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第8話 ふたりでお買い物

 放課後、アパートに帰ってきた麻貴は、しばらくソファに沈んでいた。

 制服のまま。鞄は床に投げ出したまま。いつもならそのままスマホをいじって、気づいたら夜になっている──というのがお決まりのパターンだ。

 だが、今日はどうにも落ち着かなかった。


(……いつ来るんだろ)


 時計を見る。もう四時半だが、来るならそろそろだろうか?

 ふと、部屋を見回す。相変わらず──正確には、汐織が触った場所以外が──散らかっている。台所周りとソファの周辺だけが妙に整然としていて、それ以外は従来通りの惨状だ。

 麻貴はのろのろと立ち上がって、テーブルの上のコンビニ袋をまとめてゴミ箱に入れた。椅子にかかっていたシャツを、押し入れに突っ込んだ。畳むのは面倒なので、簡単に折りたたむくらいだ。それから、床の参考書を一箇所に積み直す。


(別に、片付けてるわけじゃないし。最低限、人が来れるようにしてるだけだし)


 誰に言い訳しているのかわからない弁明を心の中で唱えながら、ペットボトルのゴミを分別していると、玄関のドアが遠慮がちにノックされた。

 麻貴はドアを開けると──そこには汐織が立っていた。鞄を胸の前に抱えて、もちろん制服のままだ。


「……おー。来たか」

「えへへ。お邪魔します」


 少し恥ずかしそうにはにかんで、汐織は言った。

 これが、一番の違いだろうか。謝罪の代わりに、照れ笑い。たったそれだけの違いなのに、昨日とは別の空気でいて……どうしてか、まるで恋人が部屋を訪れたかのような幻想を、味わってしまう。

 

(……昨日まで謝ってから入ってきてたくせに)


 そんな憎まれ口を心の中で叩いて、何とか平静を取り戻す。

 決して、恋人が訪れたわけではない。ただ、ちょっとした約束の上で遊びに来ているだけだ。

 彼女は靴を丁寧に揃えて上がった。三日目となると、鞄を玄関の隅に置く動作にももう迷いがない。

 そして、まっすぐ台所に向かった。


「開けるね」


 と一声添えてから、冷蔵庫のドアを開ける。

 中を覗き込んで、汐織は「あー……やっぱり」と悩ましげに人差し指を顎に当てた。


「どうした?」

「さすがにこれだと何も作れないかなって。何か買ってくればよかったね」

「え?」


 麻貴も横から冷蔵庫を覗き込む。ふわりと甘い香りが至近距離からしたが、何とか意識を冷蔵庫に向けた。

 冷蔵庫の中には、パックのブラックコーヒーが一本。卵がひとつ。あとは醤油と塩とかつおだしの瓶だけ。冷凍庫を開けると、冷凍ご飯が一人分程度だ。もともと荒野だった冷蔵庫が、完全に砂漠になっていた。


「どうする? 卵かけご飯くらいなら作れるけど……」

「いや、それはもう料理じゃなくね?」

「卵かけご飯も立派な料理だと思うけどなぁ」

「篠宮がそれ言うと妙に説得力あるな」


 実際、汐織が作ったら絶品の卵かけご飯になりそうではある。だが、さすがにそれだけでは栄養が足りないし、卵も一個しかないとなると、一人分だけになってしまう。

 汐織は冷蔵庫のドアに手を当てたまま、少し考え込んでいた。それから、遠慮がちにこちらを振り返る。


「あのね……もしよかったら、今からお買い物行かない? ちょっとだけ食材を揃えたくて」


 その声にほんの少しだけ緊張が混じっているのは、たぶん……ふたりで外を歩くのが初めてだからだろう。

 麻貴も一瞬考えた。ふたりで買い物に行くということは、当たり前だが、外を並んで歩くということだ。もし学校の奴に見られでもしたら面倒なことになる。

 ただ、ここは学校から一駅離れた羽瀬ヶ崎。クラスメイトに遭遇する確率は低いだろう。たぶん。


「……まあ、いいけど。どこ行くの」

「このあたりにスーパーか、商店街ってある? 散歩はしてたけど、お店はあんまり見てなくて」

「小さいスーパーなら近くにあるよ。そこでいいなら」

「うん。十分だよ」


 汐織は頷き、鞄だけ玄関口に置いて、靴を履き直した。

 制服のまま出るのは少し気が引けたが、着替えるのも大袈裟だ。財布をポケットに入れて、玄関に向かった。

 ふたりでアパートを出て、並んで坂を下る。

 坂道を出ると、空が燃えていた。西の端から橙が滲んで、その上に淡い紫が重なっている。潮の匂いを含んだ風が、坂の下から吹き上がってきて、汐織の髪をふわりと攫う。

 ふたり並んで歩くのは、考えてみれば初めてのことだ。アパートの中では横並びで座っていたけれど、外を一緒に歩くのはまるで違う。どうしても誰かの視線がないかが気になってしまうのだ。

 汐織のほうも、きょろきょろと周囲を見回していた。散歩では通っていたのかもしれないが、買い物目的で見る町は違うらしい。

 羽瀬ヶ崎駅の方向とは逆に歩いて数分。小さなスーパーが見えてきた。

 入り口で汐織がカゴを取ってそのまま中に入っていこうとする。


「カゴ、俺が持つよ」


 そう言って、彼女の手からカゴを取り上げる。

 彼女は少し驚いたように目を丸くしたが──。


「じゃあ……お願いするね」


 すぐに目を細めて、頬を綻ばせた。

 いや、まあこうして食料確保のためにスーパーまで足を運んでくれているわけだし。さすがに、荷物係くらいはさせてほしい。

 野菜コーナーの前で、汐織が足を止めた。


「えっと……長ねぎと、あとお豆腐と。鶏むね肉もあるといいんだけど」


 どうやら、もう頭の中にレシピがあるらしい。必要なものを指折り数えながら、棚を見て回っていた。こういう時の彼女は、料理をしている時と同じだ。迷いがなくて、どこか楽しそうだ。


「何買えばいいかとかは言ってくれ。俺は全然わかんねーから」

「うん。じゃあ、これとこれと……あ、これも」


 汐織が次々と食材を手に取って、麻貴のカゴに入れていく。長ねぎ、木綿豆腐、鶏むね肉、しめじ。それから卵のパック。調味料コーナーで味噌を少し迷ってから選んで、出汁パックも追加した。

 麻貴はカゴを持って後ろをついていくだけだ。荷物持ちの付き人みたいな気分だった。

 調味料コーナーを抜けたあたりで、何気なく訊いた。


「篠宮は何が好きなの? 食い物で」


 汐織の手が、一瞬止まった。


「好きなもの……?」


 数秒。答えが出てこない。


「……あんまり、考えたことなかったかも」


 眉を八の字にして、困ったように笑った。

 笑ってはいるが、本当に思いつかなかったのだというのは、その顔を見ればわかった。

 好きなものがわからない……そこに何があるのかを、一瞬想像しかけて、すぐにやめた。それを訊かないのが、ふたりのルールだ。


「じゃあ、好きなもん選んでくれ。食費は俺持ちなんだから、遠慮しなくていいよ」

「え、でも……」

「いいから。そういう約束だったろ?」

「それは……そうなんだけど」


 汐織は納得いかなそうに頷き、しばらく黙っていた。カゴの中の食材に目を落として、それから、ゆっくりと野菜コーナーのほうに戻っていく。

 すると、とある棚の前で立ち止まった。暫く迷っていたかと思うと、やがておそるおそるという手つきで、ひとつのパックを手に取る。

 彼女が手に取ったのは、プチトマトだった。赤くて小さな実が、透明のパックの中にころころと詰まっている。

 それを両手で持って、じっと見つめていた。


「こういうの……何だか久しぶりかも」


 独り言みたいに、ぽそっと呟く。その『こういうの』が何を指しているのか、もちろん麻貴にはわからなかった。

 黙ってカゴを差し出すと、汐織がプチトマトをそっと中に入れる。それだけのことなのに、彼女の表情がわずかに柔らかくなっていた。

 レジに並んだ。これだけ買って、合計は二千円もいかなかった。スーパーってこんなに安くつくのか、と少し驚かされる。

 財布を出して払うと、汐織が横から覗き込んで、少し申し訳なさそうに言った。


「ありがとう。でも、本当にいいの?」

「だから、そういう約束だろ。何回言わせんだよ」

「……うん」


 汐織は小さく頷いて、それからどこか照れくさそうに、はにかんだ。

 買い物袋をふたつに分ける。麻貴がどちらも持とうとしたら、汐織が「半分持つよ」と言って袋のひとつを引き取った。


「いや、俺が──」

「だーめ。これは譲りません」


 絶対渡さない、とでも言うように、買い物袋を持ってこちらに背を向ける。

 流されやすいのかと思っていたが、意外にも頑固なところがあるらしい。

 結局、ひとつずつ持って店を出た。

 夕暮れの街を、買い物袋を提げて並んで歩く。惣菜屋の灯りが通りに漏れていて、どこかの家からテレビの音が聞こえる。

 汐織が買い物袋の中を覗き込んで、何だか楽しそうにしていた。


「何作るつもりなの?」

「んー……鶏の味噌煮と、お味噌汁と、あとサラダ。プチトマトはサラダに入れたら綺麗かなって。あっ、トマト嫌いじゃなかった?」

「篠宮が作るなら何でもいいよ。昨日の卵雑炊も老舗の料亭みたいな味したし」

「大袈裟だなぁ」


 そう言いつつ、口元が緩んでいるのは隠せていなかった。

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