表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍と魚と  作者: 佐々木野楓
龍と魚と
3/13

簪と名前と

【登場人物】

林来りんらい

西の離宮で、りゅう慶嘉けいか太上皇たいじょうこうに仕えている。25歳。


燈昇とうしょう

アリアとアルスの父。40歳。「昇魚屋」の店主。

一夜明けて、アリアは娘服である襦裙じゅくんを身に着け、髪をゆったりと結い上げると、翡翠の簪を挿した。化粧も薄く施し、口に紅をつける。

今日も西の離宮へ行く予定ではあったが、朝から父親が出かけ、アリアは店の開店を任されていた。弟は朝食も食べずにどこかへ行ってしまったらしい。

「ったく、あの子は本当に!」

ここ最近家でアルスに会えていなかった。なので、説教も出来ていない。

「今度しっかりお父様にお説教してもらわないと」

姿見の前で全身を確認し自室を出た。居間の前を通り店へ出ると、商品を並べながら奉公人たちへ指示をしている番頭がいた。

「お嬢様、おはようございます」

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

「今日もお迎えがいらっしゃるようですね」

「ええ。昼前にはいらっしゃると思うから、それまでは店にいます」

「店の仕事と用事ばかりで、お休みになられていないのではないですか?」

「そうね。でも大丈夫よ」

答えながら店の入り口の大きな木の扉を外そうとするアリアに、

「お嬢様、重いですよ。それはわたくしがいたします」

「大丈夫、大丈夫。いつもやってるじゃない」

「昨日から建て付けが悪くて、外しにくくなっているんです…あっ」

アリアが扉を外そうとしたとたん、番頭が声を上げた。大きな扉がアリアの方に向かって倒れてきたのだ。

「きゃあっ」

手で押さえようとしたが重さに負け体制を崩す。扉ごと倒れそうになった時、扉が止まった。外側から誰かが扉を掴んでくれていた。

「お嬢様、大丈夫ですか?」

走り寄ってきた番頭が扉を支え、

「ありがとうございます」

扉を止めてくれた人物へ礼を告げると、扉の向こうから、

「いえ、大丈夫ですか?」

声とともに顔を出したのは、

「林来様!」

アリアが声を上げると、いつもと同じ袍と袴を着た林来はアリアを見つめ、

「………アルス、殿?」

呼ばれ、アリアは己の姿を思い出し、

「あの、これは、その」

焦って言葉が出ないアリアに、番頭が間に入った。

「林来様、店先ではなんですので、どうぞ奥へ」

番頭に案内され家の居間に通された林来の前で、アリアは床に手と膝をつき、

「わたくしはこの昇魚しょうぎょ屋の店主、燈昇とうしょうの娘、アリアでございます。林来様、身を偽り、申し訳ございません」

「アリア殿、お立ち下さい。事情をお話いただけますか?」

「事情と申しますか………」

アリアは立ち上がり、しどろもどろに訳を話した。

「そうでしたか」

「事情と言えるほどの理由ではなく、わたくしの浅はかさが招いた事でございます。離宮へのお届け物を簡単な使いと思ってしまったせいで、林来様、いえ………りゅう慶嘉けいか太上皇陛下を謀ってしまいました」

もう一度床に膝をつこうとして、林来に止められた。

「確かに陛下に対し身を偽られたのは問題ですが、なってしまった事は仕方がありません。ただ」

林来はアリアを正面から見つめ、

「アリア殿はおいくつですか?」

「今年十六歳になります」

「縁談は決まっておいでですか?」

「いえ、そんな、まだそんな話はございません」

「そうですか。実は、わたくしが本日こんな早朝からこちらをお訪ねしたのは、お父君にお会いし、あなたの事でお話する為です、お父君はご在宅でいらっしゃいますか?」

「父は、近場ですが朝から出ておりまして………わたくしの話とは?」

そこへ番頭が茶を持って入ってきた。林来は話を止めて、茶を置いた番頭が部屋を出ていくのを待ち、

「陛下はいたくアルス殿、いえあなたをお気に召しておいでです。元々西の国に興味があり、赤毛の者に憧れがあったせいもあるのですが、実際に初めて出会った赤毛の方であるあなたの人となりが陛下のお心を動かされたようで、ぜひとも侍従として側に置かれたいと、珍しく我儘を仰られました。しかしアルス殿はこの店の後継ぎでいらっしゃるでしょうから無理だとお伝えしたところ、そこで、アルス殿には姉君がいた事を陛下が思い出してしまい、『姉君に来ていただく事はできないか?』と」

「わたくしが、陛下の元へ?」

「はい」

「それは、侍女としてでしょうか?」

「はっきりと陛下が仰ったわけではないですが、ただの侍女ではございません。ですので、あなたに縁談の話があるかお訊ねしました」

それが何を意味しているのか分からない子供ではない。アリアは胸元で手を組み、

「そんな………無理でございます」

「なぜですか」

「わたくしのような者が陛下の側になんて………それに私は陛下を謀ってしまいました」

「真実を知っても陛下はお怒りにはなりません。むしろ喜ばれるでしょう」

疑いの目を向けるアリアに林来は笑顔で、

「陛下はあなたのその本当の姿を知らないままあなたに惹かれました。あなたも陛下へ少なからず好意をお持ちではないですか?」

好意、と言われ、アリアは慶嘉を思う度に高鳴る胸の訳を知った。

(私は慶嘉様の事を好きなの?! でも)

「陛下とは出会ったばかりです。まだ二度しかお会いしていません」

「人が恋に落ちるには、時間も回数も関係ないと言います」

「恋っ」

赤くなった顔を手で押さえるアリアに、

「陛下と並んでお茶の用意をするあなたを見ましたが、とても楽しげでしたよ。陛下も。お手伝いしようと思いましたが、台所へ入るのを躊躇いました」

林来の言うように、慶嘉と二人で居た時間は楽しかった。

「どうでしょう、アリア殿。ご検討いただけませんか?」

「………」

答えられず俯いた。背後で扉が開く音がして振り返ると、

「お父様っ」

まだ帰ってくる時間ではない。父親の背後に番頭の姿があった。呼びに行ったのだろう。

「店主殿、留守をされている間にお邪魔してしまい、申し訳ございません」

「林来様、お久しぶりでございます」

燈昇は林来に礼儀を払いつつも、不機嫌な様子を隠そうとはせず、

「ご用件を伺いましょうか」

「ご息女に、西の離宮へお越しいただけないか、お願いしておりました」

林来の言い様と襦裙じゅくん姿のアリアに、全てが露見してしまっている事は明白だった。燈昇とうしょうは林来に正面から向き合い、

「娘は西の離宮へは行かせません」

「お父様!」

「黙っていなさい、アリア。林来様、娘が姿を偽った事はお詫び申し上げますが、娘を慶嘉様の元へ行かせるつもりはございません。お引き取りくださいませ」

「店主殿」

「お引き取りください、林来様」

頑なな燈昇とうしょうに、林来は頭を下げ、

「失礼いたしました」

林来が居間から出ていくと、燈昇とうしょうは長椅子に腰を下ろし、

「アリア、自分の部屋にいなさい」

「あの、お父様………」

「林来様が仰った事は忘れない」

「でも」

「アリア」

一代で財をなした父親に、アリアが反抗できるはずはなく、

「………はい」

と頷き居間を出た。しかし、そのまま自室へ戻らず店の方へ早足で向かい、店を出て箱型馬車へ乗り込もうとしていた林来に追いついた。

「林来様!」

アリアの呼び声に顔を向けた林来へ、

「慶嘉様に、わたくしがお詫びを申し上げていたとお伝えいただけますか?」

「それは、どの事に対してのお詫びですか?」

「陛下を騙してしまった事と、陛下のご希望に添えない事に対してです」

「あなたが陛下のお気持ちに答えられないのは、お父君の反対があるからですか?」

「はい」

「では、あなたご自身のお気持ちは?」

「………それは、言えません」

林来は小さく息を吐き、

「伝言は間違いなく陛下へお伝えいたします。朝から失礼いたしました」

優しい笑みを残して去っていく林来を見送り、アリアは痛む胸を押さえた。




林来が西の離宮へ戻ると、離宮のあるじが朱色の扉の前で待っていた。

「お帰り、林来」

期待の目をして子供の様に落ち着きない慶嘉に、いつもの林来であれば呆れた態度を示すが、この時の林来は主人に同情の目を向け、

「陛下、お話があります」

居間の長椅子に、訝しげな顔をする慶嘉を座らせ、林来はアルスとして離宮へ来ていたのが姉のアリアであって事と、その理由、そして慶嘉の望みはアリアの父親の反対で拒否された事を報告した。

「アルスが、男子ではなく、女子だったのか?!」

慶嘉は驚き、そして林来の予想通り喜んだ。しかし、

「店主殿が反対されたのか………」

と、肩を落として落ち込んだので、

「アリア殿は陛下へお詫び申し上げていたと伝えてほしい、と仰いましたが、陛下の事をお嫌ではない様子でしたよ」

「本当か?」

慶嘉は顔を上げて、

「わたくしの目から見て、アリア殿は陛下に好意を抱いているように思えました」

「まことか!?」

「陛下もアリア殿をお好きでしょう?」

林来の直線的な言い様に、慶嘉は、

「いや、その、しかしわたしはアルスを、いや、アリアを男子だと思っていたので………」

「それでも惹かれていた、でしょう? だからこそ、姉君をお呼びしたいと我儘を仰ったのではないですか? そのアルス殿が姉君自身だったのですから、よかったではないですか」

「だが、店主殿が反対されているとなると、話はうまく進まないだろう」

「反対される理由を、陛下はお分かりでしょう」

慶嘉は長椅子から立ち上がり、

「わたしが太上皇だからだろう」

「………」

「わたしは生きたまま皇帝位を降りた人間だ。わたしの意思とは関係なく、わたしを使おうとする者は多い。わたしには子供が一人いる。現皇帝の綜藍そうらん陛下だ。しかしもし新たに子供をせば、その子は皇位継承権を得る事となる。そうなっては困る者もいるし、よからぬ事を考える者も出てくる」

「それが分かっていながら、アリア殿を望まれますか」

慶嘉は笑って、

「ああ」

「では何かいい方法はないか考えましょう」

「いいのか? 林来は反対しないのか?」

「反対するはずがないでしょう? わたくしは陛下の臣下です」

それに、と林来は続け、

「陛下の我儘を聞く事が出来て、わたくしは嬉しく思っております。あなたはもう少し色々望まれてもいい方ですよ」

「林来」

「皇帝の子として生まれながら皇帝になる事を求めず、中継ぎ皇帝として担がれれば文句も言わず役目を全うし、退位したのちは皇帝陛下の足かせにならぬよう隠居生活を送る陛下に仕え、もう何年になりますかね。………わたくしは、あるじであるあなたの幸せを願っているのです」

見返りを求めず仕えてくれている臣下に、

「林来、わたしもお前の幸せを願っているよ」

「分かっております。ですから、どうか、今回の件はけして諦めないでくださいませ」

林来の望みに、慶嘉は力強く頷き、

「ああ。約束しよう」

と言うと、林来はその慶嘉の顔を指差し、

「その顔!」

「え?」

「その顔ですよ、ふだんからそのような顔をしてください」

「どんな顔だ?」

「目に力が入り、凛々しく見えます」

「では、ふだんはどんな顔だ」

「弱そうで腑抜けに見えます。頼りがいがあるように思えないお顔です。しかし、元は悪くないのですから、表情次第で印象が変わります。今の様にきりりとしたお顔されていれば、格好いいです」

「そんなに違うのか?」

「以前も同じ事を申し上げた事があるかと思います。まったく違います。ふだんからそのお顔であれば、もう少し女性に好かれたかもしれませんよ」

「だがアリアは、ふだんのわたしに好意を持ってくれたのだろう?」

目が垂れ下がる慶嘉に、林来はため息を吐き、

「今からそのように惚気られては、この先どうなるのでしょうね」

「もっと惚気られるよう、がんばるとするよ」

長椅子に腰を下ろし、ちょうど足元に寄ってきた子猫を抱き上げた。

「お前の名前はもうちょっと待っていてくれ。アリアと相談して決めたいのだ」

子猫を愛しそうに膝の上に乗せる慶嘉に、林来はもうひとつ伝えるべき事を話し出した。

「お伝えすると、わたくしだけが見てずるいと陛下は気分を害されるかもしれませんが、後々ばれて怒られてはたまりませんので、申し上げておきます」

「どうした?」

「本日のアリア殿は、新緑色の襦裙じゅくん姿で、髪は女型に結い上げ翡翠の簪を挿し、薄化粧をして唇には紅をつけておいででした」

林来は主人の反応を待った。慶嘉は子猫に向けていた笑顔を崩さず、子猫をそっと膝の上から下ろすとやにわに立ち上がり、何も言わないまま居間を出て行ってしまった。

「陛下!」

早足の慶嘉を慌てて追いかけ、朱色の扉の内側で捕まえた。慶嘉の腕を掴み、

「どこへ行かれるおつもりですか!?」

「魚屋へ行く」

「いけません。離宮を勝手に出てはなりません」

慶嘉は振り向き、

「ずるいぞ! 林来だけアリアのそんな姿を見て!」

「だからと言って、離宮を出てはなりません!」

「我儘を言っていいと、林来が言っただろう!」

「そう言う我儘はだめです。いけません」

「だったら、わたしはどうしたらいいのか?」

「今は我慢をしてください」

「………わかった」

不承不承とわかる態度で、居間に戻りながら慶嘉は、

「林来、アリアの髪に翡翠の簪はさぞ似合っていただろう?」

「そうですね。よくお似合いでした」

「林来は、アリアの名前を呼んだのか?」

「はい。アリア殿とお呼びしました」

「そうか」

切なげな表情を浮かべ慶嘉は、

「わたしはアリアの簪を挿した姿を見た事もなければ、彼女をアリアと呼んだ事もない」

「陛下………」

「林来がうらやましい」

林来は主人に向けて頭を垂れ、

「陛下、できるだけ早くいい手立てを考えます。わたくしを信じてください」

「わかっている。ありがとう、林来」

慶嘉は居間から自分たちを追ってきた子猫を抱き上げ、胸に抱いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ