第205話「再興-3」
「……」
私はインダークの樹へと慎重にゆっくりと近づく。
何が有っても即応できるように全身に……いや、私自身と周囲の地面の両方に緊張感を漲らせる。
それこそロシーマスを相手にした時よりも。
「此処が境界ね」
そうしてインダークの樹まであと数歩、全力で飛び込めば、一歩でハルバードを当てられる位置にまで来たところで、私は皮膚と周囲の地面に何かが触れ、チリチリと焼けるような感覚を覚えると、その場で立ち止まる。
「……」
ここから先はインダークの樹が自分の物にしている領域。
そして、今私が居るのが、インダークの樹がギリギリで不快だと思わない距離。
皮膚がチリチリと焼けるような感覚も、他の植物とは比較にならない程濃い魔力をインダークの樹が持っているが故に感じている物なのだろう。
「さて、おおよそ十年ぶりと言ったところだけど……まずは貴方に感謝を。貴方のおかげで、私たちは余計な諍いを起こすことなく、マダレム・エーネミに手を付ける事が出来たわ」
私はまるでヒトに話しかけるように、インダークの樹へと語りかける。
何も知らないヒトが傍からこの状況を見れば、樹に対してヒトのように語りかけ、ヒトを相手にするかのように対応するなど、私の気が狂ったと思うかもしれない。
が、現実としてインダークの樹は意思のようなものを見せているし、インダークの樹のおかげでマダレム・エーネミが滅びてからずっと野盗の類を含め、ヒトがこの地に住みつく事は無かったのだから。
だから周りにどう思われようとも、私は素直にインダークの樹に対して感謝を示す。
この樹の働きに私たちが助けられたのは事実なのだから。
「その上で貴方に言わせてもらうわ。私……いえ、ヒトはこの地に住みたいと思っている」
僅か……ほんの僅かだが、皮膚が焼けるような感覚が強まり、刺すような感覚を伴い始める。
どうやらヒトが自分の周囲に踏み込む事に不快感と不安感を示しているらしい。
まあ当然の反応ではあるだろう。
「そうね。当然の反応よね。貴方はそこから離れる事は出来ないし、そもそも貴方は私が生まれるずっと前からこの地で生き続けているのだから。後から入ってきた私たちの事を何様のつもりだと思うのは当然よね」
インダークの樹が何時から自我を持っていたのかは分からない。
魔力を操れるのはここ最近に入ってからの筈だが、自我の有無に魔力の多寡は関係ないだろう。
だから、もしかしたらインダークの樹はかつてのマダレム・エーネミが腐っていくのをずっと見続けていたのかもしれない。
そして、その中でインダークの樹は何度もヒトの手によって切られかねないような状況に陥っていたのかもしれない。
なのでヒトに対して良くない感情を抱いているのは仕方がない。
「だから一つ提案させてもらうわ。貴方の周囲半径15m……だいたいこのハルバード八本ちょっとと言ったところかしら。その地点に柵を立てて境界とし、それより内側を貴方の領域として認めます」
インダークの樹に変化は見られない。
なお、mと言うのは、この間の度量衡の統一で定めた新たな長さの単位である。
「貴方の領域にはヒトが入らないようにする。そして万が一柵を越えてヒトが立ち入った時には……そのヒトをどうしても構わないわ。それこそ何かしらの方法で殺傷して、貴方の栄養源にしても良い」
微かだが刺すような感覚が薄れ始める。
どうやら、納得してくれたらしい。
「ありがとう。受け入れてくれて。じゃあ……」
そうして私がインダークの樹から離れ、まずは簡易の柵として地面を操って境界を明確にしようかと思った時だった。
私の左腕にインダークの樹の魔力がまとわりついてくるような感覚が生じる。
「……。お互いに嘘を吐いていないと証明するために契約を交わすべき。と言ったところかしらね」
左腕にまとわりつくインダークの樹の魔力からは、良く砥がれたナイフのような気配がしていた。
そして気配の方向性から、インダークの樹が私に何を求めているのかを理解する。
「いいでしょう。死なない程度にならあげるわ。代わりに適当な長さの枝か幹でも寄越しなさい。それぐらいでないと釣り合わないわ」
私は再びインダークの樹に向き合うと、左腕をインダークの樹に向けてまっすぐに伸ばしつつ、樹の幹を睨み付け、何時でも魔法を発動できるように身体と精神の状態を整える。
「ゴクッ……」
空気が張り詰め、遠くの方からはリベリオが唾を飲む音が聞こえてくる。
そして少し時間が経った頃。
「っつ!?」
私の左腕の表皮が何本もの刃で切り裂かれ、血が噴き出し、滴り、周囲の乾いた地面へと吸い込まれていく。
その直後、痛みを堪える私の血まみれの左手の中に納まるように長さ1m程の枝が飛び込んでくる。
黒い樹皮に厚い葉、淡い青色の花……それは間違いなくインダークの樹の枝だった。
「契約……成立ね……じゃあ、早速作業を始めさせてもらうわ」
私の左腕からインダークの樹の魔力が去って行くのを確認すると、私は不安げな顔を浮かべているリベリオの元へと、血を流しつつ戻る。
そして、左腕に治癒の魔法をかけると共に、契約通りの範囲が収まるように周囲の地面を円状に盛り上げ、誰の目にも分かり易い目印にした。
これで後はきちんとした柵を盛り上げた土の上に立てておけば、踏み込むのは一部の愚か者だけになるだろう。
「ふぅ。これでインダークの樹については心配しなくてもよくなるわ……」
私は思わずそう独り言を呟きつつ、夏の青い空を見上げるのだった。
08/29誤字訂正