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第7話︎︎ 他人のふり

 榎ノ電の車窓から、海が見えた。

 朝の光を受けた水面がきらきらと白く光っている。麻貴はそれをぼんやり眺めながら、手すりに寄りかかっていた。

 羽瀬ヶ崎から八ヶ浜までは一駅。乗っている時間は五分もない。普段ならその五分すら惜しんで寝ていたいのだが、今日はなぜかいつもより一本早い電車に乗れてしまった。これは快挙と言っていい。

 昨日、汐織が作ってくれた卵雑炊のおかげかもしれない。まともなものを食べると身体の調子が違う。ような気がした。


(……今日も、なんか作ってくれんのかな)


 ふとそんなことを考えている自分に気づいて、慌てて頭を振って否定する。


(いやいや。来るかどうかもわかんないから。来たい時に来ればいいって言っただけだから)


 自分で提案しておいて、期待するのは筋が違う。昨日の「毎日来てもいいってこと?」はたぶん確認であって、宣言ではなかったはずだ。たぶん。

 電車が八ヶ浜に着いた。ドアが開いて、潮の匂いが混じった朝の風が吹き込んでくる。

 考えるのをやめて、改札を出た。

 いつも通りに登校して、上履きに履き替えて。教室に入ったのは、始業十分前だった。いつもより五分早い。


「おっ、今日は早いな」


 隼太が机に頬杖をついたまま、こちらに片手を上げた。


「うるせえ」

「いや褒めてんだけど? お前が始業十分前に来るとか、明日は雪かもな」

「六月に日本で雪降ったらもうそれ終わってるだろ」


 いつもの軽口を交わしながら席に着く。鞄を机に放り投げて、椅子に沈み込んだ。

 教室の席はまだ半分くらいしか埋まっていない。窓際の席から朝の光が差し込んでいて、空気がまだ少し冷たかった。

 数分後、教室の引き戸がすっと開く。

 汐織が教室に入ってきた。

 もう既に学校に来ていたのか、鞄は持っていなかった。周囲の女子と「おはよ」と柔らかく挨拶を交わし、穏やかに微笑んでいる。男子の何人かが横目でちらちら見ているのも、いつもの光景だ。

 まさか昨日、うちの台所で卵雑炊を作っていたとは誰も思うまい。麻貴自身未だ信じられていなかった。

 汐織が自分の席に向かう途中、麻貴と目が合った。

 また会釈だけして終わるだろう。そう思っていたのだが──汐織の唇の端がほんのわずかに動いた。そして、目が少しだけ細くなる。笑った、と言うにはあまりに微かで、でも確実に麻貴に向けられた変化。他の誰にも気づかれないくらいの、小さな笑みだった。

 心臓が、大きく一回跳ねる。


「——!?」


 顔には出さなかった。いつも通り、軽く頷くだけ。でも、鼓動だけが妙にうるさかった。


「ん?」


 隣で、隼太がこちらを見ていた。


「なんか篠宮、お前のほう見てなかった?」

「は? 見てねーだろ。窓の外見てただけじゃねーの」

「ふーん……?」


 隼太はそれ以上追及しなかった。でも、口角が少しだけ上がっている。何かを嗅ぎ取ったのか、ただの冗談なのか。おそらく、前者だ。こいつの勘の良さは知っている。

 チャイムが鳴って、授業が始まった。

 一限目は現代文。教科書を開いて、教師の声を聞いているふりをする。

 昨日は、無意識に汐織のほうを見てしまっていた。目が勝手にそっちへ向かって、自分で気づいて舌打ちする、というパターン。

 でも、今日は違う。意識的に見ないようにしていた。

 だが、見ないようにすればするほど、おかしなことになった。汐織の声が、やけに耳に入るのだ。

 教師に当てられて答える声。柔らかくて、はっきりしていて、聞き取りやすい。いつもこんなに通る声だっただろうか。

 休み時間に入ると、さらにまずかった。女子のグループと話している汐織の笑い声が聞こえてくる。誰と何を話しているのかが、無駄に気になってしまった。

 見ないようにしているということは、その行為自体が、意識していることと同義だった。


(意識しすぎだろ。学校では他人。他人なんだから)


 そう言い聞かせても無駄だった。

 彼女と過ごす時間を知ってしまった今。知らなかった頃には、もう戻れない。


       *


 四限目が終わった。

 チャイムと同時に隼太が「購買行ってくるわ」と席を立ち、教室を出ていった。今日は弁当じゃないらしい。

 麻貴も昼飯にしようかと思った矢先、教壇のほうから声が飛んできた。


「箕島」


 担任の長田だ。案の定、左手はポケットに突っ込んだまま、もう片方の手で教科書を持ち上げている。


「俺の職員室のデスクの上にプリントが置いてあるんだが、悪いけどそれを図書室の司書の先生に持って行ってくれないか。俺、この後職員会議なんだ」

「えっ、俺ですか?」

「どうせ暇だろ?」


 暇だが、それはあんまりな理由ではないだろうか。


「いや、それなら俺じゃなくて──」

「頼んだぞ」


 全く聞いてない。仕事だけを押しつけ、長田は颯爽と教室を出ていった。教師の権力とは恐ろしいものだ。

 仕方なく、スマホを取り出して隼太にメッセージを送る。


【ちょっと用事。先に食ってていいぞ】


 送信してから、教室を出た。職員室に寄ってプリントを手にしてから、図書室へと向かう。

 本館から特別棟への渡り廊下を歩いて、その二階の奥。図書室は校舎の端にある。

 ドアを開けると、本の匂いがした。昼休みが始まってすぐの図書室は人がまばらで、窓から差し込む午後の光が、本棚の間に細い筋を作っていた。静かだ。ただ、妙に男子の割合が多い気がする。

 カウンターに目をやった瞬間、足が止まった。


(あっ……)


 カウンターの向こうで、腕章をつけた女子が返却本を棚に仕分けていた。見覚えのある黒髪が、動くたびにさらりと肩で揺れる。

 篠宮汐織だ。


(そういえば、図書委員だって言ってたっけ)


 すっかり忘れていた。まさか今日が当番だとは。

 カウンター周辺にはちらほらと男子生徒の姿があった。本を探しているふりをしながら、明らかにカウンターのほうをちらちら見ている。汐織目当てで図書室に来ているのだろうか。


(なんだこいつら。うぜー)


 無意識に、そちらへ向ける目が鋭くなっていたらしい。たまたま一人と視線がかち合った瞬間、相手が気まずそうに目を逸らして、本棚の陰に引っ込んでいった。つられるように他の連中もぱらぱらと散っていく。

 ……何だか、自分が追い払ったみたいになってしまった。別にそんなつもりはなかったのだが。

 そこで、はっとする。というか、何でイラついてるんだ。イラつく理由なんてないし、彼女が注目を集めるのなんて日常茶飯事なのに。


(でも、まあ……こうやってずっと誰かに見られてるのって、きっとすげーストレスなんだろうな)


 そんなことを考えてカウンターの方に向かうと、汐織が顔を上げた。

 麻貴に気づいて、一瞬目を丸くする。でも、すぐに図書委員の顔に切り替わった。


「あ、箕島くん。どうしたの?」

「これ、長田先生から司書の先生にって」


 事務的に、プリントの束を差し出した。いつも通り、教室での距離感のまま。確か、こんな感じの接し方だったはずだ。たぶん。学校ではろくに話したことなどなかったけれど。

 これで立ち去れば終わりだったはずなのに──唐突に、汐織がくすっと笑った。


「先生に雑用させられたんだ?」

「……まあ、暇そうに見えたらしい」


 予想外の笑顔に一瞬気後れしつつも、答える。

 一瞬だけ間を置いてしまったが、大丈夫。きっとバレてない。


「ご愁傷さま。先生に渡しておくね」


 彼女がプリントを受け取る際に、指先がかすかに触れた。

 心臓が、また少し跳ねる。


(だから。意識すんなって)


 用事は済んだ。もう後は帰るだけだ。

 なのに、足がすぐには動いてくれなかった。汐織もプリントを受け取った手をそのまま止めている。

 沈黙が数秒。すると──。


「……今日も、行っていい?」


 声を落として、汐織がおずおずと訊いてきた。それはほとんど囁きに近い。

 声の温度が、学校でのそれとは違っていた。昨日うちで話していた時と同じ声音だ。

 麻貴も声を低くした。


「いいよ。どうせ暇してるから」

「やったっ」


 汐織は小声で言って、周囲にバレない程度に小さくガッツポーズをした。拳を胸の前でぎゅっと握って、口元を綻ばせる。

 不意打ちだった。


(いや……可愛いから。反則だから、それ)


 なんと返そうか迷っていると、図書室の入り口から声が響いた。誰かが入ってきそうだ。

 そこで、ふたりともほぼ同時に距離を取った。汐織は何事もなかったようにプリントを棚に仕分け始め、麻貴も近くの本に視線を逸らして、適当に背表紙を眺める。

 入ってきたのは他クラスの男子生徒数人。ちらりと汐織を見てから、雑誌コーナーに向かっていった。セーフだ。


「じゃあ」

「うん。またね」


 彼女は目元だけで笑ってみせて。カウンターから少しだけ手をのぞかせ、小さく振った。

 麻貴は頷いてから、何食わぬ顔で図書室を出ていく。廊下に出て、ようやく手のひらが汗ばんでいることに気づいた。


(はぁ……何やってんだか)


 どこか胸の高鳴りを覚えながら、教室へと戻る。

 教室への道中、ずっと頭の片隅で彼女が自分の部屋で過ごしている姿を想像してしまっていた。


「あ、やっと戻ってきた」


 教室に入ると、隼太が手を上げた。机の上に購買のパンが並んでいる。


「戻ってこないかと思ったぜ。何してた?」

「悪い、長田にパシられて図書室までプリント届けさせられてた」

「図書室?」


 隼太が一瞬だけ、何かを思い出すような顔をした。


「そういや、今日の当番って篠宮じゃなかったっけ」


 心臓がもう一回跳ねた。こいつ、なぜそんなことを知っている。


「あー……そうだったかもな。てか何で知ってんだよ」

「いや、常識だから 」

「そんな常識初耳なんだけど」


 何でクラスメイトの委員会の日をいちいち覚えておくのが常識なのだ。自分の以外覚えていないだろう、普通。

 そこで、隼人がチッチッと舌を鳴らして人差し指を横に振った。


「合法的に篠宮と話すチャンスだからな。うちの高校の男子にとっては必須情報だ。連絡網で回ってくるぜ」


 それで男子がやたらと多かったのか、今日の図書室は。なんて迷惑な連絡網だ。


(可哀想に)


 どこまで汐織がそれらの視線を意識しているのかはわからないが、自分だったら不快で堪らないに違いない。


「そんで? なんか話した?」

「……プリント渡して、すぐ帰ってきただけだけど」

「ほーん?」


 隼太は目元を僅かに細めたが、それ以上は何も言わなかった。パンの包みを開けながら、さらっと流す。

 でも、その「ほーん」がやけに重い。こいつの中で、何かが確実に積み上がっている気がしてならなかった。


(……面倒なことにならなきゃいいけど)


 コンビニのおにぎりを齧りながら、麻貴はそっと息を吐いた。

 窓の外では六月の日差しが校庭に降り注いでいて、いつもと何も変わらない昼休みの光景が広がっている。

 何も変わらない。そのはずなのに、放課後が待ち遠しいと感じている自分がいた。

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