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ラクヌアは、ミトリアは確かに美しく、非の打ち所がないという。
だが、その非の打ち所の無さがあまり好きではないのだとか……クレアドロアに毎日手紙をよこしていた時点で気付くべきだったのかもしれないが、ラクヌアはやはり、相当の変わり者だ。
「クレアドロア、ルイース。(訳:クレアドロアは、綺麗だよ。)」
クレアドロアは、曖昧に笑うと、ラクヌアは少し拗ねたように「ラック……。(訳:本当だって。)」と告げた。
「……ニーア、アゥ(訳:あたしを口説いてる?)」
そんな事して何になるの?とでも言いたげにクレアドロアは、ラクヌアの顔を見た。
「……ウーア……イアロム。ネクシェ?(訳:……うーん……そうかも。迷惑?)」
「マヒニ……マヒニネクシェ、ブリッダ……スルメッタアゥ。(訳:いいえ……迷惑ではないけど……何であたしを?)」
「……ナクアオグリファ、プリックネ?(訳:それを聞くの?知ってるんじゃないの?)」
クレアドロアは、少し困ったように曖昧に笑った。
「ア、タルラン。(訳:あたし、人間だよ?)」
「イアロスメル?(訳:そうだね何で(そんな事を聞くの)?)」
「スメル……ネゥネイワーノウタルラン。(訳:何でって……帰らなきゃ、人間の世界に。)」
「ネゥネイ?(訳:帰る?)」
「ラ。」
「マヒニネゥネイ。(訳:帰っちゃダメだ。)」
「……マヒニ?スメル?(訳:ダメ?何で?)」
「……シェッダ、メラオ。(訳:長老に聞く(といいよ)。)」
「ウェ、ネクネルーミア、ラクヌア?(訳:ラクヌアが寂しいんじゃなくて?)」
意地悪にそう聞き返したところ、ラクヌアは困ったように笑った。
「イアロム……マヒニマルンシェ。(訳:そうかも……(でも、)それだけじゃないよ。)」
クレアドロアは、怖くなって少しだけラクヌアから距離を置いた。
それだけではないと、では、何が問題なのだろうか?
ここの所、時折体が自分のよく知っている体でないような気がしてならないのだ。
「クレアドロア……?」
ラクヌアが心配そうにこちらに手を伸ばしてきたが、クレアドロアは座っていた場所から立ち上がると、走りだした。
一刻でも早く長老に相談しなければいけない気がした。
何よりも、ラクヌアを本気で好きになりかけている自分が恐かった。
残されたラクヌアは、呆然とクレアドロアの背中を見送った。
「メラオ!」
息切れして、長老の家を訪ねた時、長老がゆっくりとこちらに顔を出した。
「いらっしゃい。」
「長老、教えて下さい……ついさっき、あたしは、ラクヌアに……人間界に帰ってはならいと……どういう事ですか!?」
「ラクヌア……そうか、彼も見えたのか……君が好きなんだろうねぇ……。」
「メラオ!そんな事を聞きにここに来たのではありませんっ!」
走ってきて乱れている息を整えながら、長老を少しばかり睨んだ。
「……そういう事さ……水でもお飲み。」
出された水を会釈だけして一気に飲み干すと、長老を見た。
「どういう、事ですか?」
「最近体に異変は?」
「あります……まるで全く知らない体を使っているような感覚が……。」
「見せてあげよう。君のもう一つの姿を。」
そういうと、長老は、クレアドロアの手の甲に触れ、指で甲に円を描くと、クレアドロアに鏡を手渡した。
「何……これ?」
クレアドロアは、その後しばらく絶句した。
何をどう言ったらいいのかがよく分からなかったのだ。
鏡には美しい顔が映し出されていた。
顔に触れた手も、鏡に移すと、妖精のそれであり、全身が妖精と変わらなかった。
「君は、光の妖精みたいだのう……きっと彼らの仲間なのだろう。彼らのなかにもいろんな性格の妖精がおる。活発な者、残忍な者、癒す者、自由な者……とにかく様々だ。ラクヌアは木や植物を司る妖精だから……なおのこと君に惹かれたのかもしれん。」
「……でも、でもっ、鏡に映っていないあたしは、まだ人間の体を……!」
「君が自分を人間だと思っているからさ……それは、君の思いだけでそこに留まっている。帰り道もかなり狭くなった。このままでは閉じてしまうだろう。」
「メラオ!あたしに帰り方を!」
「本当に帰りたいかね?もう二度と、ここには来れなくても?」
クレアドロアは一瞬ためらったが、苦しそうに頷いた。
「今のままでは帰れん。体が分裂を起こして、君はちゃんとした姿で帰れなくなるかもしれないから……本当に帰りたいのなら、もっと強く帰りたいと願う事だ。なぜ帰りたいのか、どうしてそこまでして帰りたいのか……一瞬でも木を抜けば帰り道は閉じ、やがて君は人間界の事など考えずに言葉も忘れるだろう。」
「嫌だっ!そんなの、ダメ!」
体が分裂をするかもしれないという恐怖と、人間に戻れなくなるかもしれないという恐怖に板挟み状態になり、クレアドロアは無意識のうちに声を張り上げていた。
「あ……!」
クレアドロアが気が付いたとき、そこには、目を丸く見開いた長老が無抵抗に座っていた。
「ごめん……なさい。どうしたら、どうしたら、戻れますか……。」
「帰りたいと強く願い、愛する者達と別れを告げ、この世界を別の世界の出来事として断ち切りなさい。きっと元に戻れる……かつての彼女も、私に「さよなら、愛してたわ、たぶん、これからも愛してる」と涙をいっぱい目に貯めて私の前を去っていった。」
追憶に浸る長老の顔は、懐かしんでいるようにも、苦虫を噛み潰したようにも見えた。
その長老の口調からすれば、その女性と、目の前にいる長老が、ただの友達ではなかった事がはっきりとわかった。
「そんな、あたし……彼は好きだけど……愛してるかなんて……。」
「何、別にやましい意味で言ったんじゃない……例えば、私に対する愛も君にはあるだろう?そう。何度も私を頼って来てくれたこともそうだし……ミトリアの事もそうだ。そういった人たち全員に別れを告げるのだよ。」
「二度と会えないんですか?」
「会えないだろうねぇ……いいや、会う必要がなくなるんだ。そして、我々は……きっと君の中から消えてしまう。」
「忘れない!あたしは、あたしは、絶対忘れたりなんかしない!」
諦めてしまったかのような長老の声に、大声で叫ぶと、睨むように長老を見た。
「彼女もそういった……彼女は幸せになったのだろうね。ずっと後にこんな子孫に恵まれて……そして、歌を残した……我々の、歌を……。」
その後、どうなったのか、クレアドロアにはわからなかった。
自分がどうやって長老の家を出たのかも、どうして自分の部屋にいるのかも、わからなかった。
ただ、気が付いたときには、自分の部屋の中で一人、丸椅子に腰掛けていた。
頭の中は、別れと、帰る、帰らないの葛藤でいっぱいになっていた。
「お母さんもこの世界に呼べたらいいのに……。」
不意に漏れた言葉に、クレアドロアは自分で目を輝かせた。
「そう、呼べばいいんだ!」
思ったら即実行型のクレアドロアは、立ち上がると、そのまま勢い良く長老のもとへ向かったが、その考えはすぐに否定され、無理だと知った。
じゃあ、あたしは何のために戻るの?
お母さんの面倒を見なくちゃ。
お母さんも、あたしよりは先に死んでしまうのに?
だからと言って放ってはおけない。
お母さん一人に対してこちらの世界で別れを告げなければならないのは3人……。
それでもあたしは戻りたいと願うの?
今の生活を失えば、また時間にとらわれる仕事だけの日々が始まる。
うかうか恋愛にうつつを抜かしている時間もなくなり、あたしは何かに取りつかれたように働かなくちゃいけなくなる。
この世界は、あたしにはあまりにも自由で開放的すぎた……こんな気持ちを知ってしまった後で窮屈な所に戻れというのは……あまりにも苦しすぎる。
まるで鉛をどんどん体に詰め込んでいくみたいな気持ちになる。
重たく、冷たく、鈍色で、暗く、綺麗な音だって聞こえやしない。
聞こえるとすれば、ズーンという地鳴りに近い音や今あたしがいる床が軋むミシミシという音くらいだろう。
いずれにしろ、良い音ではない。
クレアドロアは、ため息をついた。