第6話 ルールはひとつ。
会話が一段落した頃、汐織がテーブルの上の器に手を伸ばした。
「さすがにそろそろ、片付けちゃうね」
今度は止めなかった。止めたところで無駄だと、二日で学習した。
汐織が器を重ねてシンクに持っていく。蛇口をひねると、水の音が台所に響いた。
麻貴はソファから立ち上がって、布巾を一枚引っ張り出し、汐織の隣に立つ。
「拭くよ」
「え? いいのに」
「片付けは俺がやるって言ったろ。洗うのは勝手にやってんだから、せめて拭くくらいはやらせてくれ」
汐織が少し驚いた顔をして、それから「うん」と何故か嬉しそうに小さく頷いた。
並んで、シンクの前に立つ。汐織が洗って、麻貴が拭いて、水切りかごに並べた。
その間無言だったが、気まずくはない。むしろ、何も喋らなくていい時間の心地よさみたいなものがあった。水の音と、食器が触れ合う小さな音だけが台所に響いている。スピーカーからのBGMはさっきの曲が終わって、また別の曲に変わっていた。
窓の外はもうすっかり暗くなっていて、台所の蛍光灯がふたりを白く照らしていた。
汐織がスポンジで小鍋の内側をくるくると洗う。水に濡れた指先。手首の細さ。そういう情報を無意識に拾ってしまっている自分に気づいて、麻貴は慌てて手元に戻す。
そして、洗い物がほぼ終わりかけた頃だった。
「……ねえ、箕島くん」
「ん?」
汐織が蛇口の水を止めた。
スポンジを持ったまま、少し迷うような顔をしている。何かを言おうとして、でもその言葉の形がまだ定まっていない。そんな表情だった。
「その……押しかけるみたいにお邪魔しておいて、こんなお願いするのもどうかと思うんだけど」
「うん」
「あんまり、訊かないでほしいの。どうして食べれてないのか、とか。……家のこと、とか」
声は穏やかだった。震えてはいない。でも、この言葉を口にするまでにずいぶん迷ったのだろうというのが、間の取り方から伝わってくる。
麻貴は布巾を持ったまま、しばらく黙った。
訊きたくないわけではない。昨日の「おいし」の切実さも、今日ここに来た理由も、さっきの「帰りたくない」も。気にならないと言えば嘘になる。何があったのか、本当は知りたい。
でも──さっき、「そっか」とだけ返した時の汐織の顔を思い出す。あの時、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。それは、麻貴が踏み込まなかったことからくる安堵だと思えた。
それに、麻貴自身にも覚えがある。踏み込まれたくない領域を持っている人間の気持ちは、わかるつもりだ。
「話したくねーもんを無理に訊く趣味はねーよ」
短く、でも迷いなく答えた。視線はシンクの水滴に落としたまま、一拍置いて続けた。
「話したくなったらそん時に聞くし、話したくなきゃ聞かない。それでいいだろ」
汐織がはっとしてこちらを見上げた。睫毛が濡れている。泣いてはいないけど……でも、何だか殆どその手前だった。
「……ありがとう」
声というより、吐息に近かった。それなのに、今日聞いたどの言葉よりも、はっきりと耳に残る。
ふたりとも、しばらく黙っていた。水切りかごの食器が、蛍光灯の下で静かに光る。
汐織が手を拭いて、少し間を置いてから口を開いた。
「でも……こうやって来ちゃうのは、やっぱり迷惑だよね」
それから、困ったように笑って。こう続けた。
「ごめん。今日で最後にするね」
いつもの、丁寧な笑顔。教室で見るいつものやつだった。さっきまで背もたれに体を預けてくすくす笑っていた汐織とは、別の顔。
麻貴はその笑顔を見てから、少し考えた。
数秒。いや、もう少し長かったかもしれない。
この子はきっと、こうやって自分から身を引くことに慣れているのではないだろうか。『迷惑じゃないか』と相手の顔色を窺って、先回りして自分から退く。
……なんだか、覚えのある行動原理だった。
頭の後ろを掻きながら、麻貴は言った。
「いや……別に、来てもいいけど」
「え?」
「見ての通り、俺の生活は終わってるからさ。飯は作れねーし、部屋も汚ねーしで。その……こんな部屋でいいなら、来てくれていいよ。そんで、たまに飯とか作ってくれるなら、それでチャラってことで」
最後に「食費はこっちが出すし」と付け加えた。
我ながら不器用な提案だった。『助けてやる』じゃなくて、『助けてもらう』形にしている。こうしないと遠慮して断ってしまうと思ったからだ。
汐織は目を見開いて、麻貴を見つめていた。
「それって……毎日来てもいいってこと?」
「毎日来るつもりなのかよ」
思わずツッコんでしまった。
毎日か。まあ、別に構わないと言えば構わないが、むしろ汐織側の方で問題が生じる気がしなくもない。
「ご、ごめん。そういうわけじゃなくて──」
「まあ、それでもいいけどさ」
麻貴はわざとらしく肩を竦めて、視線を逸らしながら続けた。
「来たい時に来て、台所も好きに使っていいから。自分が食いたいもん作って、好きに食えばいいんじゃねーの」
汐織の目が揺れた。何か言おうとして口が開いて、でも声にならなくて。結局、唇をきゅっと結んだだけだった。
「……でも、やっぱり迷惑だよ」
「迷惑なら言わねえだろ」
麻貴は前のめりで答えた。何となく、この子の性格ならそう言いそうな気がしていたからだ。
それからまた、少しの沈黙。
台所の小さな窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。藍色の空に、最後の橙がかすかに残っているだけだ。
汐織は手元のコップの水面を見つめて──それから、小さく頷いた。
「じゃあ……お邪魔しちゃおっかな。迷惑かけないようにするね」
「おう」
それだけのやりとりだった。
ただ「来ていい」と「お邪魔する」で成立した、不格好な約束。でも、何故か少しだけ、前に進んだ気がしなくもない。
それから少しだけ言葉を交わして、汐織は帰り支度を始めた。
鞄を持って、玄関へ。靴を丁寧に履いて、振り返る。
「じゃあ、また学校でね」
また学校で。
昨日も似たような言葉を聞いた。でも、あの時の『また』と今の『また』には、大きな違いがあるように思えた。
一瞬だけ、駅まで送っていこうかと思った。もう外は暗いし、女子ひとりで歩かせるのは──と考えかけて、やめた。そこまでする間柄でもない。
「おう。気をつけて帰れよ」
「うん」
汐織は嫣然と笑って、小さく手を振ってからドアを閉めた。
足音が階段を下りていく。とん、とん、と軽い音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
ひとりになった部屋は、静かだった。
スピーカーからはまだBGMが流れたままだ。さっきまで心地よかったカフェミュージックが、ひとりになると妙によそよそしく感じた。
ふと、台所に目をやる。シンクはぴかぴかに磨かれていて、水切りかごに食器が綺麗に並んでいる。テーブルの上以外にも、汐織が座っていたあたりは知らずのうちに整理がされていた。
玄関先に、彼女の甘い香りが、まだかすかに残っている。
(……なんで、引き留めたんだろうな)
善意だけなら「大変だな」で済んだはずだ。一回助けて、それで終わり。そして、普段の自分だったら、そうしていたはずだ。
でも──ふたりの関係は、終わらなかった。
彼女が小さな幸せを嚙み締めたような声が、まだ耳の奥に残っている。
ほどなくして、彼女の香りは消えた。
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