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「長老、私は……いや、失礼……私は長老です。先ほどは若者達が失礼を。あなたは……人間でいらっしゃいますな?」
「人間だけど……もしかして、ここはやっぱり人間がいる所ではないって事ですか?」
クレアドロアは、恐る恐る長老と呼ばれた男性を見た。
ずいぶんと白い髭がはえている。
歳は60そこそこといった感じだろうが、そこまで老けていないように見える。
長老は頷くと、他の妖精たちを振り返り、「タナルタ、タルラン(訳:彼女は人間だ。)」と告げると、クレアドロアを見て、「なぜこの世界へ?ここは妖精の国であり、人間の世界とは別の世界です。」とにこやかに告げた。
クレアドロアは、後ろに騒ついている精霊たちをよそに、眉をしかめ、「妖精の国?」と聞き返すと、パッと目を輝かせた。
「素敵!あたし、そんな世界が存在するなら来てみたかったの!この宇宙には数えきれない程の沢山の星があるのでしょう!?それなのに、生命体が住む星は自分たちだけだなんて変だと思ってたの!」
「……お嬢さん、お名前は?」
「クレアドロア!よく、お転婆娘って言われるの……。」
「……クレアドロア、そうですか……あなたは、私が知っている女性によく似ている……雰囲気やオーラ……と人間はいいましたかな?どれ、クレアドロア……先ほど歌っていたという歌を私に聞かせてはくれないだろうか?」
長老の言うことに素直に頷くと、クレアドロアは子守唄を歌いはじめた。
「イリィストブィリッヒ、ダゥリアドーレ、クレーインジカナフェグレン、世界に散らばる欠けら、どんなものにも平等に、天の恵みあれ、ラウリア、響く風の音に……ラゥラ、リィイッヒ、トゥルビルクランシェ我の涙時に光とならん、雨は人に平等にふり、世界もまた、再び恵みを取り戻す。アールダ、リィイッヒクラッピエ、ビィトリア……アンリエストブィリッヒ、ダゥリイドーレ、クレーインドカナフェグレン、世界にとどまる欠けら、どんな命にも平等に、祈りの恵みあれ、ラウリア、歌う風の音に……ラゥラ、リィイッヒ、トゥルビークランシェ我の声遠く届かん、晴れは平等に照らしだし、我らに恵みを与えるだろう。アールダ、リィイッヒクラッピエ、ビィトリア……ハウラー、ラーララッハウラー……ハウラー、ラーララッハウラー。」
歌いおわると、長老は身動き一つしなかった体を少しだけこちらに向けた。
「その歌はどこで?」
「……わかりません……でも、祖先からずっと続いている子守唄なの。」
「その歌の意味を知っているかね?」
「いいえ……おじいちゃんあたりから意味はあまりわかっていなかったみたいで……おじいちゃんが子守唄を歌ってくれたことも少なかったみたいだから、お母さんもうろ覚えなんです……それで、そのうろ覚えの歌詞をあたしが覚えて歌ってるの。」
クレアドロアは、困ったように笑うと、ほんの少しだけ方をすくめてみせた。
「……その歌はこの国の民族曲なのだよ……最後のハウラーは、人間でいう、祈りをって意味があって、神様に祈りを捧げる事を歌にしたものなんだ。」
長老の姿がだんだん若返っていくように見えたクレアドロアは、慌てて目を擦った。
だが、目を擦ってみても、結果は変わらない。
髭の白さや白髪はだんだんなくなり、顔の皺や垂れた皮膚も若々しく変化していく。
「あの、長老……姿が……。」
「ん?何だね?」
「若返って……ますよね?」
「そう見えるのかね?私達妖精に固定された姿はない。クレアドロア、君が思っている妖精という理解しやすい姿を我々はしているんだ。だから君がもし、わたしが若返っていると感じるなら……そうなのかもしれない。私は今、とてもウキウキとした気分だからね。」
クレアドロアは驚き、人型ではない妖精を思い浮べようとしてみた。
だが、それは、兎や馬、犬などの形をなぞらえて形成されるため、はっきりとした想像はできず、どれもあまりピンと来なかった。
やはり、今の姿が一番分かりやすいように思うのだ。
しかし、それ以外に考えるべき事があるはずだ。
それが何だったかを思い出すべく、数秒首を傾げて黙っていると、唐突に叫んだ。
「いけない!仕事!あの、あたし、帰らなきゃ!あたしがいた世界へ。帰り方を知りませんか!?」
「帰るのかね?いつでも帰れるじゃないか。向こうへと続く道はいつでもクレアドロアの前にあるよ。」
クレアドロアは、周囲を見渡してから、目を細めて目の前を注視したが、当然なにも起こらず、何も存在しなかった。
耳を傾けても聞こえてくるのは後ろにいる見張り番だった妖精たちの声だけで、腕を振り回しても、何かに触れられるわけでもなく、その手には何も掴めなかった。
仕舞いには、長老に「それは何踊りなのかね?」と聞かれる始末。
「長老、ありません。帰る道も、帰り方も……何も。」
クレアドロアがうなだれると、長老は笑いだした。
「ハッハッハッ!君にはまだ見えていないようだね、帰り方も、帰り道も、君の目の前にあるじゃないか。」
「それは、どうやれば見えるの?」
「……クレアドロア、君が望めば。ただ、今はまだその時ではないようだ……君に見えていないということはね……。」
そうしている間にも時間は過ぎていく。
やがてすっかり妖精の世界に溶け込んだクレアドロアは、笑みを讃えながら歌いだすまでになった。
だが、ふと虚しさが過るのだ。
一つだけ、心配な事、それはクレアドロアの母の事だった。
病弱でよく床に伏せている母。
そんな彼女を思っては、体が拒否反応を起こすかのようにザワリと、鳥肌がたち、一瞬だけ立ち眩んだように目の前の視界がぼやけるのだ。
やがて、小さな耳鳴りがして、なんにも考えられなくなる。
この世界はあまりにも居心地がいい。
クレアドロアは、何もしなくてももてはやされ、クレアドロアがこうあればいいのにと思った世界が目の前に広がっているのだ。
甘い、甘い、あまりにも甘美な誘惑にクレアドロアは、勝てずにすぐに脳が思考停止をしてしまっているようだ。
「お、母……さん……。」
やっとのように紡いだ言葉は、今のクレアドロアには、あまりにも非現実的なもので、あまりにも遠い存在に思えた。
体が疲れたと常時悲鳴を上げていた世界とここでは、待遇が違いすぎるのだ。
だが、クレアドロアの親は彼女一人しかおらず、どうやっても切り離せぬ血族であることも間違いない。
少しずつクレアドロアは自分がいるべき世界の記憶をたどりはじめた。
誘惑に屈しず、目を何度も背けたくなる記憶をたどり続けるのは難しい。
何度も、何度も途中で思考が途切れた。
そんなある日の事だ。
「ハリーナ、クレアドロア。(訳:おはよう、クレアドロア。)」
「ハリーナ、ミトリア!ルイースラリア!(訳:おはよう、ミトリア!今日も綺麗ね!)」
ミトリアは、クレアドロアと同い年くらいの容姿をした妖精で、妖精のなかで1、2を競う程歌が上手いといわれている歌姫だ。
妖精の姿は皆美しいが、それは、心の清らかさが外見に影響をしているとの事で、クレアドロアは、そんな妖精たちをうらやましいと感じていた。
「マッカルニ、ノーイサルーアクレアドロア(訳:ありがとう、クレアドロアこそ、妖精みたいよ。)」
クレアドロアは、ノーイサルーアという言葉の意味が分からずに首をかしげたが、すぐに微笑んで、「マッカルニ。」と答えた。
優しい笑顔を浮かべたミトリアが、自分の言われて嫌なことを言う訳がないと思ったからだった。
長老につれていかれたある日、ミトリアの歌を聴き、聞き惚れていると、ミトリアから声をかけてきたのだ。
これが、クレアドロアとミトリアの出会いだった。
「ナラック、メラオ、トゥ、クルリア……(訳:こんにちは、長老。それと……初めまして。)」
「ナラック、レベロリカ、クランポ?(訳:こんにちは。調子はどうかな?)」
「レベロ、ダンシェ(訳:(体調は)いいです。ありがとうございます。)」
「クレアドロア、彼女は……」と、そのようにして出会い、ミトリアがクレアドロアは人間だと知ると、いつかのクレアドロアのように目を輝かせて「タルラン?ラックア!?ラックア!?(訳:人間?本当に!?本当に!?)」と言ってクレアドロアの手をとると、「ヤック!ラックアネーイタルラン!ア、ミトリア!ウィリア!(訳:凄い!本当に人間がいるなんて!私、ミトリア、仲良くしましょ!)」と言って、妖精の言葉を学んでいる今のクレアドロアがいるのだ。
ミトリアは、綺麗な妖精で、美しい容姿に美しい声を持っている。
そんな彼女に憧れている男性は多く、たくさんのラブレターが届く。(同棲してから知ったことだ)
が、最近その中に一通だけクレアドロア宛ての手紙が届くようになりだした。
クレアドロアは字が読めないので、ミトリアに読んででもらうのだが、内容は初めのうちは人間に対する興味本位の文章だった。
返事を出そうにも名前も書いていなければ、字も書けない。
「クレアドロアー?」
ミトリアに少し訛りのある声で呼ばれ、ミトリアの所に向かうと、そこにはたくさんの手紙の束と、やはり一通だけクレアドロア宛ての手紙が着ていた。
「また……。」
「ラウービリュッシュ。(訳:毎日ご熱心だこと。)」ミトリアは笑ってクレアドロアに手紙を手渡した。
「ノップ……タルランアゥデロン。ミトリアルッカモアー。(訳:やめてよ……私が人間だからだよ。ミトリアこそ、モテモテじゃん。)」
からかうようにミトリアを突くと、ミトリアは困ったように笑っただけだった。
「……クレアドロア、ヨルア?(訳:……クレアドロア、読もうか?)」
差し出してきたミトリアの手にニコリと笑って手紙を乗せると、ミトリアもニコリと笑って手紙をあけた。
内容は公園に35時に着てほしいとの事だった。
35時といえば、人間時間でいう午後3時。
一番気温が上昇する時間帯だ。
ミトリアは、なんだか告白みたいだとはしゃいでいたが、クレアドロアはあまり乗り気ではないようなそんな表情を浮かべたまま曖昧に笑っていた。
長老にいろんな言葉を教えてもらい、時間になってから指定された公園に向かった。
そこにいたのは男性だったが、クレアドロアには何となく、ミトリアの好みとかを聞きたいのだろうなと思った。
何度か、いきなり連れ出されてミトリアの事を聞かれたことがあったのだ。
もし違うのであれば、相当な変わり者かのどちらかである。
「ナラック、クルリア。(訳:こんにちは、初めまして。)」
クレアドロアが男性に声をかけると、特にたいした特徴もない男性が振り向いた。
「ナラック、クルリア……クレアドロア?」
「……ラ。(訳:はい。)」
「プロブリア……ラックアタルラン?(訳:驚いたな……本当に人間?)」
男性はほんの少しだけ笑うと、クレアドロアをじっと見た。
「ラ、タルランアゥ。(訳:はい、私は人間です。)」
こんな当たり前のことを話している自分に思わず笑いそうになったが、ふと冷静に返った。
むしろ、自分は人間に見えないのだろうか?と。
今朝、ミトリアも妖精みたいよ。と、クレアドロアに告げた。
クレアドロアは怖くなって自分の手のひらを見た。
微かに指先がぼやけて見えたことに焦って顔に手をあてた。
急に自分が自分の知る自分でなくなることの恐怖を覚えたからだ。
「……レグア?(訳:大丈夫?)」
「……ウァ、ラ。」
何とか男性の問い掛けに答えると、男性は自己紹介を始めた。
「ア、ラクヌア。ウィリア。(訳:僕は、ラクヌア。仲良くしよう。)」
「ア、クレアドロア……ウィリアドゥ……。(訳:あたしは、クレアドロア……こちらこそ……。)」
よく分からないが、ラクヌアはクレアドロアが気に入ったらしく、その後、しょっちゅう会うようになった。