第4話 また、来ちゃった
学校が終わって、隼太とのだべりに付き合って時間を浪費してから、いつもの帰り道。
最寄り駅の羽瀬ヶ崎駅について、その帰りにコンビニに寄る。今日の夕飯はカップ麺にしよう。あと、おにぎりでも付けておくか。それで十分だ。
コンビニの袋を提げて、坂道を下った。
潮の匂いが混じった風が、昨日と同じように吹いていた。坂の途中──昨日、汐織がしゃがみ込んでいた場所を通り過ぎる。壁にはもちろん誰もいなかった。
(まあ、そりゃそうだよな)
学校でも、会釈ひとつ以上のやりとりはなかった。
汐織はいつも通りの篠宮汐織だったし、自分もいつも通りの箕島麻貴だった。それでいい。それが普通だ。
そういえば、汐織はこのあたりに住んでいるのだろうか?
ふと、そんなことを考えてしまう。
麻貴は今年の春休みからここ、榎ノ電沿いの羽瀬ヶ崎のアパートに引っ越してきた。地元自体は鎌蔵の方で、このあたりは観光地がいくつかある程度であまり詳しくない。ましてや、クラスの誰がこの近辺に住んでいるかなど、知りもしなかった。
(割と好きなんだけどな、このあたり)
景色を見回して、そんな感想を改めて抱く。
羽瀬ヶ崎は海に面した古風な町だ。繁華街などはなく、町並みも近代化を免れていて、昭和や昭和以前の文化をそのまま受け継いでいる。
榎島までいくと観光地でもあるのでかなり近代化しているが、ここや学校がある八ヶ浜なんかは、昔とさして変わらないそうだ。
道は細く、迷路のように入り組んでおり、ふとした気まぐれで路地に足を踏み入れると、思い描いていた場所とはまったく違う場所にたどり着くこともある。歴史を感じさせる旅館や時代を感じる屋敷が立ち並び、歩くだけでも十分に楽しめた。
まだこの場所に引っ越して数か月程度であるが、麻貴はこの町が結構気に入っていた。
(まあ、またいつか篠宮と話す機会があれば訊いてみても──)
などと考えながら、角を曲がった時である。
アパートの外階段が見えたかと思うと、麻貴の足はそこで止まっていた。
(は……?)
壁にもたれるようにして、誰かが立っていた。鞄を胸の前に抱えて、少し俯いている。
あの長く綺麗な黒髪は、ついさっき学校で見たばかりだ。
(えーっと? これは、どういう展開?)
何をしに来たのか。いや、それは何となくわかる。
わかるけど、わかりたくなかった。
「あっ……」
汐織のほうも、麻貴に気づいた。
目が合って、彼女の表情が揺れる。眉が下がっていて、謝る前からもう謝っているような顔だ。
先に口を開いたのは、汐織のほうだった。
「……ごめん。また、来ちゃった」
小さく、か細い声。
取り繕う声とも、学校で聞いていた声とも違う、今にも壊れてしまいそうな人の声だった。
(また、って……)
麻貴は思わず言葉を失ってしまった。
まさか、彼女の方から進んでここに来るなど、考えてもいなかったのだ。
でも、唇の色が薄い。昨日ほどではないにしろ、顔色はあまりよくなかった。昼に弁当を開いていたのを見たが、あれは本当に食べていたのだろうか。
それとも、あれ以外に食事を摂っていないとか?
(ど、どうしよう?)
もし誰かにこんな場面を見られでもしたら、とんでもない噂になる。面倒しかなかった。
頭では、そう考えてしまう。
けれど、口から出た言葉は違った。
「まあ……いいけどさ。飯は?」
理由を訊くんじゃなくて、飯を食ったかどうかを訊いていた。
多分それは、何となく理由を訊きにくい空気感があったからだと思う。理由を訊けないなら、共通項の話題を出すしかない。そして、麻貴と汐織の間にある話題は、ご飯をちゃんと食ってるかどうかくらいしかなかった。
「えっと……実は、あんまり」
汐織は気まずそうに目を伏せた。
昨日の「ちゃんと食べれてなくて」よりも、もう一段正直な声だった。
(はあ……やれやれ)
麻貴は短く息を吐いた。
それからコンビニの袋を持ち直して、アパートの階段を上がり始める。
「ほら、さっさと来いよ。来ないなら鍵閉めんぞ」
振り返らず、ぶっきらぼうに言った。でも、拒絶ではないことくらいは、たぶん伝わっている。こんな言い方しかできない性格なのだ。
背後で、汐織が小さく息を呑む気配がした。数秒の間があって──それから、とん、とんと軽い足音が階段を駆け上がってきた。
「……ありがとう」
背中にそんな声が届いた気がしたけれど、敢えて聞こえないふりをした。
二階に上がって自分の部屋──二〇三号室──に鍵を差し込み、ドアを開ける。もちろん、部屋は昨日と何も変わっていない。全く、だ。
(片付ける暇があったかっつーと、まあ、なかったな……)
昨日は汐織が帰ってからご飯を食べてだらだらしているうちに夜遅くになってしまい、すぐにシャワーを浴びて寝てしまった。食後のだらだら時間に掃除など、できるわけがない。
汐織は昨日と同じように靴を丁寧に揃えて、「お邪魔します」と小さく頭を下げた。少し、足取りが昨日より軽いように見えなくもない。
麻貴が何か飲み物でも出そうかと思った矢先──汐織は迷いなく台所に向かった。
「ねえ。冷蔵庫、ちょっと開けてみてもいい?」
「え? あ、ああ」
賞味期限が切れたやばいものは入ってなかったよなと頭の中で思い返しつつ、頷く。
冷蔵庫のドアを開けるや否や、彼女は固まっていた。
「何となくそうじゃないかって思ってたんだけど……箕島くん、本当にこれで生活できてるの?」
呆れたように訊いてくる。
「悪かったな。できてるよ」
言い返すが、弱い反論だった。
コンビニ頼りの人間は、冷蔵庫の中身が貧弱になりがちだ。ペットボトルのお茶とブラックコーヒーのパック、食パンの残りと卵、それから何かのタレ。冷凍庫には冷凍ご飯だけ入っている。汐織の声に呆れが滲むのも無理はなかった。
彼女は少し考え込んでから、こちらを振り返った。
「ご飯、作っていい?」
「作るって……それで?」
冷蔵庫の中身を指差す。この食材で何が作れるのか、麻貴には想像もつかなかった。
「卵はあるし、冷凍ご飯もあるでしょ? 調味料は……醤油とお塩と、あっ、かつお出汁もあるんだ。うん、これだけあれば大丈夫だよ」
冷蔵庫を覗き込みながら指折りに数えて答えた。何だかちょっと嬉しそうに見えなくもない。
この限られた食材にどんな希望を見出したというのだろうか。
「まあ……もう、好きにしてくれ」
反論するのもどうかと思い、成り行きに任せることにした。
「じゃあ、好きに作っちゃう」
どこか楽しげに汐織は言って、袖をまくった。
まず、冷凍ご飯をレンジに入れて、片手で卵を割りほぐす。小鍋に水を張って火にかけ、かつおだしを入れた。
そんな光景を眺めていて、やはりと確信する。昨日コップを洗った時と同じ──いや、それ以上に、無駄がない。迷いがなくて、でも急いでいるわけでもなくて……それでいて、少し生き生きとしているように見えた。
料理をしている彼女は、学校で見るどの顔とも違っていた。集中しているのに、緊張していない。好きでやっているのが、こうして見ているだけで伝わってくる。
そうしているうちに、小鍋が沸いてきた。汐織がほぐしたご飯を入れると、醤油を少し回しかけ、溶き卵をふわりと流し入れる。蓋をして、火を弱めた。
出汁の匂いが台所に広がっていく。あたたかくて、やわらかい匂いだった。コンビニ弁当やカップ麺ばかり食べていた麻貴からすれば、暫く縁のないような匂い。
「はい。できたよ」
汐織が小鍋の蓋を開けた。湯気がふわっと立ち上がる。卵がふんわりと半熟で、出汁の色が綺麗だった。
散らかっていたローテーブルを汐織が「片付けちゃうね?」とさっと整理して、ふたり分の器を並べていく。自分の家なのに、何故か借りてきた猫のように座っているしかなかった。
それから、ソファに横並びで座る。ローテーブルを挟んだ先で、消したままのテレビが二人を映していた。
(な、なんなんだこの状況は)
目の前には手作りの卵雑炊。しかもそれは、学校一の美少女と言われている篠宮汐織が作ったもので、その汐織と肩を並べて自分んちのソファに座っている。状況に理解が追いつかなかった。
「お口に合えばいいんだけど……」
汐織が不安そうに言った。
ただ、お皿は麻貴の分だけしかなくて、汐織の前には飲み物があるだけだった。
「俺だけ? 篠宮のは?」
「え? 私はいいよ。食材を勝手に使わせてもらっただけだし」
「でも、作ったのは篠宮だろ?」
「それは、そうだけど」
そこで、汐織はどこか悩ましげに眉を顰めた。
何故この段階になって遠慮をしているのだろうか。
遠慮と押しの強さのバランスがさっぱりわからない。
「ったく……」
麻貴は台所まで行って小鍋を覗き込むと、まだもう一食分くらいはあった。もうひとつのお皿に盛り付けて、スプーンと一緒にテーブルに置いてやる。
「一緒に食おうぜ」
「いいの?」
きょとんとして、彼女が訊いてくる。
「いいも悪いもねーだろ。俺ひとりで食うのもなんか嫌なんだって」
自分としても下手な言い方だなと思ったが、本音でもあった。それに、また腹を空かせて倒れられても困る。
そんな麻貴の意図を感じ取ったのだろう。汐織も柔らかく目を細めた。
「じゃあ……私も頂いちゃおうかな」
「おう。頂き女子しとけ」
「なあに、それ。日本語ちょっと変だよ?」
わざと偉そうに言ってやると、可笑しそうに彼女も笑ってくれた。
それからふたりで一緒に手を合わせ、麻貴の部屋で食前の儀式。
「「いただきます」」
ふたりの声が、合わさった。
正直、状況としては相変わらず意味がわからない。もう気持ちとしてはどうにでもなれだ。
麻貴はスプーンで雑炊をすくって、口に運んだ。
「……えっ。うっま」
思わず声が出た。
出汁の旨味が口に広がって、卵がとろりと絡んで、ご飯がやさしい。素朴だけど、確かに「誰かが作った」味がする。
「めちゃくちゃ美味いんだけど。篠宮って、もしかしてプロのシェフ?」
「こんなの誰でも作れるよ。大袈裟だなぁ」
汐織は呆れたように言いつつも、口元がほころんでいた。嬉しいのを抑えきれていない様子だ。
「でも……よかった」
ぽつりとそう漏らして、汐織も自分の分を食べ始めた。ふーふーとスプーンに乗せた雑炊に息を吹きかける仕草が、妙に色っぽい。その唇に嫌でも視線を奪われてしまった。
そして、はふっと一口。もぐもぐと咀嚼する姿は、昨日の総菜パンの時のそれとは違っていた。あの時はおそるおそるだったけれど、今日は少しだけ落ち着いて食べている。
そして、独り言みたいに、昨日と同じ言葉が零れた。
「……おいし」
どこか幸せそうだった。この子は食べることが嫌なわけではない。ただ──そこに対する拒絶みたいなものが、何かしらあるのだ。
ただ、もちろん……そんなことなど、訊けるはずがなかった。




