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北の最果て、波打ち際にそびえ立つ「亡者の塔」。
かつて王族や高位貴族の幽閉先として使われたその場所は、冷たい潮風と絶え間ない波の音に支配された、生ける屍たちの安住の地だ。
私はリリアーヌの細い肩を抱き寄せ、塔の最上階へと続く石造りの階段を上っていた。カツン、カツンと、私たちの靴音が冷え切った空気に反響する。彼女の体温は私の腕を通じて伝わってくるが、その足取りには迷いも、ましてや感傷など欠片もなかった。
「……随分と、不潔な場所ですこと」
リリアーヌが、鼻を突くカビと潮の香りにわずかに眉を寄せた。
「ああ、君を連れてくるには相応しくない場所だ。だが、劇の終幕にはふさわしい舞台だろう? 観客は私一人だが、演者である彼にとっては、これ以上ない残酷な再会になる」
重い鉄格子の扉の前に立ち、私は番人に合図を送った。
錆びついた音が響き、扉が開く。
狭く、湿った石室。わずかな天窓から差し込む光の筋の中に、一人の男がうずくまっていた。
数日前まで、王宮で燦然たる光を放っていたはずのエドラス。
今の彼に、その面影はどこにもないようだ。絹の服は汚れ、無精髭が伸び、瞳からは知性と傲慢さが消え失せていた。
「……あ、ああ……」
扉が開いた音に、エリオットが怯えたように肩を震わせる。しかし、逆光の中に立つリリアーヌの姿を認めた瞬間、彼の顔に狂気じみた希望が宿った。
「リリアーヌ! リリアーヌじゃないか! 助けに来てくれたんだね! ああ、やはり君は慈悲深い……! さあ、早くここから出してくれ。そうすれば、すべてを許そう」
エリオットは這いずるようにして彼女の足元へ近づき、その靴に縋り付こうとした。
私は、彼の手が彼女の靴に触れる寸前、迷わずその手を軍靴で踏みにじった。
「ぐわぁっ!? な、何を……レナード公爵!? 貴様、どけ! 私はリリアーヌと話をしているんだ!」
「……汚らわしい。君のその汚い手で、彼女に触れる許可をいつ出した?」
私は冷徹な声で告げ、さらに力を込めて足を踏み抜く。骨の軋む音が石室に響いたが、私の心は一点の曇りもなく、ただこの男の醜態をリリアーヌがどう眺めるか、それだけに関心があった。
「エドラス様」
リリアーヌが、私の隣から静かに口を開いた。
踏まれているエリオットが、痛みに顔を歪めながらも必死で彼女を見上げる。
「助けにきた? 慈悲深い?……ふふっ、おかしくて涙が出そうですわ。あなたはまだ、自分が何をしたか、そして私が何者であるかを理解していらっしゃらないのね」
リリアーヌは私の横を通り過ぎ、エリオットの前に屈み込んだ。
至近距離。彼女の美しさが、泥にまみれたエリオットの醜悪さをより一層際立たせる。
「あなたがマリアという女と睦み合い、私を『毒婦』と罵って婚約破棄を突きつけたあの瞬間。私は、この世の何よりも深い悦びを感じていましたの。……ああ、これでようやく、あなたという無能な重荷を下ろし、あなたを徹底的に破滅させる『正当な理由』が手に入ったのだわ、と」
「……な、何を……」
「あなたが使い込んだ公金の帳簿も、マリアが盗んだ機密文書も、すべて私が用意したものです。あなたが私を捨てようとしたのではない。私が、あなたを地獄へ捨てるために、その舞台を整えさせてあげたのですわ」
エドラスの瞳から、光が消えていく。
信じていた世界が、足元から崩れ去る音。
自分を愛していたはずの女が、実は自分の首を絞めるための縄を編んでいたのだという真実。
「……嘘だ、そんなはずはない……! 私は王子だぞ! 君を、君を愛していたんだ! ……お前も私を愛していたはずだ!!」
「愛? そんな安い言葉を、私に向けないで。……あなたが愛していたのは、ヴァリエール家の財力と、私の完璧な従順という『飾り』でしょう? ならば、せめて最後はその飾りに殺されることを光栄に思いなさいな」
リリアーヌは立ち上がり、私の方を向いて微笑んだ。
その微笑み。
絶望する者を冷ややかに見下ろし、自らの正義と悪意を完璧に調和させた、その残酷な横顔。
(ああ、これだ。これが見たかったんだ)
私の胸の内側で、狂気という名の魔物が咆哮する。
彼女の知略、彼女の冷酷。それらすべてが私の理性を焼き切り、ただ彼女の支配下にあることを至上の幸福だと錯覚させる。
「ヴィンセント様。もう行きましょう。……ゴミ溜めの臭いが、ドレスに移ってしまいそうだわ」
「ああ、そうだね。エドラス。君には、ここでゆっくりと余生を過ごしてもらう。マリア嬢には、君が一番大切にしていた『嘘』が失われていく毒を贈っておいたよ。……君たち二人は、互いの醜さを呪い合いながら、死ぬまでここを離れることはできない」
絶叫するエドラスを背後に、私たちは塔を後にした。
外に出ると、夕闇が海を紫に染めていた。
リリアーヌは満足げに息を吐き、私の腕に身を預ける。
だが、その安らぎは長くは続かなかった。
塔の麓、私たちの馬車の傍らに、見慣れぬ豪華な紋章を掲げた一団が待機していたのだ。
黄金の獅子の紋章。隣国、レドーム王国の王太子ガナム・レドームの軍勢だ。
馬車の中から、一人の男が優雅に降り立つ。
金髪をなびかせ、不遜な笑みを浮かべるその男は、私とリリアーヌの前に立つと、仰々しく一礼した。
「――素晴らしい。これほどまでの『劇』を、直接拝見できなかったことが悔やまれるほどだ。レナード公爵、そして……麗しきリリアーヌ嬢」
ガナムの視線が、獲物を定める鷹のようにリリアーヌを射抜いた。
私は反射的に彼女を背後に隠し、剣の柄に手をかける。
「ガナム王太子殿下。他国の流刑地に、何の御用でしょう?」
「固いことを言うな、ヴィンセント。私はただ、風の噂で聞いたのだ。……一人の令嬢が、その知略だけで王家を転覆させ、愚かな王子を塔へ追い払ったとな。そんな面白い女性がこの世にいるなら、拝見せずにはいられないだろう?」
ガナムは私を無視し、リリアーヌの瞳を覗き込もうとする。
その瞳に宿るのは、ヴィンセントと同じ、あるいはそれ以上に昏い「同類」の光だった。
「リリアーヌ嬢。君のような才女が、このような小国で、一公爵の腕の中に収まっているのはあまりにも惜しい。……どうだろう、私の国へ来ないか? 君が望むなら、あの無能な王子の代わりに、王国の『王妃』の座を用意しよう。君の毒を、私は正しく愛せる自信がある」
空気が、凍りついた。
私の背後で、リリアーヌがわずかに息を呑むのがわかった。
隣国の王太子のプロポーズ。それは、公爵である私では与えられない、さらなる「権力」と「破滅の舞台」の提示だった。
私の内側で、理性の糸がプツリと切れる音がした。
独占欲。嫉妬。そして、彼女を失うことへの根源的な恐怖。
「……王太子殿下。言葉を選んでいただきたい」
私は一歩踏み出し、ガナムの目の前に立った。
魔導軍を率いる私から、どす黒い殺気が溢れ出す。周囲の護衛騎士たちが、その威圧感に思わず腰の剣を引き抜いた。
「彼女は私のものだ。……例えあなたが国を背負っていようと、彼女の髪一本でも奪おうとするなら、私はその喉笛を食いちぎる」
「ははっ! 怖い、怖い。……だが、選ぶのは彼女だ。そうだろう、リリアーヌ嬢?」
ガナムが挑発的に笑う。
私は、震える拳を握りしめながら、背後のリリアーヌの言葉を待った。
リリアーヌは、ゆっくりと私の背中から顔を出した。
彼女の視線はガナムを捉え……そして、次に私を見つめた。
その瞳に宿ったのは、試すような、冷徹で、かつ慈愛に満ちた奇妙な光。
「王太子殿下。お誘いは光栄ですが……」
リリアーヌは、私の腕を強く掴んだ。その爪が、服の上から私の皮膚に食い込む。
その痛みが、私を狂おしいほどに安心させる。
「私は、私を一番狂わせてくれる男以外、傍に置くつもりはありませんの。……ねえ、ヴィンセント様。あなたは、私が隣国へ行ってしまうのが、そんなに恐ろしい?」
彼女の横顔が、月光に照らされて妖しく輝く。
その問いかけは、もはや私への、逃げ場のない宣戦布告だった。
「……ああ、恐ろしいとも。君を失うくらいなら、私は今日、ここでこの男を殺し、戦争を起こしてでも君を檻に閉じ込める」
私の告白に、リリアーヌは「ふふ、合格ですわ」と楽しげに笑った。
その笑い顔を見た瞬間、私は確信した。
彼女はガナムに惹かれているのではない。ガナムという駒を使って、私の「独占欲」を極限まで煽り、私がどこまで狂えるかをテストしているのだ。
なんと、残酷で。
なんと、美しい女性か。
私はガナムを睨みつけ、彼女を抱き寄せて馬車へと押し込んだ。
「王太子殿下。……互いの国の為にも、二度と私たちの前に現れないことだ。次は、外交特権など無視して首を跳ねる」
走り出した馬車の中で、私はリリアーヌを乱暴に抱きしめた。
彼女は抵抗せず、私の耳元で囁く。
「……そんなに強く抱きしめては、骨が折れてしまいますわ。……でも、悪くない心地ですこと。嫉妬に狂ったあなたの顔、最高に素敵でしたわよ」
私は彼女の唇を、噛みつくように奪った。
元婚約者の没落など、もはや前座に過ぎない。
これから始まるのは、列強諸国を巻き込んだ、一人の毒婦と、彼女に狂わされた私の、国を破滅させかねない恋だった。
窓の外、荒れ狂う海を見つめるリリアーヌ。
今日も彼女の横顔……いや、すべてが美しい。




