝は廊下を歩いて行ってしまった。
のぼせただけ、と侍医の診断を受けた弟は、早々に寝台から出てきた。
「姉さん、ごめんね」
「どうしてのぼせるぐらい入っていたの?」
「すごく広くてさ、楽しくて」
子供らしい理由に情けなくなる。
「皇帝陛下が運んでくださったのよ。ちゃんとお礼を申し上げなさいね」
「うん。藍華はもう帰った?」
「ええ」
「そっか」
残念そうなアルスに、
「アルスは陛下と仲がいいのね」
「うん」
「どこで出会ったの?」
「三年ちょっと前かな。街で遊んでいたら、ほら、鳴鳥屋に馬鹿息子いるでしょう?」
鳴鳥屋というのは、同じように異国品を扱う店である。
「ええ、いるわね」
アリアも知っているその店の息子は、以前アリアに言い寄って来て、返り討ちにした事があった。
「あいつと、その取り巻き連中に絡まれて、ちょっと危なかったんだ」
「それって、三年前って言ったわね?」
「そう」
アリアは、
「その頃、あいつが私に言い寄って来て、力ずくでどうにかしようとしてきたから、棒で叩きのめしたの」
「あ、それでか」
原因がアリアにあったと分かり、
「ごめんなさい、アルス」
「ううん、いいんだ。その時、僕を助けてくれたのが藍華。短い棒一本で、五人をあっという間に倒してさ、強かったよ。その後色々話をしたら、どうも貴族のお坊ちゃまらしく、帝都を歩くのも初めてだって言うから、街を案内して、それから遊ぶようになった。昨日も話したけれど、忙しいからそう頻繁に会えたって訳じゃないけど、会える時は会ってた。でもまさか、皇帝陛下とは思わなかった」
「さっき少しお話したけれど、優しい方ね」
「でしょ? 強くてイイ男で、気前もいいし」
アルスは自慢げだ。
「そうね、私もそう思うわ」
(だからこそ、皇帝陛下のお気持ちを慶嘉様へ伝えたい)
「どうにか………ここから逃げ出せないかな?」
「逃げるの?」
「じっとしていても仕方ないしね。どうにかして逃げらないか方法を考えましょう」
「そうだね」
「藍后様に聞いてみようかな」
(あの方なら、協力してくれそうな気がする)
「誰?」
「皇帝陛下のお母様」
「どこで知ったの?」
「アルスがお風呂に入っている時に、こちらへいらっしゃったの」
「へえ。お会いしてみたかったな。藍華のお母様と言う事は、慶嘉様のお后様?」
「それがね、藍后様は先々帝の妾妃様だったんですって」
姉の説明に弟は不思議そうな顔をして、
「意味わからない」
「私も」
姉と弟は、とりあえず逃げる算段をする事にした。
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