第135話「蛇の弐-2」
「川の様子がおかしい?」
「ああそうだ」
さらに数日後。
マダレム・シキョーレを去ろうとしていた私の耳に、宿の主人から思いがけない話が飛んできた。
「陸路でシキョーレに来たお前さんなら分かっていると思うが、この辺りには太さも深さも流れの速さもまるで違う川が何本も流れている」
「ええ、おかげで橋が架かっている川はともかくとして、船でしか渡れない川の所だと、何日か待たされたりしたわね」
「で、どうにも最近その川の流れがおかしくなっているらしい」
「おかしい?」
それはこの辺り……ヘニトグロ地方南東部に流れ込んでいる無数の川の様子について。
どうにも、通常では有り得ない程に水の流れが速くなっていたり、水かさが増したりと、まるで洪水でも起きたかのような状態になっているらしい。
「別に洪水は今の時期ならそこまで珍しいものじゃないわよね」
「ああ、この時期なら二、三年に一度は洪水が起きていて、何処かの集落が被害を受けるな」
勿論、川が多い地域なので、洪水そのものはそれほど珍しいものではない。
そして洪水が頻発している地域に住んでいるために、この地方の人々ほど水害に慣れているヒトたちもいないだろう。
「ただ今回はこの辺り一帯全ての川がおかしくなっているらしくてな。既に幾つかの集落で被害が出始めているそうだ」
「……」
だがそんな地方に宿を構える主人がわざわざ警告を発した。
それだけで、今起きている洪水のような現象が例年の洪水とはまるで別物である事が窺えた。
「……。上流の方で何かが起きていると言う話は?それこそただ単に川の上流で大雨が降っているだけかもしれないわよ」
「今の所そう言う情報は俺たちの所にまで流れて来てはいないな」
「そう……」
おまけに原因も不明であるらしい。
ああうん、もうこの時点で厄介事の臭いしかしない。
絶対に何か碌でもない事が起きている。
「と言うわけでだ。お前が船に乗りたくないと言っていたのは知っているが、今から別の街に行くんだったら、素直に船に乗ることをお勧めするぞ。海の方は特に荒れていると言う話を聞かないしな」
「うーん、それでもまずは陸路で行ってみるわ」
「そうか」
純粋に私の身を案じてくれている主人の心遣いは嬉しい。
ただ、主人が勧める船に乗って岸沿いに進む事で別の都市に行くと言うのは、出来る限り避けたい。
どれぐらいの時間がかかるかも分からなければ、いざという時に逃げられる保証もないからだ。
なお、逃げる相手は自然災害や事故もだが、私の場合はヒトも含まれている。
妖魔だから当然だが。
「余計な心配だとは思うが、金を渋らず、危険だと判断したら素直に退いておけよ。死んでからじゃ遅いからな」
「ええ、肝に銘じておくわ。あ、もし諦めて帰ってきたら、その時はまた部屋とウェイトレスの仕事をお願いね」
「おう。見た目も接客も腕っぷしもいいウェイトレスならいつでも歓迎してやるから安心しな」
「ありがとうね」
私は主人にそう言い残して、宿の外に出て行った。
なお、宿の主人は私の性別を知った上でウェイトレスとして、臨時に雇ってくれていた。
主人曰く気が付かない方が悪いだそうだ。
さて、何事もなく脱出できればいいのだけど……そう上手くはいかないんだろうなぁ。
今までの経験からして。
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マダレム・シキョーレ出発から数日後。
私は川の流れが緩くなったタイミングを狙って川を渡ることによって、この地域から脱出するまで後は川一つ越えればいいと言う所まで来ていた。
「この村はまた酷い事になっているわねぇ……」
が、その川の周りの状況は、私の想像以上に酷い事になっていた。
「悪いな傭兵さん。あの川はもうずっとあんな感じで、とてもじゃないが渡河用の船なんて出せねえんだ」
「でしょうね。岸がかなり抉られているし」
絶え間なく荒れ続ける川の勢いで岸の土は抉れ、少しずつではあるが、刈り取れる作物だけは何とか刈り取っておいた畑を巻き込み始めていた。
そして、村人の話では既に何人かが家を、場合によっては命を失ってもいるらしい。
それにしてもずっと……か。
私は川の中に適当な木の枝を投げ入れつつ、何が起きているのかを考える。
「村人さん。一応聞いておくけど、あの川は本当にずっとあんな感じに荒れ続けているのよね」
「ああそうだ。もう二週間ぐらい前だったはずだが、それからずっとおかしくなっている」
「二週間……ね」
うん、作為的な何かを感じずにはいられないと言うか、絶対に上流の方で何者かが何かをしている。
でないと一日二日ならともかく、大雨が降った様子も無いのに二週間もこの水量が保たれるはずがない。
問題は誰がどんな目的で何をしているのかだけど……。
「あー、うん。凄く嫌な予感がするわ」
私はとある可能性に思い至ってしまった。
いやまあ、勿論私の予想が外れている可能性の方が高いとは思う……と言うか外れて欲しいんだけど、万が一予想が当たった場合には、私の正体がバレる危険を冒してでも、出来る限り多くのヒトと事に当たらないと拙い。
それぐらいにヤバい可能性に思い至ってしまった。
「村人さん」
「なんだい?傭兵さん」
「今後、この村に私以外の傭兵が来たら、川の上流の方に原因があるはずだから、出来れば来てほしいと言っておいてくれる?」
「別に構わ……って、こんな大金を何で!?」
「話を聞いて渋る傭兵が居たら、報酬だと言って渡して。で、残りはこの村で使っていいわ。たぶんだけど、早い内にケリを付けないと、この辺り一帯のヒト全員が致命的な被害を受けかねないだろうから」
「な……」
私の言葉と渡した貨幣袋の中身に、袋を渡した村人も周囲の村人も唖然とした様子を見せる。
「じゃっ、何が正しい行動なのかをよく考えた上で動いてね」
「「「……」」」
そうして私は川岸を上流に向かって歩き始めた。
06/19誤字訂正