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キュウリ

作者: みつ

 夏の午後だった。

 朝から降り続く雨が鬱陶しく、わたしは部屋干しした洗濯物の下でごろごろと雑誌を読んでいた。仕事は休み、外は雨。出かける気にもならない。

 雨音に混じってアパートのドアをノックする音がしたのでドアスコープからのぞく。だが誰もいない。何かが風でドアに当たっているのだろうか。確認しようとドアを開けると、男がびしょぬれで立っていた。だぶついた体型の中年の男だ。しかもフルチンである。雨に濡れて貼りついた少々長めの髪の毛は、頭頂部が残念なことになって落ち武者のようだった。理解を超える光景にわたしの時間は止まった。

 男はわたしを見てにやっと笑った。はっとして慌てて玄関を閉める。変質者だ。ドアの前に変質者がいる。ドアの外ですみません開けてください開けてくださいと声がしたが開けるわけがない。

 すみやかに警察に通報した。パトカーのサイレンの音がすると、男は逃げて行った。


 夜、玄関をノックされてのぞき穴からのぞく。誰もいない。だが昼間あんなことがあったので、わたしは慎重になっていた。通話ボタンを押せば最寄りの派出所にかかるようにした携帯電話を片手に持ち、ドアチェーンをつけたままでドアを開く。すると、昼間の男が立っていた。やはりフルチンだった。


 通話ボタンを押す指が動く前に、男は神業的な速さでその場に土下座した。


「警察は勘弁してください。」


 男を見下ろすと、大変残念な具合になっている頭頂部が真っ先に目に入る。


「変態。」


「変態じゃありません。ぼくカッパなんです。」


 わたしは通話ボタンを押した。

 男は逃げ出し、駆けつけてくれたお巡りさんが巡回を強化してくれると言ってくれ、その日は何事もなく過ぎた。


 一週間ほどたった雨の夜、ドアをノックする音がした。そろそろ通販で注文した品物が届くころだ。わたしは昼間仕事でいないから配送は夜を指定している。ボサボサの髪を慌てて整え、玄関を開けると裸の中年男が土下座していた。

 余所行きの笑顔を張り付けた顔のまま、わたしはすみやかにドアを閉めた。


「待ってください話を聞いてくださいお願いしますお願いします。」


 ドアの外から声がする。


「河童は川に帰れ変態。」


 はっと息をのむ気配がした。


「そうですぼくカッパなんです、分かってくれましたか。」


 わたしは答えず携帯電話をとりに部屋へ戻った。ボタン一つで通報できる準備をして玄関に立った。


「話って何よ。」


 わたしは引っ越しを考え始めていた。こんな変態がやってくるアパートになんか居られない。しかし引っ越しの費用を考えると簡単にも行かず、ここでこの変態の話を聞いて事態が解決するなら聞いてやってもいい。何かあればすぐに通報だ。

 男は嬉々として語り始めた。


「ぼくカッパなんです。だから水ください。」


 意味が分からない。いや、水を渡せば解決だろうか。逡巡していると、また通報されるかと思ったらしい男が焦って「だからその。」と話し出す。


「サチヨさんの家族の人ですよね?」


 サチヨという名前に聞き覚えがなく、わたしは「人違いです。」と答えた。


「えええ!? そんなはずは。」


「人違いです。」


「だって。」


「人違いです。」


「キュウリが植わってるじゃないですか。」


「人違い……え?」


 わたしはアパートの裏側にプランターを置いてキュウリを育てている。毎日かかさず水やりをして青々としげり、たわわに実ったキュウリたちだ。このキュウリがなんだというのだ。


「あのキュウリ、サチヨさんから受け継いだものですよね?」


 わたしは植物を育てるのが好きだ。小さなころから実家の庭の水やりを率先して行い、学校で育てた朝顔やヒマワリはわたしのものだけ大きく育って花もなかなか枯れなかった。そのため、ヒマワリの種がなかなかできずに困ったのは苦い思い出だ。

 今住んでいるこのアパートには庭が無く、植物が無い。だからアパートの裏側、洗濯物を干すスペースにプランターを置いて、ひっそりとキュウリを育てているのだ。一階住みだからできることだ。キュウリから化粧水が作れるので、それもキュウリを植えた理由の一つだった。

 キュウリは種を植えた。種は、今は亡き祖母からもらったものだ。


「キュウリはおばあちゃんから種をもらって植えたのよ。」


 サチヨという人物など知らない。けれども男はほら、と嬉しそうに言った。


「サチヨさんから受け継いだんじゃないですか。」


「だから――。」


 わたしは一つ気付いた。

 携帯電話のクリアボタンを押して、発信履歴を開いた。実家と表示されている文字を選択する。


「あ、お母さん? うん、うん、ちょっと訊きたいんだけど柵木のおばあちゃんの名前ってなんだっけ。え? 名前だけで大丈夫。住所はいいよ。うん、うん……あー分かったありがと。」


 通話を終えてドアスコープをのぞくと男の姿はまだあった。


「あんたおばあちゃんの知り合いなの?」


 母方の祖母の名前、今電話で母に確認したところ、名前はサチヨだった。おばあちゃんの名前なんて気にしたことがなかったのだ。おばあちゃんのことを話すときは住んでいる場所をつけて柵木のおばあちゃんと呼んでいた。


「サチヨさんにはとてもお世話になったのです。」


 お世話してもらった人の孫に変態行為を働くとは最低なやつだ。やっぱりすみやかに通報したほうが世の中のためだろう。

 わたしは通報すべく、携帯画面に派出所の番号を表示させた。


「それで、サチヨさんからあなたへキウ水の製法を伝えられたと思うのですが。」


「キウミズってなによ。」


「キュウリで作る水のことです。」


 この変態は説明が下手らしい。なかなか要領を得ない話をまとめるため、わたしは黙って少し考えた。おばあちゃんから教わったキュウリで作る水。

 ひょっとして化粧水のことだろうか。


「化粧水なの?」


「ケショウスイというのは分かりませんが、サチヨさんはキウ水と呼んでいました。」


「化粧水でもキウミズでもいいんだけど、それがなにって言うのよ。」


「ください。」


「やだ。」


 即答である。ドアスコープの向こうで男は背を丸め顎を落とし、絶望感もあらわにドアを見つめた。

 冷蔵庫に化粧水のストックが入っている。今すぐ渡すことはたやすいが、一回渡してしまうとずっと渡し続けるはめになるような気がするし、そもそも見ず知らずの人に突然「ください。」など、ふざけているとしか思えない。


「お、お願いします、頂けたらしばらく顔を見せませんから。」


「しばらくってどれくらい。」


「えー…………20年間ですね。20年したらまたキウ水をもらいに来ます。」


 また来るのか。わたしは大きく舌打ちした。その音が聞こえたのか、男はびくりと肩を震わせた。

 20年というのはしばらくというには長いが、しかし……20年か……。

 わたしは少し考えて、台所に行くと冷蔵庫を開けた。ドアポケットの精製水の横に並んでいる化粧水二つの内の一つを取り出す。

 玄関に戻ってドアスコープをのぞくと、男は顔を上げてはいたが地面に正座して手を着いた姿勢を保っていた。そろそろ近所の目が気になるので男に立つように告げた。

 チェーンをつけたままドアを開く。全裸の男の下半身を視界に入れないよう、顔を注視した。男はおどおどとわたしを見た。男の顔は口が大きく、目が離れ気味で全体的にのっぺりとして、カッパというよりもカエルのようだ。

 隙間から容器を差し出した。


「はいこれ。」


 男は驚いたような顔で容器をじっと見つめる。


「これが欲しかったんでしょ。」


 なかなか受け取らない男にじれてそう促した。男が顔を上げておずおずと口を開いた。


「すみません……。」


 いいのよ別に。だからとっとと去れ、と言いかけたわたしの口は続く男の言葉で固まる。


「足りないんです、全然。」


「は?」


 わたしが男に渡したストックは500ミリリットル入り精製水の空き容器を利用した容器に入っている。たしかに20年分には足りないだろう。だが図々しい男の態度に、眉間に深いしわが刻まれるのを感じた。このまましわが取れなくなったらどうしてくれる。


「ちょっとあなたねえ、いきなり来て化粧水くれって言って? で、キモいおっさんだけどなんか可哀想だからってこっちが親切にも化粧水あげようとしたら足りないですと? 意味分かんないんですけど。最初からどのくらい欲しいとか何にも言わないくせに足りないですか、そうですか。」


「すみませんすみません、イッショウです、イッショウください。」


 イッショウ。聞きなれない単語にわたしの勢いはいったん止まる。発音からしてイッショウは一生ではなさそうだ。一升びんの一升だろうか。視線だけを台所に向けた。味醂の容器はたしか一升だった気がする。えーっと、その容器は500ミリリットルのペットボトルと比べると……。


「倍以上を要求か! コノヤロー!!」


 図々しいにもほどがある。わたしは通話ボタンを押した。


「あの、変な男の人がうちのまわりを。」


 言い終わる前に男はどこかへ逃げ去った。


 そのあとしばらくは平穏な日々が続いた。うだるような暑さも続き、盛夏でも通勤で外に出なくてはならないわたしは、出勤前に朝の情報番組で天気予報を確認した。しばらく前に夜お湿り程度の雨が降って、それ以来ずっと晴天が続いている。町の草木はどれも乾いてしおれていた。そろそろ降ってくれないと断水が始まるかもしれない。

 テレビの報道番組でダムの貯水率を心配するコメントが読まれる。直後の天気予報コーナーで、美人の天気予報士は持っている差し棒でマップ画面の下を指した。海を示す青い部分に白い渦巻があった。真ん中にぽっかりと丸い穴が開いている。


「台風来るんだ。」


 予報士の美人さんは数日後にわたしの住む町へ台風が最接近するだろうと予言した。台風は大型だというから食料品などの準備が必要だ。わたしは今から準備する物をメモ用紙に書きだした。


 予報士の予言通り、その日は昼を過ぎたころから風が強くなり始めた。わたしが帰るころはかろうじて交通機関が一つだけ運行していた。寄り道をせず満員のバスに揺られてアパートにたどり着くと引きこもりの体勢に入る。風雨は強くなり窓がガタガタと揺れた。雨が激しく、川の水があふれているため近隣の住民に避難を呼びかけていると、レインコートを着たリポーターが暴風雨にさらされながらもテレビの中で必死にしゃべっていた。

 悲鳴のような風の音が外から聞こえる。玄関からもこんこんと、まるで誰かがノックをしていると思う音が聞こえた。外に出ていたものがドアに当たっているのだろうか。こんこん、こんこん、としつこく聞こえる音が煩わしい。何が当たっているのか確かめて取り除こう。

 玄関にタオルを持って行ってから庭サンダルを履いて玄関を開けた。風がドアを押して重たい。両手でドアノブを持ってゆっくりドアを開いた。

 玄関の前に肌色が広がっている。視線をゆっくり上げて、それが人の足だと気づいた。


「!?」


 頭を勢いよくあげた。足から頭までの身体は意識して見てない。見てないったら見てないのだ。禿げ散らかした中年男のおどおどした顔が目に入る。男の薄い髪は雨に濡れてべったりと顔に貼りついて散らかりたおし、激しい風にあおられてもなびく様子はない。


「あのー……あっ。」


 ドアの前に立つ変態が何か言っているようだったが、わたしは考えるより先にドアを閉めていた。

 不意打ちだったため驚いて心臓がばくばくと煩く鳴り響いている。ドアの外からは荒れ狂う風の音が聞こえてくる。風雨は強さを増して、ちらりと見えた外の様子は折れた木の枝やどこかの家のバケツやゴミなんかが転がっていた。とてもではないが人が気軽に出ていい天気ではない。


「なんでいるのよ! 台風なのに!」


「あっ、ぼくカッパなので雨平気なんですよ。」


 あはは、とドアの向こうで軽そうに笑う。雨が平気とかそういう問題ではない。でもそれを指摘するのも面倒だった。ぜったいこのおっさん面倒臭い性格してる。

 いい加減この人の訪問を断ち切りたい。こんな台風の日にまで押しかけるなんてどうかしているとしか思えない。それに、裸のおっさんがしょっちゅう訪ねてくると近所に広まりでもしたら、管理会社にアパートを追い出されかねないじゃないの。

 この変質者を追い払うのは多分簡単だ。目的は最初からはっきりしているのだから、その目的を達成させればよい。

 わたしはドアに向かって声を張った。


「ちょっとそこで待ってて!」


 急いで台所に行って冷蔵庫からペットボトルの容器を取り出した。角型をした2リットルのペットボトルはキャップのところまで液体が詰まっている。一応通話を押せばすぐ警察署へつながるようにした携帯電話を部屋着のポケットに忍ばせて、玄関のドアをゆっくり開いた。風は今アパートの横っ腹を叩き、ドアが風で押し返されることは無かった。

 禿げ散らかした頭が足元に見える。土下座をした男がわたしを出迎えていた。男の前に2リットルのペットボトルを乱暴に置くと、男の肩が大げさに跳ねる。


「台風でキュウリがダメになっちゃうかも知れなかったから全部収穫したの。ついでに化粧水も作ったら多く作り過ぎたから、ただそれだけなんだからね。」


 ツンデレのテンプレのようなセリフに自分自身おののいた。土下座する変態はペットボトルとわたしを見比べている。2リットル容器にたっぷり詰まった化粧水だ。丸い眼が驚きと喜色に溢れているのが良く分かって、正直気持ち悪い。


「ありがとうございます!」


 男は嬉しそうに容器を手にして立ち上がった。慌ててわたしは視線を横に移動する。絶対に男の全身を見るものですか。

 ふたを開け、容器を頭上に掲げて傾けた。化粧水が男の寂しい頭部に滴り落ちる。育毛剤にしているのだろうか。


「快感!」


 満面の笑顔で男が叫んだ。

 わたしはそのまま唖然と見ていた。

 男が上を向いて大きく口を開く。顎が外れたのではないかと思うほど大きく開いた口は顔の半分を占めていた。唇がめくれあがって奥歯まで見える。そのとき初めてぞっとした。今まで男を見て気持ち悪いという意味でぞっとすることはあったが、今感じているのは恐れだった。

 化粧水はがま口のような口の中へ注がれた。喉を鳴らしてすべてを飲み干したとき、男の姿は変化していた。

 わたしは驚愕に目を見開いた。わなわなと唇が震える。


 張りのある肌が雨粒を弾く。ずんぐりとしてたるんでいた身体はどこにも無かった。中年太りだった腹が引き締まり、腹筋の薄く筋が見える。胸板も薄いがしっかりとした筋肉で覆われ、その上に鎮座する顔は、整っている。ぎょろりとした魚類を思わせる丸い眼がアーモンド形に変わり、垂れ下がった口角は張りが蘇って締まった口許に、だぶついていた二重あごは今やがっしりとして、太く男らしい顎に変化していた。あんなに散らかっていた髪さえも一気にその本数を増やし黒々していた。雨に濡れて水がしたたり落ちるさまは色気さえ漂う。

 気が付くとわたしは叫んでいた。


「髪ー! 増えてるう!?」


「……よかったらもうちょっと別のところで驚いてください。」


 声までイケメンになっていた。

 髪ふさふさの、どこに出しても恥ずかしくないイケメンに変貌を遂げた男は、どこに出しても恥ずかしい全裸というスタイルでわたしに深々と頭を下げた。


「お陰様で力が復活しました。これで晴れの日にも外を出歩くことが出来ます。20年後にまたキウ水をよろしくお願いします。」


「……あんた何者なの。」


 見た目の変わった男に問いかけた。目の前で変化が起こったのだから信じないわけにはいかないだろう。この男は人ではない。少なくとも人はいきなり頭髪が生えたりしない。そんなことが出来るならカツラ業界や育毛産業は商売上がったりだ。


「ぼくカッパですよ。はじめからそう言ってるじゃないですか。やだなあ。」


 爽やかな笑顔が無性に腹立たしい。カッパと言うが、男の頭に皿はなく背に甲羅らしきものも見当たらない。


「皿も甲羅もないじゃない。」


「隠してますから。ではぼく川の氾濫を鎮めてきます。」


 自称河童は白い歯を見せる爽やかな笑みをそのままに、片手を軽く上げて背を見せた。そして小さな水たまりに足から沈んで行った。

 慌てて外に出て水たまりを見る。この雨でできたばかりの小さな水たまりは浅く、とても人ひとりが沈む深さなどなかった。


 部屋に戻ると点けっぱなしだったテレビは相変わらず台風の話題を流していた。映像は暗い川が映っている。増水していた川がみるみる治まって行きますと、横殴りの風雨の中でリポーターが興奮気味にしゃべっていた。

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