赤の母と、黒の母と
【登場人物】
◆隆綜藍
龍華帝国の皇帝。21歳。
隆慶嘉太上皇の息子であり、先々帝の甥。
アルスには「藍華」と名乗っていた。
◆隆綜嘉
龍華帝国の先々帝。隆慶嘉太上皇の実兄であり、
隆綜藍皇帝の伯父。
慶嘉より9歳年上で、35歳で崩御。
二日連続で朝から昇魚屋を訪れた林来は、まだ閉まっている扉を叩くべきか、開店までもう少し待つか思案していたが、店の奉公人たちが出入り用の小さい戸から慌ただしく出入りしている姿を訝しみ、ちょうど出てきた番頭に声をかけた。
「これは林来様」
「番頭殿、お忙しいところ申し訳ございません。………何かございましたか?」
「あの、その」
番頭は林来の耳元に口を寄せ、小さい声で、
「実は、お嬢様と坊ちゃまの行方が分からなくなりました」
「!」
「朝起きたらお二人とも姿がなく、どうも夜中に出て行かれたようですがお金を持ち出した様子がなく、家出なのか、それともかどわかされたのか、分からないのです」
「お二人ともですか? 何か残された物は?」
「お二人ともです。置手紙はなく、誘拐だとしたらまだ脅迫状は届いていません。無理やり連れ去った跡はございませんでした」
「店主殿は?」
番頭はさらに声を潜め、
「燈昇様は、その、慶嘉様がお連れになったのではないか?と考えておいでで、今ちょうど、わたしに離宮へ行けと仰ったばかりでした」
「離宮へお二人をお連れしてはおりません。今日は店主殿にもう一度アリア殿の件でお会いしたく参りました」
「そうでしたか………あの、燈昇様は中にいらっしゃいます。どこぞ、こちらへ」
昨日と同じ居間に通されると、長椅子に座らず立ったままの燈昇が居た。
「店主殿」
「番頭から聞きました。陛下が二人を連れ去ったわけではないのですね?」
「もちろんです」
「では二人はどこへ?」
「わかりません。ですが、お二人を探すお手伝いをさせていただけますか?」
「結構です。これは我が家の問題です」
「アリア殿は我が主の大切な方です。そしてアルス殿はその弟君」
「それが原因で二人が連れ去られた可能性がありましょう、林来様」
「それはっ………まさか」
「アリアが離宮へ出入りした姿と、こうして陛下の侍従の林来様が我が家へお越しになられているのを見た者が、二人をかどわかしたのではないでしょうか?」
林来は顔を強張らせ、
「ありえない話ではございません」
燈昇は林来を睨み付け、
「お帰り下さい。そろそろ帝都警備隊が来る」
しかしそこで引く訳にはいかない。林来は燈昇の威圧感に負けないよう腹に力を入れ、
「いえ、お手伝いさせてください。もし本当に原因が我が主だった場合は、帝都警備隊では解決できないでしょう」
燈昇は林来を睨み付けたまま、それ以上林来を追い返そうとはしなかった。
そこへ、
「燈昇様っ」
番頭が青い顔で飛び込んできた。
「どうした?」
「あの、宮殿から使いの方がお越しになられております」
「宮殿?」
燈昇が林来を見ると、林来は顔を振り、関与を否定した。
「こちらへお通ししてもよろしいでしょうか?」
「わたしが出迎える。林来様、右手側の奥に隠し戸があります。隠れていただけますか」
林来は言われた通りに奥の隠し戸の裏に隠れた。ここなら居間で交わされる会話も聞こえるだろう。ここに隠れろと言う事は、宮殿からの使いの話を聞けと言う事だ。息をひそめて待っていると、人の入ってくる気配がした。
「どうぞこちらへ」
燈昇の声だ。燈昇以外に、一人、いや二人の気配がある。
「瑜燈昇殿、我らは宮殿侍従長、箔敦観様の使者でございます。侍従長様からの言付けを申し伝えます」
「瑜燈昇殿の子女アリア、そして子息アルス、両名については、推薦により宮殿への出仕が認められました」
少し声音が高いが、男二人のようだ。口調から林来と同じくらい、二十代中頃だろうか。
「お二人は、既に宮殿へ参殿されております」
「お父君である瑜燈昇殿におかれましては、ご心配なきようにと、侍従長様よりお言葉でございます」
二人はそれだけ言って部屋を出ようとしたようだ。慌てた燈昇が、
「ご使者様、二人はなぜ宮殿へ?!」
「やんごとない方の推薦がございました」
「二人は宮殿のどこへいるのですか?」
「お二人とも、後宮の一室を与えられ、職務にあたられます」
「後宮! なぜ後宮ですか? 二人とも? アリアは女子ですが、アルスは………」
「瑜燈昇殿、我らは失礼いたします」
使者が部屋から出て行ったのを陰から確認し、林来が隠し戸から出ると、燈昇が青ざめた顔をしていた。
「店主殿」
「林来、やんごとない方とは、もしや慶嘉様ですか?」
林来は首を振り、
「陛下がそんな事をするはずがありません」
「ではいったい誰が!?」
「わかりません。しかし、お二人が後宮にいるとは………」
「アルスは男子です。後宮に入れられたと言う事は、まさか宦官に!」
男の身で後宮に入るには去勢し宦官にならなければならない。林来は否定できなかった。林来自身がそうなのだからだ。
林来は唇を噛み、
「………店主殿、わたしが宮殿へ行き、状況を確認して参ります。わたしなら後宮へ入れますから」
「林来様」
燈昇を落ち着かせようと、林来は笑顔を浮かべ、部屋を出ようとして再度飛び込んできた番頭とぶつかった。
「林来様、申し訳ございません」
「いえ、大丈夫です。どうされましたか?」
「あの、燈昇様、お客様です」
「客? 誰だ?」
「それが、西の国の装束の方で、お顔は被り物で隠されているものですからはっきり見えません。ですが、声が女性でした。店主殿はいるか?とお訊ねです」
西の国、女性、そう聞いて、燈昇は早足で部屋を出た。その後を林来が追う。開けていない店内に、確かに西の国の旅衣装を着た人物がいた。連れはいないようだ。その人物を見るなり、燈昇が叫んだ。
「アイシャ!」
呼ばれた人物が振り返った。頭と顔は被り物ではっきり見えない。だが、
「トウショウ!」
声は女性だった。発音が西の国の訛りがある。声の持ち主はそのまま燈昇に抱きつき、
「あなた、会いたかった!」
「おまえ、どうして、いつ戻って来たんだ?」
「ついさっきだ。船で来た。ああ、会いたかった、トウショウ」
林来の前で、燈昇と異国の女性は抱き合っている。林来は『まさか』と言う気持ちで、
「店主殿、その方はもしや………」
燈昇は照れくさそうに、
「妻だ。アリアとアルスの母だ」
「やはり、そうでしたか」
アリアとアルス、二人の名前に、
「二人はどこ? 会いたいわ」
燈昇は気まずそうに視線を外した。その様子に、
「どうしたの、あなた。二人はどこ?」
「ここにはいない」
「ではどこにいるの?」
燈昇は答えにくいのか、黙っている。苛立った女性は林来に、
「そこのあなた、知っているの? 二人がどこにいるのか?」
林来はアリアとアルスの母に嘘はつけず、
「お二人は後宮にいらっしゃいます」
「コウキュウ? 後宮? それはどういう事? アリアが後宮に上がったの? でもアルスは? アルスは男の子よ?」
「アイシャ、実は二人は昨夜から行方が分からず、今しがた宮殿の使いの方から二人が後宮に連れて行かれた事を聞かされたんだ。だから、わたしも何が起こったのかわからない」
「なんですって!?」
女性は声を荒げ、被り物を脱ぎ取った。瞬間、林来の目の前に炎が現れた。それは見事な赤い髪だった。ゆるく曲線を描く長い髪が炎のように真っ赤だった。そして、大きくつり上がった目は赤みをおびた茶色であり、肌は白く、美しい女性だった。若く見えるが、燈昇の妻でありアリアとアルスの母であるというからには、歳は三十代だろう。
「トウショウ、宮殿へ案内してちょうだい」
「どうするつもりだ、お前」
「二人を迎えに行くわ」
「お前が行っては国同士の問題になる」
「私は二人の親よ」
「それはそうだが、その前に、お前は西の国の王女だろうが!」
燈昇は言って、狼狽え、己の手で口を押えた。周囲を身回し、幸いその場に居たのが自分と妻と林来の三人だけだった事に気づき、少しだけ安堵した。だが、林来には聞かれてしまった。燈昇が林来を見ると、林来は目を見張っていた。
「店主殿、今のは………」
燈昇は覚悟を決めた顔で、
「アイシャは………西の国『ソリュシュエレン』の先王の娘で現王の妹、女将軍アイシャ・ムフタールだ」
この場で聞くはずはない名前に、林来はさすがに声をなくした。
通された部屋と、室内の調度類は立派だった。つい値踏みしてしまうのは、商売人の娘の性だろう。眠れないまま朝を迎え、アリアは自分の膝を枕にして寝ている弟の顔を撫でながら、朝日の差し込む窓を見つめた。
窓の外から、女性たちの声が聞こえる。その会話の内容から、自分が今いる場所が後宮だと知って、アリアは混乱していた。
後宮は、宮殿の奥にある皇帝と妃たちの住居である。男子禁制であり、女もしくは去勢済みの男である宦官のみが出入りを許されている。
アリアはアルスの手を握りしめた。自分よりもアルスが心配だった。
「アルス………」
(守らないと、この子を)
外から音や声がする度に、アリアは体をびくつかせた。震えが伝わってしまったのか、
「ねえ、さん?」
アルスが起きてしまった。アリアはがんばって作った笑顔を弟に向け、
「おはよう、アルス」
体を起こしてやる。アルスは目をこすりながら部屋の中を見回し、
「ここって…………」
「宮殿よ」
アルスは昨夜の事を思い出したのか、立ち上がり窓の外を覗いた。
「姉さん、綺麗な格好をした女の人がたくさんいるよ」
「………」
アリアも立ち上がり外を覗く。アルスの言った通り、部屋の外の廊下を、着飾った女たちが行き交っている。
「男もいるけど、あの服って役人だよね」
女たちの中を、袍と袴を着た男たちが歩いている。その服の色は黒で胸元には龍の刺繍が施されており、その色と刺繍は帝都の役人である事を意味していた。
「姉さん、僕たちどうなるのかな」
不安気な弟の頭を撫でる。アルスは小さい声で、
「藍華のばかやろう………」
と呟いた。
宮殿へ連れてこられる途中の馬車の中、アルスは衝撃で何も言えず、アリアに抱きついたままだった。その様子から、よほど藍華と名乗っていた青年を信用していたのだろうと、アリアは弟が不憫だった。
(まさか皇帝陛下だなんて、誰が想像するだろう)
皇帝を間近に見る機会など庶民にはない。目の前にいた短髪で色黒の男が皇帝だとは、アリアは微塵も思わなかった。まして、
(慶嘉様とは、ぜんぜん似ていないし)
そう、皇帝は太上皇である慶嘉の息子なのだ。しかし、その容貌や雰囲気に似ている所が全くなかった。
(慶嘉様は優しい目をしているけれど、皇帝陛下の目はつり上がっていて怖い)
けして慶嘉がたれ目であるとは思わないアリアであったが、
「姉さん、僕、お腹空いた」
急にいつもの雰囲気に戻ったアルスが、部屋の中を捜索し始めた。
「お菓子のひとつもない」
「確かにお腹が空いたわね」
扉には鍵がかかっていた。勝手に部屋を出てはいけないらしい。
「いつまでここにいればいいんだろう」
「どこか抜け出せそうなところがないかしら?」
「窓を壊してみようか」
「それは最終手段に取っておきましょう」
姉と弟がそんな会話をしていると、扉が開き、役人姿の男が入ってきた。白髪交じりで、二人の父親よりも年上に見える。
「瑜家のアリア様、アルス様、お部屋の準備が整いましたので、ご案内いたします」
深く頭を下げる役人にアリアが、
「部屋? こことは違う所ですか?」
「お二人には、月の間をご用意するよう、皇帝陛下よりご指示を受けております」
「月の間?」
それがどういう部屋なのか分からず、アリアはアルスと顔を見合わせる。
「二人いっしょですか?」
「はい」
離れ離れにならずにすむのはよかった。二人は大人しく役人の後をついて行く。途中すれ違う女や役人たちから向けられる視線が気になったが、二人は無言で廊下を歩き進んだ。
「こちらでざいます」
二頭の向かいあう龍図が彫られた朱色の二枚扉が開くと、花々が美しい中庭が広がっていた。中央には噴水がある。
「こちらは月の間専用の中庭となっておりますので、他の妾妃様方が入ってこられません」
「専用? 妾妃?」
「姉さん、妾妃って、皇帝陛下の奥さんの事?」
「そうね、そうよね」
役人は廊下をどんどん奥へ進む。二人も早足でついて行く。
「月の間、とは申しますが、規模としては離宮級でございます。部屋は三十二、うち寝室が五つ、衣裳部屋が七つ、他の部屋はお好きにお使いください。入り口は今入ってきた朱門と、反対側には皇帝陛下のお部屋につながる門がございます」
「皇帝陛下のお部屋につながる門?」
「それって、どういう事?」
姉と弟の疑問に役人が答える事はなく、
「皇帝陛下より、女官は置くな、とご指示がございましたので、お二人以外の者は誰もおりません。お食事は時間になりましたらわたくしがお持ちいたします。他に何か御入用の品がございましたら、お申し付けくださいませ。朱門に紐がついております。引っ張っていただくと鐘が鳴り、わたくしが参ります」
「あの、あなたは?」
「わたくしは月の間の管理をしております」
「お名前は?」
「名前はございません。好きな呼び方でお呼びくださいませ」
役人は頭を下げると、
「朝食をお持ちいたします」
と出て行った。
残されたアリアとアルスは、最初はオドオドと部屋を見て回ったが、途中から、
「姉さん、この壺いくらだろう?」
「こっちの皿は高いわよ。うちの店で売ったら、月の売り上げ目標をすぐ突破できるわね」
「姉さん、衣裳部屋の服の数が半端ない!」
「首飾りや簪も一流品だわ!」
二人で走り回っていると、役人が食事を持って戻って来ていた。円卓のある部屋で食欲を満たし、役人がまた出ていくと、二人は肩を並べて長椅子に座り大きくため息をついた。
「僕たちこれからどうなるんだろう」
「お父様、きっと心配しているわね」
「ここで何をするのかな?」
「分からないわ」
「僕、お風呂に入りたい」
「私も」
「着替えもしたいけど、衣裳部屋の服、勝手に使っていいのかな?」
「あんたが着れそうな服はあった?」
「ちゃんとあったよ」
それを聞いて、アリアは、
(よかった。男子の服があると言う事は、アルスを宦官にするつもりはないのかもしれない)
アルスは気づいている様子がなかったが、ここへアリアとアルスを案内してきた役人や、途中すれ違った役人たちは宦官だろう。
(もしアルスが宦官にされたら………)
想像したくもない。アリアは頭を振って不安を追い払い、
「お風呂場もあったわね」
「うん、温泉だったよ」
「入っちゃおうか」
「僕、先に入っていい?」
「いいわよ」
喜んでお風呂場に走って行く弟の後姿を見送り、もう一度大きくため息を吐いた時、
「綺麗な赤い髪ね」
背後で声がした。驚き振り返ると、いつの間にか黒い襦裙姿の女性が立っていた。黒髪黒瞳に、頭には黒珊瑚の簪を挿している。全身黒で統一された姿が異様で、唇の赤い紅が際立っている。右の口元にある黒子が印象的で顔は秀麗だが、歳若いのか熟年なのか分からない。年齢不詳の美女はアリアに近づくと、
「あなたも、さっきの坊やも、なんて綺麗な髪かしら。目も素敵。陛下方がお気に召されるのもわかるわ」
「あの、あなたは………?」
役人は、この月の間には誰も入れないと言っていた。ではこの女性はどうしてここにいるのだろうか?と不思議に思う。
「わたくしは、藍よ」
「藍様、ですか?」
「様なんていらないわ。藍と呼んでちょうだい」
「いえ、そういう訳には………」
「だってあなたはわたくしの事を知らないでしょう?」
「ですが、ここにいらっしゃると言う事は、ただの妾妃様ではないと思います」
「あら、どうして?」
「ここは、他の妾妃様方は入ってこられないと聞きました」
「そうね」
「そうすると、あなた様はいったいどなたですか?」
藍はアリアに対し、口元に笑みを浮かべると、
「わたくしは、藍后。皇帝陛下の母です」
アリアは肩を落とし、床を見た。ここ最近の流れで、目の前の貴人がただ者ではないだろうと推測はしたが、現実は予想よりも上を行く。
(太上皇である慶嘉様に、皇帝である綜藍陛下、それに皇帝陛下の母君である藍后陛下………)
続々と現れる高位の人々に、アリアは頭を抱えてしまう。頭を抱えながら気づいた。
「そうすると、太上皇陛下のお后様ですか?」
アリアの問いかけに藍は目を丸くして、とたん笑い出した。
「まさか、違うわ」
藍はひとしきり笑ったあと、
「わたくしは、先々帝の隆綜嘉陛下の妾妃でした」
「先々帝の妾妃様?」
「そうよ。わたくしは先々帝の命令で、慶嘉様と褥を共にし、皇帝陛下を身籠りました。綜嘉陛下が崩御されたのちは、皇帝陛下の母としてこの後宮におります」
「………」
アリアは藍后の言っている意味がよく分からず、そんなアリアを見て藍后はくすくす笑い、
「慶嘉様があなたにご執心だと、皇帝陛下から伺いました。あと、皇帝陛下は、あの坊やにご執心のようね。親子そろって趣味が似ている事。おもしろいわ」
「慶嘉様は私を?」
「そうよ」
「皇帝陛下が………誰を?」
「あの坊やよ」
「アルスですか?」
「ええ。大層お気に召していると聞いているわ。忙しいのにわざわざ時間を作って街へお忍びで出ているのは、あの坊やに会う為ですって。やだぁ、わたくしに似ず一途だわ。父親に似たのね」
藍后が笑う度に、アリアは青ざめていく。そんなアリアに、ますます藍后は笑うのだった。