第142話「シェーナの書-1」
「おおよそ一年ぶりか」
東の方で水の妖魔が暴れていたという噂が聞こえてきた年の冬。
小生はマダレム・イーゲン近くの森の中に建てた小さな木造の家の前にやって来ていた。
「さて……」
雪が降りそうな雲行きの中、小生は家の扉を開けて中に入る。
この家の中には殆ど家具が存在しない。
眠るためのベッドに、本を書くための机と椅子、それに有った方が何かと便利だと言う事で付けさせられた石の竈ぐらいである。
そしてそれらの家具だが、小生がこの家を訪れるのは一年ぶりなのだが、埃の類はなく、獣や野盗に荒された様子も無い。
どうやら掃除と手入れはしっかりしているらしい。
「アイツはまだ来て……」
そうして一先ずは椅子に座って落ち着こうとした時だった。
「あ、師匠。今お付きですか」
「居たのか。馬鹿弟子」
背後から声を掛けられ、小生はそちらを向く。
「居ましたとも。そろそろ来られる頃かと思っていましたしね」
そこに居たのは金色の髪に緑色の瞳を持つ一人の少女。
その名をシューラと言い、あのテトラスタの娘である。
「とりあえず中に入りましょうか」
「そうだな」
小生とシューラは二人揃って家の中に入ると、小生は椅子に腰かけ、シューラは竈に薪木を積み上げた後、何も持たない手から小さな火を出して竈に火を入れる。
「ほう、随分と上手くなったな」
「これだけをずっと練習してきましたから」
「茸の妖魔に襲われた時もか」
「師匠の御仲間が解決してくださった時もです」
シューラの手の中に魔石は無い。
それどころか、身体の何処にも魔石を身に付けてはいない。
つまりシューラは今、魔石なしに魔法を使ってみせたのだ。
だが小生がその事に驚く事はない。
そう言う事が出来るようにシューラを鍛えたのは小生自身だからだ。
「気づいていたのか」
「気付きますよ。でもトォウコさんのおかげで、助かりました。今度会った時は、イーゲンの人々は礼を言っていたと伝えておいてください」
「検討はしておこう」
また、シューラは小生が蛞蝓の妖魔である事も知っているし、自身の父親が言葉を授かった四人の御使いとやらの正体が小生たち妖魔で有ることも知っている。
尤も、マダレム・イーゲンやその周囲の都市に教えが広がる早さを考えると、シューラはその事実を未だに誰にも告げていないようだし、態度を見る限りではこれからも告げるつもりはないようだが。
「さて、部屋の中もだいぶ暖まった事だし、まずは知識の復習から始めようか」
「はい」
さて、当たり前のように会話をしている上に、シューラは小生の事を師匠と、小生はシューラの事を弟子と呼ぶような関係ではあるが、シューラはヒトであり、小生は蛞蝓の妖魔であるため、本来ならば今この場で殺し合いを始めるべき間柄ではある。
「まず魔法を扱うために欠かせない物は?」
「全ての存在がその内に秘めている力……魔力です」
「その通りだ。では、何故普通の動物は全く魔法を使えず、ヒトは魔石を使わなければならない?」
「魔法を発動させるためには、魔力を現象に変換する想像力が必要になるからです。普通の動物にはそこまでの想像力はありません。そして、ヒトが妖魔と違って魔石を使わなければならないのは、想像力は十分にあっても、魔力の量が足りないからです」
そんな二人が何故一緒に居るのか。
正直に言わせて貰えば、当人である小生にもよく分からない。
なにせもう二年も前の事になるが、シューラを追いかけて来ていた男たちを、腹を空かせた小生が酸性化と乾燥の魔法で仕留めて食べたところ、何故かシューラはその場から逃げ出さず、それどころか魔法を教えて欲しいと頼みこんできたのだ。
で、小生も何故かシューラの事は食べたいと思えず、それどころか気まぐれを起こしてシューラに魔法に関する事を教えるようになってしまったのである。
うん、改めて思い返してみても、当時の小生の思考には妙なものを感じずにはいられない。
「その通りだ。では少ない魔力で魔法を発動するためにはどうすればいい?」
「魔石を使って魔力の量を増幅する。周囲の存在が保有する魔力を利用する。引き起こす現象を小規模にすることによって消費する魔力を抑える。想像力と知識を鍛え上げ、より効率のいい方法でその現象を発生させる道筋を考える」
「その通りだ。では、最後の方法、効率のいい方法とはどのようなものだ?火を起こす場合で答えろ」
「予め可燃物を用意しておく、火を起こす場所の温度を上げておくと言ったところですよね」
「正解だ。どうやらきちんと覚えていたらしいな」
「覚えていますって、でないと私みたいな普通のヒトは魔法を使えません」
尤も、この家に留まるのが冬の三ヶ月の間だけとは言え、今ではこの奇妙な関係も悪くないと思い始めている所ではあるのだが。
まったく、小生もソフィアに毒されたのかもしれないな。
「それもそうか」
「そうですよ」
小生とシューラはお互いに相手の顔を見つめながら、軽く笑いあう。
「では今日から三か月間。またみっちりと教え込んでやるか」
「お願いしますね。師匠」
さて、これからの三か月間、小生にとっても実りある三か月間になると良いが。
シェルナーシュ編です