第9話 冷蔵庫が変わる日
アパートに戻ると、汐織はまっすぐ台所に向かった。
買い物袋をシンク横に置いて、中身をひとつずつ取り出していく。最後にプチトマトのパックを、汐織はちょっとだけ丁寧に入れた。
麻貴はその横で残りの食材を手渡しながら、冷蔵庫の中を見ていた。
今朝まで砂漠だったはずの空間が、やけにカラフルだった。自分の冷蔵庫がこんな見た目になったのは、引っ越して以来かもしれない。
汐織は冷蔵庫を閉めると、袖をまくった。
「じゃあ、作るね」
エプロンは持っていないので、制服の上からタオルを腰に巻いていた。即席のエプロン代わり。手際よく準備を進めていく姿は様になっている。
(エプロンも買えばよかったな。忘れてた)
自分が全く使わないから、発想としてなかった。
今度、何か買っておいた方がいいかもしれない。
そんなことを考えている麻貴を他所に、汐織は料理を進めていく。
まず、鶏むね肉をまな板に乗せて、一口大に切り分けた。包丁の扱いが堂に入っている。食材がある時の汐織は、明らかにギアが違っていた。
切った鶏肉に塩を振って、フライパンに油を引く。じゅう、と音がして、肉が焼ける匂いが台所に広がった。
その間に、小鍋に水を張って火にかける。出汁パックを入れて、長ねぎを刻んで、味噌を用意して。ふたつの火口を同時に使って、並行して進めていた。
「篠宮、手伝うことある?」
「んー……じゃあ、しめじの石づきを取ってくれる? 根元のかたいところをぽきってするだけでいいから」
「了解」
言われた通りにしめじの石づきを折る。これくらいなら麻貴にもできた。折ったしめじを汐織に渡すと、彼女は「ありがとう」と受け取って、鶏肉を焼いているフライパンにぱらぱらと加えた。
味噌を溶いて醤油をひと回し、みりんの代わりに砂糖を少しだけ足す。汐織が味見をして、「うん、大丈夫」とひとりで頷いていた。
鶏の味噌煮が出来上がっていく工程を、麻貴はすぐ横で見ていた。フライパンの中で鶏肉としめじが味噌の色に染まっていって。焼ける音が、じゅうじゅうからことことに変わっていく。
料理をしている時の汐織は、実に楽しそうだった。フライパンの中身を菜箸でひっくり返す動作ひとつが、なめらかで迷いがない。味見をした後にほんの少しだけ塩を足す、その判断の速さ。料理好きなのがそれだけで伝わってきた。
小鍋のほうでは味噌汁が仕上がりかけていた。彼女は長ねぎと豆腐を入れ、味噌を溶いてから最後に火を止めた。蓋を開けると、味噌と出汁が混ざった湯気がふわっと立ち上がる。
卵雑炊の時とも違う匂いだった。実家にいた頃、学校から帰ると台所からこんな匂いがしていた気がする。もうずいぶん前のことで、記憶は曖昧だったけれど。
冷凍ご飯をレンジで温めている間に、汐織がプチトマトを洗ってサラダを作った。豆腐の残りを崩して、プチトマトを半分に切って添えただけの簡素なもの。でも、赤と白の彩りがきれいだった。
「はい。できたよ」
ローテーブルに、皿が並ぶ。鶏としめじの味噌煮と豆腐と長ねぎの味噌汁、白いご飯。それから、プチトマトと崩し豆腐のサラダ。
凄い。まさしく、ちゃんとした夕飯だった。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせてから、まず味噌汁を一口。
「…………」
椀を口元から離して、少し固まった。
出汁の旨味と味噌の塩気が、舌の上でじんわりと広がる。豆腐がやわらかくて、長ねぎがほんのり甘かった。何が違うのかは言語化できないが、インスタントとは根本的に何かが違う。
「……めちゃくちゃうまいんだけど。やっぱどっかの料亭でシェフしてる隠れプロだろ」
「普通のお味噌汁だってば」
「いーや、普通じゃないな。なんだこれ。出汁がちゃんとしてるだけでこんなに違うのか」
「出汁パック入れただけだよ?」
呆れたように言いつつも、汐織の口元はやっぱり緩んでいた。
嬉しそうだ。少なくとも、こんな顔を学校では見たことがない。
続いて、鶏の味噌煮にも箸を伸ばした。鶏肉がふっくらしていて、しめじに味噌の味が染みている。ご飯が進んだ。うん、これ冷凍ご飯だけじゃ足りなかったな。今度から米をちゃんと炊こう。
汐織も自分の分を食べていた。味噌煮を口に運んで、サラダのプチトマトを箸でつまんで。自分で選んだ食材で、自分が作った料理を、自分のペースで食べている。
「美味いだろ?」
何気なく訊くと、汐織は少し間を置いてから頷いた。
「うん……美味しい」
三回目の「おいしい」だった。
一回目は、坂道の総菜パン。二回目は、卵雑炊。
今日のそれはどちらとも少し違っていたように思う。食べることを、怖がっていないのだ。
麻貴は何も言わず、ただ隣で味噌汁をすすった。
*
食後は少しゆっくり雑談してから、食器を洗って並べる。いつもの分担だった。
洗い物を終えた頃になると、いい時間になっていた。そろそろ汐織が帰る時間帯だ。藤澤に着く頃には、八時ぐらいになるだろう。
「ねえ、箕島くん」
「ん?」
「また今度、一緒にお買い物いかない? 肉じゃが、作ってみたくて」
「肉じゃが……なんか急に家庭的だな」
「家庭的、なのかな? ふふっ」
何がおかしいのか、くすっと笑った。嬉しいのとも違う、何かを噛みしめているような笑みだった。『家庭的』という言葉を、自分の口の中で転がして確かめているような。そんなものを感じた。
靴を履いて、振り返る。
「今日もありがとう。一緒にお買い物できて、楽しかった」
それが社交辞令でないことは、声の温度でわかった。
惣菜屋の前で立ち止まった時の顔とか、プチトマトを選んでいた時の手つきとか。きっと、本当に彼女は今日、楽しかったのだ。
「そうか? ……まあ、買うもの先に言っといてくれたら俺が買っといてもいいけど」
手に持っていたスマホをひらひらさせて言った。
食後、連絡先を交換したのだ。申し出は彼女の方からで、『何かあった時に連絡できないと困るから』という事務的な理由付けだ。実務的な理由ではあるが、麻貴のスマホに『篠宮汐織』の名前が入ったのも事実。こうしてSNSで彼女と繋がっていると思うと、何だかそれだけで嬉しかった。
麻貴の提案に、汐織は不満そうに眉を寄せた。
「えー……」
「なんだよ」
「だって箕島くん、絶対高いやつとか分量合ってないやつとか買いそうなんだもん」
ぐうの音も出なかった。ねぎ一本と言われて三本入りを買ったり、豆腐の種類を間違えたりする未来が容易に想像できる。木綿と絹の違いなど、麻貴にはさっぱりわからないのだ。というか、今日の買い物中にもしめじと椎茸を間違えかけた。
「……だったら、また一緒に行くか」
「うんっ」
汐織はどこか嬉しそうに頷いた。その「うん」が妙に早くて、待ってましたと言わんばかりで……いや、それは考えすぎだろう。
「じゃあ、また明日ね」
「おう。気を付けてな」
「うん。おやすみなさい」
汐織が小さく手を振って、ドアが閉まった。
足音が階段を下りていく。とん、とん、と軽い音がドアの向こうから聞こえた。さっきまで隣にいた人間の気配が、一段ごとに遠ざかっていく。
「また明日、か」
また学校で、ではなくなっていた。それは、ただ何となく言葉を省いただけなのかもしれないけれど……僅かな違いに、約束の重さを感じてしまった。
ひとりになった部屋は、今日も静かだった。
スピーカーの音楽はいつの間にか止まっていて。汐織がいた時には気にならなかった部屋の広さが、急に戻ってくる。
(今日の飯も、美味かったなぁ)
お腹いっぱいだけれど、もっと食べたくなってしまった。
麻貴は台所に立って、冷蔵庫を開けた。
今朝まで空っぽだった空間に、食材が並んでいる。卵のパック、豆腐の残り、長ねぎ、鶏むね肉の余り。そしてプチトマトが数個。赤い実が蛍光灯の光を受けて、つやつやと光っていた。
冷蔵庫を閉めた。ローテーブルの上に目をやると——メモ用紙が一枚置いてあった。
汐織が帰り際に、さらっと書いていったものだ。
『次:にくじゃが、おみそ汁』
丸っこい、ひらがなの多い字。「にくじゃが」の「に」がちょっと大きくて、バランスが崩れている。几帳面な汐織にしては珍しい走り書きだった。急いで書いたのか、それとも照れくさくて手元が狂ったのか。
麻貴はそれを見て、何だか可笑しくて笑ってしまった。
笑ったことに自分で驚いて、すぐに顔を引き締めようとしたが、口元が言うことを聞かない。ひとりきりの部屋で、誰に見られているわけでもないのに。
結局、そのメモを冷蔵庫にマグネットで留めた。
丸っこい字が、白い冷蔵庫の扉の上で、ちょっとだけ傾いている。
楽しみが、ひとつ増えた。




