4
そして、ノロノロと立ち上がり、水飲み場に向おうとしたとき、部屋の戸が叩かれた。
「……クレアドロア?」
ラクヌアの声がした。
少し、心配そうな、不安そうな……そんな響きを持った声だった。
「……ラクヌア……。」
不意に口から漏れた言葉をあわててクレアドロアは押し殺したが、ラクヌアにはちゃんと聞こえてしまったらしい。
時すでに遅し……という奴だろう。
「クレアドロア、レベロリカクランポ?ワー……レグア?(訳:クレアドロア、調子はどう?あー……大丈夫?)」
「ラ……。」
「デルッタロンダ?(訳:入っても良いかな?)」
クレアドロアは、ドアの鍵を開けると、「ラ」とだけいった。
そこには、なんとも情けない顔をしたラクヌアが立っていた。
クレアドロアは、ラクヌアを見てからすぐに目を逸らした。
ラクヌアは、ここ最近、ずいぶんとかっこよくなった。
このままラクヌアの顔を見続ければ、この胸の高鳴りはさらに激しくなるであろうことを自覚していた。
戻れなくなるかもしれない、手放さなくてはならない幸せをもう、これ以上クレアドロアは手にしたくなかった。
「ミェン、タッタリィ。(訳:(どうぞ)座って。)」
「マッカルニ。(訳:ありがとう。)」
クレアドロアは、にこりと笑ったラクヌアに目も向けずに背を向けると、飲み物をラクヌアに手渡した。
透明なのに薄く虹色に輝くそれは、水に近く、また遠い存在だった。
「クレアドロア?」
コップを受け取りながらラクヌアはクレアドロアの顔を覗き込もうとしたが、クレアドロアがそれを拒否すると、おとなしく座りなおした。
「……シンシェレテロ、ラクヌア。(訳:ラクヌア、かっこよくなったよね。)」
「?……マッカルニ、ルイースクレアドロア。(訳:?……ありがとう、クレアドロアも綺麗だよ。)」
「……マッカルニ……。」
「デーテ……メラオ?(訳:長老に……(何か)言われた?)」
「ラ……リュンス、ネゥネイミエトゥッシェラクヌア?(訳:うん……ラクヌアには、(あたしの)帰り道が見えてるんてしょう?どう見えてるの?)」
「……ラ……トゥーシア……ハッシハルベア。(訳:……うん……見えるよ……凄く狭い(狭くて危険だ)。)」
「戻らなくちゃいけないのに……あたしが迷ってるから……。」
クレアドロアが俯き、下唇を噛み締めると、ラクヌアがクレアドロアの肩に手をおいた。
「イリィシェ?(訳:(今)なんて言ったの?)」
クレアドロアは、少し困ったような笑みを浮かべるだけだった。
「……ヘッシ、ヨリンデビロアゥ。クレアドロアタリーノンスヤッカ(訳:……あんまり自分を責めないほうが良い。今のクレアドロアは、濁ってるよ。)」
クレアドロアは、顔面を硬直させた。
この世界での“濁る”は、ほぼ“美しくない”“不細工”と同じ意味であり、濁ると言うのは内側からの腐敗も意味していた。
ラクヌアが悪意を持って言ったのではないとわかっていても、クレアドロアの心は深く傷ついた。
もともと弱り切っていた思考だ。
そこにちょっと触るだけでも簡単に抉れてしまうたったそれだけの些細な事なのに、クレアドロアは、そのままラクヌアに背を向けた。
「クレアドロア?」
クレアドロアは何も答えなかった。
答えられなかった。
不細工と言われた醜態をこれ以上晒す訳にはいかない。
これ以上心から腐り切ってしまう前に帰る決心をつけなければ。
「クレアドロア……ヨリンデビロアゥ。ラウーナ、クレアドロアルイース(訳:クレアドロア……“自分を責めるな”それと、クレアドロアは綺麗だよ。)」
「……タリーノンニア?(訳:濁ってるのに?)」
ラクヌアに返した返事は、驚くほど静かで、驚くほど嫌みらしかった。
クレアドロアは、ラクヌアを見ないまま冷笑を浮かべていると、ラクヌアが「ヤオ……ナ。(訳:今は……ね。)」と小さく返して少しためらいながら部屋を出ていった。
クレアドロアはどんどん負のスパイラルに落ちていった。
人間だから、何時だって妖精のように綺麗な姿でいられる訳がないと、そう思い始めたのだ。
眉間の皺を深くして、自分の帰り道を狭めていることに、クレアドロアは気が付いていなかった。
ふと、耳にミトリアの歌が入って来た。
クレアドロアは、ふと、子守唄を思い出し、口ずさんでみたが、クレアドロアの歌が終わっても、ミトリアの歌は終わらない。
普段、ミトリアが家で歌うときは単なる練習出しかないのであまり長くは歌わないのだ。
10分程たってもミトリアの歌が終わる気配を見せないので、クレアドロアはお客さんに歌っているのだろうと考えた。
ただ、この家をたった今訪れた相手と言えば、ラクヌアくらいしか思い当たらない。
だが、ラクヌアは帰ったはずだ。
そう思い、共有スペースまで静かに足を運んだ。
そこには、美声を奏でながら美しく笑うミトリアと、それに聞き惚れる……いや見惚れているように微笑みを返しているラクヌアがいた。
……あぁ、なぁんだ……ラクヌアもやっぱりミトリアが良いんだね……そうだよね、妖精は妖精同士がお似合いだよね。
少しでも夢見たあたしが馬鹿だったんだ。
そう思った瞬間、クレアドロアの体からどす黒いモヤみたいなものが出たような気がした。
部屋に戻り、鏡の前に立つと、そこには見慣れた人間の姿の自分がいた。
自分に向かってニコリと歯を見せて笑うと、いつもの無邪気な笑顔がそこには映った。
クレアドロアは、そう、何もかも違っていただけ……帰ることだけに集中しようと、自分に言い聞かせると、この世界の何もかもがどうでもよくなった。
鼻歌を歌いながら玄関に向かうと、呼び止めようとするミトリアの声を無視して長老の元へ向かった。
「メラオ。何回もごめんなさい。いますか?」
これで今日は、三度目となる長老の家の戸をノックすると、長老は出てきて、クレアドロアを見ると驚いたように目を見開いた。
それからすぐにいつものように静かに微笑むと、「今日はまたよくくる。」と言って家に上げてくれた。
「メラオ。今日は別れを言いに来たんです。もう決断しました。あたしは、人間界に帰ります。ここはあたしの居場所じゃないから。帰り方はまだよく分からないけど、もうここの言葉を教えてもらうこともないと思うので、本当にコレで最後です。今までありがとうございました。それと、迷惑かけてごめんなさい。」
クレアドロアは、一気に言い切ると、長老の反応を待った。
「……これはまた、ずいぶんと早いペースで醜くなったものだ……ラクヌアやミトリアと何かあったのかい?」
見当違いの応えにクレアドロアは気が抜けたような気がしたが、すぐに微笑むと、「やだなぁ、何もありませんよ?」と言った。
「あの鏡でもう一つの自分の姿を見てみるかい?」
長老が指差した先にはこの前、クレアドロアが覗いた時に綺麗な妖精の姿が映った鏡があった。
クレアドロアは、反射的に「いいえ。」と言っていた。
「……自分でも自覚しているんだね。なら、尚更君は帰れない。自分で自分の首をしめないほうがいい。今目の前にある問題ときちんと向き合いなさい。別れの挨拶は、それが解決してからだ。」
長老がそう言うと、背中を押され、「さぁ、きっと仲間が心配している。帰るといい。」クレアドロアは押し出された。
クレアドロアは、ミトリアの所へ向かったが、そこにはミトリアとラクヌアが隣あって座り、仲良く話している姿があった。
クレアドロアの事を気に留めた様子はまるでない。
クレアドロアが静かに戸を閉めると、床に寝そべった。
冷たい床が、何だか妙に苦しくて、ソファーベットにダイブした。
すると、部屋の戸が叩かれ、「クレアドロア?」とミトリアがクレアドロアを呼ぶ声が聞こえた。
「ラ?(訳:うん?)」
「ミォイラクヌア。(訳:ラクヌアがいるよ。)」
「ラ。」
「ウェ、マヒニシェット?(訳:出てこないの?)」
クレアドロアは、それには応えなかった。
ゆっくり、静かに息を吐いただけだった。
「クレアドロア?」
後ろの方で何を話しているのか、ラクヌアらしき声がひそひそと聞こえてくる。
「クレアドロア?」
ミトリアより低いその声は、ラクヌアのものだと、すぐに判断した。