姉と弟と、息子と
【登場人物】
◆アルス
「昇魚屋」の息子。アリアの弟。14歳。
姉と同じ赤毛で茶色の目をしている。
店の裏口の戸を叩く音がした。番頭が眠い目をこすりながら戸を開けると、
「アルス坊ちゃま」
入ってきたのは赤い髪の少年だった。まだ十四歳と若いこの商家の息子は、家人が皆眠りにつくこの時間まで外にいたらしい。
「てっきりもう帰っていらっしゃっていたと思っていました」
「いや、一度帰って、また出てたんだ。父さんと姉さんは?」
「もうお休みになられています。当然でしょう?」
「よかった。怒られずにすむ」
「坊ちゃま!」
アルスは廊下を歩きながら頭の高い位置でまとめていた髪を下ろし、自分の部屋の扉を開けて、
「うわっ」
暗闇の中座っている人影に声を上げた。
「静かにして、アルス」
「姉さん?」
部屋に置いていた蝋燭に火をつけると、寝台の上に二歳年上の姉が座っていた。
「驚かさないでよ、びっくりした」
「話しがあって、待ってたの。ちょっと、ここへ来なさい」
自分が座る寝台の上を手で叩く姉の声は低く、機嫌が悪そうだ。
(これは久しぶりにお説教か)
アルスは諦めつつ、姉の命令に従って姉の横に腰を下ろした。姉は長い髪を下ろしてはいるが、夜着ではなくふだん着ている襦裙姿である。寝ないで自分に説教する為に待っていたのかと思うと、どれだけ叱られるのか想像して逃げ出したくなるが、仕方がない。それだけ怒られる理由には心当たりがありすぎる。ここは素直に事情を説明して謝った方がいい、そうアルスは判断した。
「あんた、最近出かけてばかりね」
「うん」
「どうして?」
「ちょっと、友達に会ってた」
「友達?」
「三年ぐらい前に知り合った年上のヤツだけど、仕事が忙しいみたいでたまにしか会えないんだ。で、ここ最近まとめて休みがとれたみたいで、ずっと会ってた。でもまた明日から忙しくて会えないって言うからさ、今日は今の今まで会ってた」
「どんな方なの?」
「腕っぷしが強くて頼りがいがあるけど、世間知らずで我儘。女好きで女くどいてばかりいる。でもイイヤツだよ。昔、街で絡まれているところを助けてもらってさ。それからの付き合い」
「家に連れてきた事はある?」
「ない。本当は連れてきたかったけど、都合があわなかった。次はいつ会えるか、いつもわからないし」
「そうだったの」
「家の仕事も手伝わず、ごめんなさい」
叱られる前に謝ったアルスに、姉は大きく息を吐き、
「わかっているなら、怒っても仕方がないわね」
(よしっ)
これでお説教が終わると喜んだアルスだったが、そのまま黙ってしまった姉に、
「………どうしたの、姉さん」
姉は俯き、肩を落としていた。様子がおかしい。
「何かあった?」
顔を覗きこむ。表情が暗い。今にも泣きだしそうだ。
「僕、そんなに心配かけた?」
赤子の頃から母親がいないアルスにとって、自分と同じ赤い髪と茶色の目をしたアリアは、姉であり母親だった。そして、二歳しか違わないのにしっかり者として店を切り盛りする姉を、アルスは尊敬し慕っている。その姉が泣きそうな顔をしている原因が自分だったらどうしようと、アルスは焦った。
「違うの。確かに心配はしていたけど、そうじゃないの」
姉が頭を振る。
(よかった)
でも、それなら他に原因があると言う事で、アルスは姉の手を握り、
「姉さん、何があったの?」
蝋燭の光を映す茶色の目が潤んでいる。姉は口を開き、ゆっくりと話し出した。
「あのね、実は………」
アリアが弟に全てを放し終えると、聞いた弟は目を大きくして、
「太上皇陛下がいるなんて、初めて聞いたよ」
「うん、実は私も」
言いあい見つめあい、同時に吹き出した。
「今の皇帝陛下のお名前だってうろ覚えなのに、そのお父さんなんて覚えてないよね」
「私も皇帝陛下のお名前を知っているぐらいだったわ」
「だってさ、僕ら庶民が皇帝陛下に関わる事なんてないもんね」
「そうなの。家は帝都でもそこそこな大店ではあるけれど、まさか皇族の方と取引があるなんて思ってもいなかったわ」
「僕も離宮へ行ってみたかったな」
「あんたがちゃんとお使いに行っていれば、こんな事にはならなかったわ」
アルスは笑うのを止め真面目な顔になり、
「ごめんなさい、姉さん」
「ううん。私が浅はかだったの」
「それで、どうするの?」
「どうするって?」
「その、慶嘉様は姉さんを側に置きたいってお考えなんでしょう?」
「………お父様が賛成されないわ」
「姉さんは行きたくないの?」
「………」
アリアは答えず、唇を噛んだ。
「姉さんは、慶嘉様の事を好きなんでしょう?」
「………うん」
「でも父さんは、姉さんが婿取りして店を継がせようとしているよね」
「え? そうなの?」
「うん。前に言われたよ。だから僕は好きな仕事をしていいって」
「私は聞いてないわ」
「番頭さんや、他の皆は知っているよ」
「知らなかったわ………」
「けっこう縁談が来てるけど、父さんがふるいにかけてるみたいだし」
「私は聞いてない!」
「まだ早いって思ってるんでしょ。でももしかしたら。これで話を早めるかもしれないね」
「そんなっ」
アリアは立ち上がり、部屋の中を歩き出した。
「落ち着いてよ、姉さん」
「落ち着けないわよ」
「今焦ってもしかたがないって」
「でも」
「何か方法を考えようよ」
「方法って?」
「もしくは誰かに相談するとか」
「だからあんだに相談してるでしょ」
「僕に相談しても、あまり参考にはならないよ」
「頼りがいのない弟ね!」
「そんな事、分かってるでしょ? あ、そうだ。頼りがいのある男に相談してみる?」
「そんな人いるの?」
「さっき話した、僕の友達。朝までは、街の宿屋にいるから、今から行ってみる?」
アリアは少し考え、弟の話に乗った。
夜中に家を出るなど、生まれて初めてだった。後ろめたさがありながらも、月の光の下歩く街はいつもと違う風景に見えて、アリアは興奮を押さえながら弟の後をついて行った。
「こっち、こっち」
弟は慣れた様子で裏通りに入ると、そこにあった家の扉を叩いた。
「なんだ、アルスか。さっき帰ったばかりでしょ?」
顔を出したのは、二十代中頃の女性だった。襦裙が着崩れ胸元が見えている。
「藍華はいる?」
「いるわよ」
「一人かな?」
「ええ」
女性が体をずらしアルスを招き入れる。そのアルスの後ろにいたアリアに気づき、
「あら? もしかしてお姉さん?」
「は、はい。あの、弟がお世話になっています」
どういう関係の女性かはわからないが、アルスと顔見知りのようだったので、アリアは礼儀正しく頭を下げる。
「そんな堅苦しい事は言わないで。アルスは家の弟たちと仲がいいの。あ、家は民宿。アルス、藍華は二階の一番奥よ」
「わかった。さ、姉さん」
「う、うん」
看板も出ていないような宿屋に堂々と入って行く弟は、何だか知らない男のようで、アリアは戸惑ってしまう。
弟の後ろから階段を上り、二階の一番奥の部屋まで来ると、
「藍華、僕、アルス」
アルスがそう言うと、扉が開いた。
「どうした、アルス?」
出てきたのは背の高い男だった。アルスは年上だと言っていたが、年の頃は十代後半か、二十代前半だろう。短く切りそろえた黒髪と、ややつり上がった黒瞳が印象的で、黒の衫と袴を着ているが、服の上からでもわかるほど鍛えた体をしている。肌が浅黒いのは、日に焼けているからのようだ。
「さっき帰ったばかりだろう? もう遅いからちゃんと帰れ」
「ちゃんと帰って、また来たのさ。藍華、紹介するよ。僕の姉さんのアリア」
男はアルスから視線をアリアに向けた。
「これは驚いた。よく似ているな。髪も目も、それに顔も。男女の違いはあるが姉弟とわかる」
男は一歩進み出ると、
「俺は藍華。アルスとは三年ばかりの付き合いだ。よろしく」
「初めまして、アリアと申します。弟がお世話になっております」
「狭いが椅子はある。どうぞ中へ」
部屋に入ると、確かにそこは狭かった。アリアは長椅子に弟と二人並んで座り、藍華は立っている。
「昇魚屋のお嬢様がこんな夜更けにどうされた?」
「あの、ちょっと悩み事がありまして………弟に相談しましたら、あなたに相談するといいと言われて来ました」
「俺に?」
「色恋沙汰は藍華に聞くのが一番いいだろう?」
「へぇ、色恋話か?」
アリアは恥ずかしさに弟の膝を叩いた。
「いたっ。何するんだよ」
「だって」
「それに、藍華は頼りがいある男だよ」
「頼りがいがあるかどうかは分からんが、アルスよりはいいだろうな」
「僕より七歳も上なんだから、当たり前だし」
(そうすると、この方は二十一か)
アリアより五歳年上の藍華は、年齢以上に大人びて見えた。どういう素姓かはわからないが、アルスが三年以上懇意にしていると言うのであれば、怪しげな人物ではないだろう。
アリアは意を決して、
「実は………」
と話し出した。しかし、慶嘉が太上皇である事は話せないので、
『地位の高い男性に好意を抱き、相手も自分を思っているようだが、父親が反対して、婿を取らされそうだ』
と、説明した。
「なるほど。だったらアルスが家を継げばいいじゃないか」
「父さんは姉さんに後を継がせるつもりで、僕は自由にさせてもらっているから、今さら無理だよ」
「そこは、姉さんの為にお前が努力してみろ」
「いくら努力しても、父さんの考えを変える事はできないさ」
「昇魚屋の瑜燈昇殿と言えば、帝都でも知らない者はいないやり手の貿易商人。特に西の国には独自の経路を持っている方だ。一筋縄ではいかないだろうな」
「そんな事、子供である僕らが分かっていないはずはないだろう?」
藍華は「うーん」と太い腕を組み、
「それなら、その相手の男性に婿になってもらえばいいだろう」
「ええっ」
アルスが声を上げる。
「そんなの無理だよ」
「地位が高いと言うが、相手はそこの家の後継ぎなのか?」
「いいえ、違います」
アリアが答えると、
「お前たちの家は、庶民とは言え大店だ。相手の家はそれほど地位が高いのか? 普通の貴族ぐらいなら、婿に入ってもおかしくないぞ」
「普通の貴族………ではないのです」
「普通の貴族ではない? 親が大臣とかか?」
「大臣でもないです」
「では………まさか皇族か?」
「………」
アリアは黙り込んだ。藍華はアルスを見る。アルスは無言で小さく頷いた。
「嘘だろ? 本当か?」
藍華はたぶん冗談で言ったのだろう。藍華の顔色が変わる。アリアは己の膝に視線を落とし、
「………はい」
「皇族か。それはちょっと問題だな」
藍華は寝台の上に座り、
「しかし、今の皇族で、アリアの相手になりそうな未婚の男子がいたかな? なにせ現在の皇族は女子ばかりだ」
「そう言えば、姉さん。あの方は未婚なの?」
「え?」
「だって、お子様がいるでしょう?」
アルスに言われて、初めてそこに気が付いた。
「そうね。でも、お后様がいるとは聞いていないわ。離宮にもいらっしゃる様子はなかったし………」
アリアの呟きに、藍華が眉を顰めた。
「離宮? 西の離宮の事か?」
「え、ええ」
隠し通せず頷くと、藍華は、
「相手は、隆慶嘉太上皇か」
「知っているの、藍華」
「まあな」
「そうなんだ。僕と姉さんは太上皇陛下がいる事を知らなかったんだ」
「もう少し情勢を勉強しろ、二人とも」
「そうね。知っていればよかったわ」
(離宮にあの方がいると知っていれば、行かなかっただろう。そしたら出会う事もなかったはず)
アリアは泣きそうだった。それに気づいたアルスが、
「姉さん」
優しく声をかけてくる。だが、藍華は顔をしかめながら、
「あの男は西の国かぶれで、西の国の本や絵ばかり見ていたが………そうだな、お前たちの髪の色はあの男の好みだろう。ったく、大人しく隠居生活をしていると思っていたが、息子よりも若い娘に手を出すとは………」
まるで、慶嘉の事をよく知っているかのような口ぶりだ。
「あの、藍華は、慶嘉様をご存じなの?」
アリアの問いかけに、藍華はふっと笑って、
「知っているさ、誰よりも」
藍華は寝台から下り扉を背に立つと、
「アルス、お前には言いたくなかったが、俺の本当の名前は隆綜藍と言う」
アリアとアルスは顔を見合わせた。どこかで聞いた名前だった。聞いた事があって当然だった。「その名前は………」
「皇帝陛下、ですか?」
弟と姉はそろって顔を強張らせた。
「そうだ。偉いぞ、二人とも。ちゃんと自国の皇帝の名前は知っていたか」
「………」
「………」
藍華、いや綜藍の笑顔が怖かった。弟と姉は無言で手を握り合う。
「太上皇は俺の父親だ。悲しい事だが。さて、父親の不手際は息子の俺が後始末せぬばならないだろう」
綜藍が背の扉を叩くと扉が開き、一階で会った女性が現れた。さっきとは違い笑顔が無く、今にも襲い掛かってきそうな雰囲気を感じる。
「円李、二人を連れて帰る。馬車を用意してくれ」
「かしこまりました」
無表情で命令を受託する円李に、アルスが怯える。それに気づいた綜藍が、
「円李は俺の配下だ。お前たちに危害を加える事はない、アルス」
「藍華、ずっと僕を騙してたのか?」
「騙してはいない。黙っていただけだ」
「そんなっ」
アリアは弟を抱きしめ、
「綜藍陛下、私たちはどこへ連れて行かれるのですか?」
「宮殿だ」
「宮殿? なぜ?」
「あの男からお前たちを守ってやろう」
「あの男って………慶嘉様の事ですか?」
「そうだ」
「私たちは慶嘉様に何もされていません」
「今のところは、だろう?」
「あの方が私たちに何をすると言うのですか?」
「さあな」
「陛下!」
そこへ円李が戻ってきた。
「馬車の用意が整いました」
「よし、さあ二人とも、大人しくついて来い」
有無を言わさない雰囲気に、アリアとアルスは抵抗できなかった。