第5話 帰りたくない
食べ終わった器が、ローテーブルの上に残っていた。
湯気はもう立っていないが、出汁の匂いがまだ部屋に漂っている。スピーカーからはさっきからずっとカフェミュージックが流れていて、その音楽が沈黙をちょうどいい具合に埋めてくれていた。
汐織がすぐに立ち上がって、器に手を伸ばす。
「片付けちゃうね」
「座ってろって」
麻貴はそれを止めた。
「作ったの篠宮なんだから、片付けくらいは俺がやるよ」
「でも……」
「いいから。客に作らせた上に片付けまでさせてたら、俺の立場がないだろ」
そう言ったものの、正直なところ、すぐに洗い物をする気力はなかった。食後にすぐ動ける人間は尊敬に値する。自分には到底無理だ。
少し落ち着いた空気も相まって、器はテーブルに置きっぱなしのまま、ふたりともソファから動かなかった。
BGMが一曲終わって、次の曲に切り替わる。
沈黙が気まずいわけではなかった。でも、このまま黙っているのもどうにも落ち着かない。そもそもこれまで篠宮汐織と雑談した経験がないのだ。共通の話題がどこにあるのかすらわからなかった。
「そういえばさ。篠宮って、委員会とか入ってんの?」
結局、当たり障りのないところから攻めることにした。
「図書委員だよ。あんまり忙しくないけど……箕島くんは?」
「俺は何もやってない。上手いこと逃げた」
「わぁ……潔いいね」
汐織が呆れたようにくすっと笑った。
その笑みは、教室で見るものとは少し違っていた。口元だけじゃなくて、目のあたりも一緒に緩んでいる。
「委員会って強制じゃなかったっけ? 私、それで楽そうな図書委員を選んだけど……」
汐織は顎に指先を当て、小首を傾げた。
楽そう、ときたか。真面目な彼女のイメージからは結びつかない単語が出てきて、少し驚く。優等生も楽したいだとかそういう当たり前の感情は持っているらしい。まあ、人間なのだから、当たり前だけれど。性格的に、嫌なことでも何でも引き受けてしまいそうなイメージだ。
「ああ、うん。その委員会決めの時、俺確か欠席してたんだよな。それで、男子が余ってたから俺だけ委員会割り当てられなくなった」
「えー、いいなぁ。もしかして、わざと休んだ?」
「なわけ。たまたま風邪引いただけだっつの」
休んだ原因は、慣れない独り暮らしで昼夜逆転して体調を崩してしまっただけなのだけれど。
それを言うとまた色々言われそうなので、ここでは風邪ということにしておこう。
麻貴は話題を少しズラした。
「そういう篠宮こそ、楽そうっていう理由で図書委員選ぶとは思わなかったけどな」
「私だって、大変な係はやりたくないよ」
「いや、頼まれたら断れなさそうだと思って」
「それは、まあ……うん、そうかも。それもあるから、自分で先に選んだの」
そう言うと、汐織は苦い笑みを零した。
なるほど。ちゃんと自分の性格を加味した上で、予めそういった事態が起こらないように動いていたようだ。思ったより自己分析力があるらしい。
こうして話してみると、同じクラスなのにお互いのことをほとんど何も知らないのだと改めて思い知った。でも、それは何ら不自然ではない。もともと接点がなかったのだから、当然だ。
話はゆるゆるとクラスの話題に移っていった。担任の長田先生が板書する時に必ず左手をポケットに突っ込む癖があること。英語の三上先生の声が子守唄みたいで五限は危険であること。そろそろ体育祭の話が出始めているらしいこと。
そうして話しているうちに、汐織の座り方が変わっていることに気づいた。最初はソファの端っこにちょこんと背筋を伸ばして座っていたのが、いつの間にか背もたれに体重を預けてどこかリラックスしている。
こんな部屋で学校一の美少女が寛いでくれていると思うと、ほんの少し嬉しくなった。
「独り暮らしで勉強するのって、大変じゃない?」
汐織が床に積まれた参考書をちらりと見て訊いた。
「まあ……それなりに。でも、赤点は取らないようにはしてるよ。それが約束だからさ」
「約束?」
「あー、うん。まあ、独り暮らしする条件って感じ」
つい口を滑らせてしまった。ただ、言ってしまったのなら仕方ない。
麻貴は独り暮らしをするに至った理由を簡単に話した。その条件として挙げられたのが『成績を落とさないこと』と『生活が破綻しないこと』であることまで。
すると、汐織は部屋をぐるりと見渡して。
「これは……破綻してないって言っていいの?」
どこか呆れを含むような声音で、そう言った。
テーブルの上のコンビニ袋、椅子にかかったシャツ、床の参考書。その全てを見た上での発言だ。彼女が言いたいことは、よくわかる。
「言うな。親にバレたらアパートを解約されかねない」
「じゃあ、片付けもしなきゃね」
「……善処する」
「ほんとに?」
訝しむように、彼女が訊いてくる。
しっかりと答えた。
「ガチ」
「なんだか信用できないなぁ」
言って、汐織はどこか可笑しそうに笑った。
釣られて麻貴も笑って、小さな笑い声が部屋に満ちる。
大したことは話していない。ただのクラスメイト同士の、どうでもいい雑談だ。
それだけのことなのに、妙に居心地がよかった。
「そういえば、篠宮ってこのへんに住んでんの?」
会話の流れで、自然にその疑問が出た。昨日もアパートの近くにいたし、今日もわざわざここに来ている。普通に考えれば、ご近所さんと考えるのが妥当だ。
しかし、汐織は少し間を置いた。もう空になった器の縁を、スプーンでなぞるような仕草をしてから答えた。
「……ううん。私の家は、藤澤のほうだよ」
「藤澤?」
麻貴は首を傾げる。藤澤なら、学校の最寄り駅の八ヶ浜から榎ノ電で一本だ。乗り換えなしの一本で帰れる。わざわざ八ヶ浜から一駅の羽瀬ヶ崎で降りる意味がなかった。
つまり汐織は、学校から自分の家に帰るのではなく一駅分来て、ここにいるということだ。
「……何でわざわざ、こんなとこまで来てたの?」
口に出してから、突っ込みすぎたかとも思った。でも、言ってしまったのならもう遅い。
「えっと……」
汐織は答え難そうに、口を噤んだ。しばらく黙って、手元のコップの水面を見つめている。水面に映った蛍光灯の光が、わずかに揺れていた。
そして、ぽつりと漏らす。
「あんまり早く、家に帰りたくなくて」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「それで、学校が終わってから一駅分歩いて……このあたりを散歩してから帰ってたの。結構前からなんだけどね」
最後に付け足された「結構前から」という言葉からも、昨日今日に始まったことではないことを端的に示していた。ずっと、そうしてきたのだ。
あの坂道にいた理由が、ここでようやく繋がった。
その理由はひとつ。
家に『帰りたくない』だけだ。
独り暮らしの自分にとって、『家に帰る』は特に感情を伴わない行為だった。帰ればひとりで、誰もいなくて、それが普通。でも汐織は、家に誰かがいて、その上で帰りたくないという。
理由を訊けば答えてくれるかもしれない。でも、今の汐織の顔を見ると、おいそれと軽い気持ちで触れてよい話題でもないのは何となく伝わってきた。
「そっか。まあ、そういう時もあるよな」
結局、麻貴はそうとだけ言った。
汐織がほんの少しだけ、肩の力を抜いたのが見えた。
少し間があった。スピーカーからの曲がまたひとつ変わる。
汐織が自分から、空気を戻した。
「でも私、このあたりは結構好きなんだよ?」
声のトーンが、さっきより少し明るい。
「海が見えるし、古い感じの路地も雰囲気あっていいし……何だか、映画の中に迷い込んだみたいな気分になれちゃう」
「まあ……いいとこだよな、ここ」
「箕島くんもそう思う?」
「ああ。引っ越してきてまだ数ヶ月だけどさ。結構気に入ってる。選んだ理由は、学校から一駅ってだけなんだけど」
そこで、汐織がふっと笑った。
「何だか、箕島くんらしいね」
「どういう意味だよ」
「そのまま、かな?」
物言いたげに、部屋を見回す。何となく言いたいことはわかった。
「おいこら。絶対いい意味じゃないだろ」
「あ、自覚はあるんだ?」
汐織は悪戯っぽく笑って。小首を傾げてみせる。
こういう時の汐織は、教室で見せる雰囲気とはちょっと違う。控えめなくせにツボを押さえた切り返しをしてくるというか。人の懐にそっと入ってくるのが上手い。
窓の外では、空の色が藍色に変わりつつあった。夕方から夜への境目の、曖昧な時間。スピーカーからのボサノヴァが、その空気にちょうど合っていた。
お互いに深くは踏み込まない。でも、同じ街を好きだという事実だけを、今こうして共有している。
それが──思いのほか、悪くなかった。




