立場と嘘と
【登場人物】
◆アリア
龍華帝国の帝都にある『昇魚屋』の娘。
西の国出身の母を持ち、黒髪・黒瞳の帝国内において、珍しい『赤毛・茶色の目』をしている。16歳。家族は父と弟。
◆隆慶嘉太上皇
現皇帝の父であり、存命のまま退位した先帝。36歳。
行きと同じように乗合馬車を使って帰宅すると、店仕舞い中の番頭が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま。お父様とアルスは戻ってる?」
「お父様はお帰りです。アルス坊ちゃまはまだお帰りになっていません」
「あいつ…………帰ったらお説教ね」
頭に巻いていた布を取って、結い上げていた髪を下ろした。そのまま自宅の居間に行くと、今の長椅子でくつろいでいる父親がいた。
「お父様、お帰りなさい」
「アリア、その恰好はどうした?」
弟の男服を着ている愛娘の姿に、昇魚屋の店主である瑜燈昇は顔をしかめた。燈昇は、母親によく似た娘を溺愛している。年頃になってきた看板娘に頻繁に来るようになった縁談話を片っ端から断っているぐらいだった。いずれは、そこそこの家の男子を婿にもらい、この娘に店を継いでもらう気ではあるが、まだ当分先の未来だと思っている。
その娘が男の恰好をして帰宅してきたのだ。何があったのかと顔をしかめるのも当然である。
「聞いてない? 西の離宮へお届け物をしてきたの。アルスが店の仕事さぼってどこかへ行ってしまったから、私が代わりに、アルスのフリをして」
「ああ………そういう事か」
父親は西の離宮への届け物を知っているのだろう。納得した様子だ。アリアは父親の横に座り、
「初めて離宮の中へ入ったけれど、綺麗だったわ。円卓もすばらしい螺鈿細工で。うちの店の扱っている物より上等だった」
「林来様にお会いしたのか?」
「林来様? いいえ、私がお会いしたのは、慶嘉様と仰る、お父様と同じ歳ぐらいの方だったわ」
そう言ったとたん、父親が立ち上がった。
「慶嘉様にお会いしたのか?」
「ええ。どうしたの、お父様」
「アリアは、あの方の事をご存じか?」
「いいえ。そもそも西の離宮にどなたが住んでいらっしゃるのか、聞かないまま行ってしまったの」
「粗相はしなかったか?」
「………ええ」
「なぜ、目を合わさない」
自分から目をそらす娘に、燈昇は焦った。
「粗相は、していないわ。無礼な真似もしていない。ただ」
「ただ?」
「ちょっと、色々、あったかな」
「まさか、娘である事がばれるような事をしたのか?」
父親が何を想像したのか、いい年頃のアリアは分かり、慌てて、
「お父様、違う、違うわよ。あのね」
子猫を助けた話をすると、父親は大きく息を吐きながら腰を下ろし、
「アリア、あの方の名前は、隆慶嘉様と仰る」
「隆? それは、皇帝陛下のお名前だわ」
「そうだ。隆慶嘉様は、先々帝の弟君であり、現皇帝の御父君であり、先帝あり、現太上皇陛下であらされる」
アリアは驚きに何か言おうとして言葉にならず、口をぱくぱくと動かして、父親の顔を見つめた。
「陛下は元々『中継ぎ皇帝』でいらしたので、権力争いとは縁遠い方ではあるが、子猫とは………」
アリアは唾をのみ込み、深呼吸をして、父親に向き直った。
「あの、お父様、中継ぎ皇帝って、どう言う意味?」
「先々帝の隆綜嘉陛下には男子のお子が生まれなかった。その為、皇太子の地位に就いたのは慶嘉様の嫡子である現皇帝、隆綜藍陛下だったが、先々帝が不慮の事故で崩御されたさい皇太子はまだ幼く、皇太子が成人されるまで、先々帝の実弟であり皇太子の実父である慶嘉様が『中継ぎ皇帝』になられたのだ。一昨年、綜藍陛下が十九歳の成人となられたさい、慶嘉様は存命のまま退位し、太上皇となられ、今現在は西の離宮で隠居生活をされている」
父親の説明に、
(そう言えば、一昨年皇帝陛下が即位された時、皆がそんな事を言っていたような気がする)
しかし、一昨年自分はまだ十四歳だった。大人たちの会話を聞いてはいたが、はっきり理解していなかった。そして、西の離宮に太上皇が住んでいる事は初耳だった。
「お使いに出る前に教えてよ………」
恨めしく見る娘に、父親は、
「いつもは西の離宮を管理されている林来様が対応されており、慶嘉様が表に出てくる事はない。あの離宮に慶嘉様がお住まいなのを知っているのは限られた者だけだ。我が家では、わたしと番頭だけが知っている。まさか扉の表に陛下が出てこられるとは思っていなかった」
「気さくなで優しい方だったわ。子猫を膝に抱いて、嬉しそうだった。それに、私の赤毛を褒めてくださったの。絵より美しいと仰って」
「そうか。確かにお前の赤毛は母さんに似て美しいが」
「また本を届けてほしいと仰っていたけれど………アルスのフリをしてお会いするのは失礼よね」
「そうだな。陛下を謀ってはいけない。知らずにそうなってしまった事は仕方がないが、これ以上は駄目だ」
アリアは頷き、着替える為に居間を出た。自分の部屋に入るなり寝台の上に倒れ込んだ。馬車で遠出をして疲れていた。それに、
「もう行けないのか………」
西の離宮は綺麗で楽しかった。建物は美しく子猫は可愛いし、そして情けなく見えた住人は、商家の子供相手に偉ぶる事もなく優しかった。もうあの場所へ行けないと思うと、少しばかり悲しかった。
「隆慶嘉太上皇陛下」
口に出してみる。一生会う事もないような高位の方だ。もう二度とこんな事はないだろう。
起き上がってほどいていた髪に触れる。背中の中ほどまである赤毛は自分でも自慢の髪だ。色もそうだが、少し癖があって曲線を描き、柔らかく触り心地がいい。寝台横の机に置いてあった櫛を手に取り、髪を梳いていく。
美しいと言われ、嬉しかった。言われ慣れてはいるが、慶嘉に言われた時本当に嬉しかった。彼の素姓を知る前だったのに、他の誰よりも、特別な言葉に聞こえた。
「どうしてかしら?」
理由は分からないが、胸がどきどきする。と、その時、
「アリアお嬢様」
扉の向こうから呼びかけられた。何故か戸惑い、櫛を落としてしまった。
「な、何?」
声は番頭だった。
「お父様がお呼びです」
「お父様が?」
着替えもせずアリアが再び居間へ入ると、父親は難しい顔をしていた。
「どうしたの、お父様」
「今しがた、西の離宮から使いの方が来た」
「え?」
西の離宮、と言う言葉にまた胸がどきどきした。
「今日のお礼をしたいので、また本や絵を届けてほしいとご希望だ」
「それは、もしかして」
「そう、アルスであるお前に来るよう、ご指示だ」
「でも、お父様、私はっ」
「今さらお前がアリアだとは言えない。アルスを行かせる事もできまい。これは困った」
「どうしよう、お父様」
「陛下が、お前が娘だと気づいたご様子はないか?」
「それはないと思うわ。だって私、木の枝を持って、こらぁって叫びながらカラスを追い払ったし」
「それは、ちょっと………」
娘のお転婆ぶりに頭を抱えつつ、燈昇はアリアの肩に手を置き、
「仕方がない。しばらくアルスのフリを続けよう。明日にでもまた西の離宮へ行きなさい」
「わかったわ、お父様」
「けして女だと知られてはいけないぞ」
「はい」
言い聞かせて娘を部屋に戻らせると、燈昇は椅子に座り頭を抱えた。アリアは単純に陛下を騙している事を気づかれてはいけないと思っているが、問題はそれだけではない。
退位した元皇帝の住まいに『女』が出入りしていると周囲に気づかれてはいけないのだ。
西の離宮には女はいない。出入りをしているのは全て男で、管理を任されている慶嘉付きの侍従・林来と、数人の使用人のみである。
それは、慶嘉に子供を作らせてはいけないからだ。
いくら覇権に興味がない慶嘉とはいえ、利用しようとする輩はいる。アリアの存在が表ざたになれば、アリアに危険が及ぶかもしれない。
「それだけは避けなければ」
燈昇は拳に握り、呟いた。
昨日は乗合馬車だったが、今日は迎えの箱型馬車が来ていた。華美ではなく馬も一頭立てだったので目立ちはしなかったが、
「これではどちらがお客なのかわからないわね」
弟の服を身につけ、髪を結い上げたアリアが手に抱えている荷物は、昨日港に到着したばかりの、西の国の本と絵、それに西の国産の干しナツメヤシである。ちなみに今日は髪を布で隠してはいない。
「慶嘉様はナツメヤシはお好きかしら?」
元皇帝であれば、珍しいナツメヤシを食べた事もあるだろう。喜んでもらえたら、
「嬉しいな」
そうこうしているうちに、馬車は西の離宮へ到着し、馬車に乗ったまま門の中へ通された。朱色の二枚扉の前で袍と袴を着た青年が立っていた。年の頃は二十代中頃だ。
「魚屋のアルス殿ですね。わたくしは林来と申します。こちらの離宮の管理をしております」
「魚屋のアルスでございます。本日は馬車を用意していただき、ありがとうございます」
「いえ、我が主人がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ございませんでした。その上、早々にまたお呼びしてしまいました」
林来は歳若いアリアに対しても丁寧な応対だった。
「当店をご贔屓いただき、ありがたい事です」
「我が主人は西の国に大層惹かれておりまして………本や絵もそうですが、アルス殿にもご興味があるようです」
「わたくしですか?」
「その赤毛、本当に見事ですね。我が主人が美しい美しいと何度も。いやしかし、こうして拝見すると、我が主人の気持ちも分かります」
「ありがとうございます」
「姉君の同じように赤毛でいらっしゃるのですか?」
「は、はい。さようです」
「姉君にもお会いしたいものです」
「…………」
アリアは愛想笑いでごまかし、林来の後について、昨日と同じ部屋に通された。
「主人はすぐ参ります。ところで、アルス殿」
「はい?」
「アルス殿は、我が主人の素姓をご存じですか?」
アリアは視線を床に落とし、
「昨夜、父から聞きました」
素直に答えると、林来は笑って、
「そうですか。しかしアルス殿、我が主人の立場は気にされませんよう、お願いします。我が主人は太上皇陛下でいらっしゃいますが、そういう扱いをされるのを嫌がられます」
「ですが」
「気楽に、お過ごしください」
林来は一礼して居間を出て行った。
一人残されたアリアは、荷物を抱えたまま椅子に座り、
(緊張する)
林来はああ言ったが、何も知らなかった昨日とは違う。どうしたらいいのか、ここにきて悩み始めてしまった。
「どうしよう」
落ち着かず、立ち上がってしまう。そこへ、
「待たせてすまない、アルス」
慶嘉は昨日と同じように優しい笑顔で入ってきた。
「いえ、慶嘉様。本日はありがとうございます」
深々と頭を下げると、
「そんなかしこまらないでほしい。ほら、頭を上げてくれ」
「はい」
頭を上げると、すぐ近くに立つ慶嘉と目があった。
「荷物が重そうだな。受け取ろう」
「は、はい。あの、申し訳ございません。本と絵と、あと干しナツメヤシを入れて来たので重くなってしまいました」
「ナツメヤシ! わたしの好物だ」
慶嘉は嬉々として荷物をほどくと、中からナツメヤシの入った袋を取り出し、
「久しぶりに食べる。そうだ、お茶を用意しよう」
部屋から出て行こうとする慶嘉に、
「わたくしが用意して参ります」
「いや、大丈夫だ。アルスはそこで座っていてくれ」
「そんな、駄目です。わたくしがいたします」
「今日のアルスはわたしの客人だ。客人に茶の用意をさせられない」
「いいえ、いいえ、わたくしは魚屋です。客人ではありません」
言って見上げると、慶嘉の顔が悲しそうだった。
「あの、慶嘉様」
「アルス、わたしの事を聞いたのか?」
「………はい」
アリアが答えると、慶嘉はその手でアリアの頭に触れ、
「今のわたしには、太上皇という立場はあるが力はない。この離宮で隠居生活をしているただの人だ。昨日のわたしを覚えているか? 鳥に怯え、小さい子猫を抱く事もできない弱い男だ。それでも、この離宮で自分の事は出来るだけ自分でしている」
確かに昨日、子猫の為に水桶と手巾を用意したのは慶嘉だった。普通、太上皇ともあろう者が、そんな事をするはずがない。
「アルスとは昨日出会ったばかりだし、歳の差もあるが、今日は客人、いや、友人として迎えたいと思っていた。どうか茶を用意する事を許してくれないか?」
慶嘉にそこまで言われては、アリアが拒否できるはずはなかった。だが、妥協案として、
「では、一緒にいたしましょう」
と提案すると、それを慶嘉は喜んだ。
二人でそろって台所でお湯を沸かし、お茶の用意をしていると、足元に白い生き物が寄ってきた。子猫だった。
「だいぶ元気になりましたね」
「ああ。昨夜は林来が作った寝床でずっと寝ていたが、今日は離宮中をうろついている」
「名前は付けたんですか?」
「まだだ。そうだ。アルスが考えてくれ」
「それでは一緒に考えましょう」
お茶を入れ、ナツメヤシを食べながら子猫の名前を出しあった。決まらないまま気づけば夕刻になっていた。
「そろそろ戻らないと」
「もうこんなに時間が経ったのか。アルス、また来てくれるか」
「はい」
「子猫の名前も決まっていないし、ナツメヤシもまだ残っている。それに、今日持ってきてくれた本と絵も見ていないし………その、明日また来てくれないか」
答えに一瞬悩んだが、
「………はい」
頷くと、慶嘉は笑って、
「また迎えへ向かわせよう」
「いえ、それは結構でございます。乗合馬車がありますから」
「駄目だ。それでは時間がかかってしまう」
「ですが」
「少しでも早くアルスに会いたいのだ」
見つめられ、アリアは頷く事しかできなかった。
帰宅途中の馬車の中で、アリアは髪を解いた。肩から力が抜ける。
(慶嘉、様)
変わった人だ。元皇帝で現皇帝の実父でありながら、まるで子供の様にまっすぐに気持ちをぶつけてくる。
(お父様と歳が変わらないと思うけれど、どうしてあんなに素直な方なのだろう)
慶嘉自身の気質なのか、それとも皇族とはああ言うものなのか、どちらだろうかと思う。
最初は弱々しく見え、情けなさそうな雰囲気を苦手と思ったが、それは彼の優しさと柔和さである事に、昨日今日で気づいた。気づくとそれは何とも好ましい、彼の人柄の良さだった。
(話をしていても楽しいし、退屈にもならない。時間が経つのが早い)
明日また来るように言われた。嬉しかった。アルスのフルをするのは疲れるが、慶嘉といるとその疲れを忘れてしまう。
(慶嘉様)
心の中で、名前を呼んでみる。胸がどきどきするのはどうしてなのだろう。
馬車の御者が西の離宮へ戻ってきた。西の離宮の現主である慶嘉に、客人を無事送り届けてきた事を報告したが、御者の何気ない一言で慶嘉が不機嫌になってしまい、御者は狼狽え、林来の元へ駈け込んできた。
「慶嘉様に、何を申し上げたんですか?」
「それは………」
御者の話を聞き、林来は主の部屋を訪れた。主は窓辺の長椅子に腰かけ、膝に子猫を抱いているが、視線は窓の外を無表情に見つめていた。
「慶嘉様、どうされましたか?」
「………林来」
慶嘉は子猫を撫でながら、
「今日、アルスの髪に触れてみた」
「はい?」
「まるで炎のように赤いのに、触れれば柔らかかった」
「はぁ」
「しかし、わたしは、アルスが髪を結った姿しか知らない」
「さようで」
「なのに」
「はい?」
「御者が言うには、アルスは帰りの馬車の中で髪を解き、その背に髪を下ろしたまま帰ったそうだ」
「………」
「わたしはそんな姿を見ていないぞ!」
「………」
林来は御者が慶嘉に『結っている時より、赤みが強く見えた』と話をしたと聞いて来たが、その結果、慶嘉が御者を妬んでしまったとは想像していなかった。
「………」
呆れて何も言わない林来に、
「ずるい。ずるいぞ。そんな事になるなら、わたしがアルスを送っていけばよかった!」
「それは御者の仕事であり、陛下の仕事ではございません」
「林来!」
「睨まないでください。隆慶嘉太上皇陛下」
「いちいち仰々しく呼ぶな」
「お呼びしないと、ご自身のお立場を忘れておしまいになるでしょう」
「忘れたりはしない」
「でしたら、たかが商家の子息せいで、ご自身に仕える者への対応をお間違いにならないようお願いいたします」
慶嘉は林来を強く睨みつけ、しかしすぐ視線を外すと、
「すまない」
「それは御者へ直接仰ってください。数少ない、あなた様の臣下です」
「わかっている。ありがとう、林来」
林来は一礼して部屋から出て行った。
子猫を膝に抱いたまま、慶嘉は肩を落とした。