第3話 学校での距離
アラームが鳴っている。
枕元のスマホが振動と電子音を繰り返しているのを、麻貴は布団の中でぼんやりと聞いていた。手を伸ばして、何とか止める。そのまま、もう一度瞼を閉じた。五分だけ。あと五分だけ。
しかし──一瞬の時を経て、二度目のアラームが鳴った。
今度こそと思いながらも、身体がベッドに張り付いて動かない。初夏の朝はすでに明るくて、カーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。
三度目のアラームで、ようやく布団から這い出した。
(……あっつ)
寝起きの頭でぼんやりと部屋を見回す。
うんざりとした光景だった。
コンビニの袋がテーブルの上に積まれ、椅子の背もたれには脱ぎっぱなしのシャツ。床に散らばった参考書と、飲みかけのペットボトル。昨日から何も変わっていない、いつも通りの風景だ。
……いや、ひとつだけ違うものがあった。
シンクの横の水切りかご。そこにだけ、コップと小皿がきちんと並んでいる。散らかった部屋の中で、そこだけが妙に整然としていた。昨日、汐織が洗ってくれたやつだ。
『ここ……何か落ち着くかも』
昨日の彼女が漏らした声が、意図せず脳裏で勝手に蘇ってくる。
麻貴は、頭をぶんと振った。
(はぁぁ……何やってんだか。柄にもないことしてんじゃねーよ)
思い出しただけで恥ずかしくなってくる。
たまたま目の前で倒れかけてたから助けただけ。それ以上でも以下でもない。汐織だって「大丈夫」と言ってたし、帰り際にはちゃんと自分の足で歩いていた。
今日学校に行けば、いつも通りの篠宮汐織がいて、自分のことなんか目にも留めない。昨日のことは昨日のこと。それで終わりだ。
自分にそう言い聞かせて、のそのそと台所に向かった。
冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水とコーヒー。賞味期限が怪しい食パンが二枚と、卵。あとは何かのタレの瓶が奥のほうに転がっているだけ。冷凍庫にはご飯もあるが、温めるのは面倒だ。
食パンを一枚、トーストもせずにそのまま齧りながら支度を始めた。味わう気もなく、口の中でもそもそと食パンを噛みながら、制服に着替える。ワイシャツのボタンを留め、ズボンのベルトを締める。
親の転勤が決まったのは、二年に上がる少し前のことだ。父の仕事の都合で、家族が遠方に移ることになった。
無論、親からは一緒に引っ越して転校するように言われたが、麻貴は進路と学校のことを理由に、地元に残ることを選んだ。親が渋ったのを押し切ったのは、他でもない麻貴自身だ。
結局何日かのやり取りを経て、親が折れてくれた。
条件はふたつ。『成績を落とさないこと』と『生活が破綻しないこと』だ。
週に一度くらい、母親から電話が来る。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
そこでは毎回同じやりとりが繰り返される。もちろん、嘘は言っていなかった。食べてはいる。ただ、その内訳がコンビニ飯と冷凍食品であることは、わざわざ報告していないだけだ。
自由を手に入れた。はずだった。
なのに、その自由で何をしていいのかがわからない。気づけば部屋は散らかり、食事は適当で、寝る時間もバラバラもともと片づけは得意ではなかったが、管理する人間がいなければ、こうも崩れるとは。ただ、あまり親に依存していなかったのか、独り暮らしを始めてから、不便だとも寂しいとも感じたことがなかった。
食パンを噛んだまま、ふと手が止まる。
『……おいし』
昨日の汐織の声が、不意に蘇った。百数十円の総菜パンを食べて、あんな顔をしていた。同じ「食べる」なのに、あいつと自分ではずいぶん違う。
(……考えすぎかな)
食パンの残りを口に押し込んで、水で流し込む。鞄を掴んで、玄関に向かった。
靴を履いて、ふと気付く。昨日、汐織のローファーが並んでいた場所に、ぽっかりと空間だけが残っていた。
それを見ないふりをして、ドアを開けた。
*
教室に入ったのは、始業五分前だった。
独り暮らしで遅刻しないというのはひとつの偉業だと思う。少なくとも麻貴はそう信じていた。誰も褒めてくれないので自分で自分を褒めるしかないのだが。
(はあああ……しんど。腹減ったー)
窓際の後ろから二番目のいつもの席に鞄を置いて、椅子に沈み込む。
「よー、麻貴。今日もギリギリだな」
隣の席から声がかかった。八木隼太。麻貴の数少ない友人で、クラスの潤滑油みたいな男だ。人当たりがよくて、誰とでもそつなく付き合える。
二年になってから仲良くなったのだが、どうしてかこいつはいつも麻貴に絡みたがるのだ。
「ギリギリじゃねーよ。五分前だ」
「五分前はギリギリっつーんだよ普通」
「ンなことねーって。価値観の押し付けだろ、それは」
言い返しつつ、麻貴は小さく溜め息を吐いた。
隼太は朝から元気だ。こちらは眠いというのに。
「あ、そうそう。昨日バイト帰りに新しくオープンしたラーメン屋見つけたんだけどさ。結構美味そうだったから今日行かね?」
「まあ、気が向いたらな」
「……お前のその『気が向いたら』が実現したことってあったか?」
「いやいや、行くって。気が向いたら。これはガチ」
「どうだか」
彼はやれやれと肩を竦めた。大袈裟なリアクションだが、こいつはこういう奴だ。麻貴が曖昧に逃げることをわかった上で、それでも懲りずに誘ってくる。面倒見がいいのか、単に鈍いのか。たぶん、その両方なのだろう。
そこで、教室の引き戸が開く音がした。
視界の端で、長い黒髪が揺れる。
汐織だった。
背筋が伸びていて、制服がきちんとしていて、黒髪がさらさらと肩に流れている。昨日、坂道で蹲っていた姿が嘘みたいだった。朝の教室に、ふわりと空気を一枚連れてくるような子。
「おはよう、汐織」
「おはよー」
周囲の女子に笑顔で挨拶を返す汐織。穏やかで、丁寧で、柔らかい。男子が何人か横目でちらちら見ているのも、いつもの光景だ。
汐織が自分の席に向かう途中で──ほんの一瞬、麻貴と目が合った。
どうしようかと思うと……汐織はにこっと微笑んでから、小さく会釈した。
その笑顔にどきっとするが、でも、彼女なら誰にでもこれくらいのことはしそうだ。昨日のことなど、ほとんど何もなかったも同然。
麻貴は軽く頭を下げ返して、そのまま視線を窓の外に逸らした。
(……だよな)
ほっとしたような、少しだけ引っかかるような。でもこれが正解だ。昨日は昨日、今日は今日。もともと関わることのない人種だ。お互いに、それでいい。
授業が始まった。
英語の長文読解。教科書を開いて、教師の声を聞き流しながら──麻貴は、ふと視線が廊下側の前方に向かっていることに気づいた。
汐織の席だ。少し離れているが、ノートを取る横顔がよく見える。姿勢がよくて、シャーペンの持ち方も綺麗だった。
成績優秀な彼女ならもう全部わかっているであろうことを、真面目に板書していた。
別に、見たくて見ているわけではない。ただ、目が勝手にそっちへ行くだけだ。顔色は大丈夫だとか、ちゃんと朝飯は食べてるのだとか。そんなことが、妙に気になってしまった。
(……関係ねーだろ、もう)
内心で舌打ちして、視線を教科書に戻した。英語の長文が一行も頭に入ってこない。
そうして午前の授業が終わり、昼休みを迎えた。
隼太と並んで、教室の隅で昼飯を食べる。隼太は母親が作った弁当で、中身は彩り豊かな定番のおかずが詰まっていた。麻貴はコンビニ弁当と追加で買ったおにぎりがふたつ。飲み物は紙パックのお茶だ。
「お前さー、毎日コンビニ飯で身体壊さねーの?」
隼太が弁当の卵焼きを箸でつまみながら言った。
あまり独り暮らしをしていることは言っていないが、隼太にだけは言ってある。
特に隠すつもりもなかったが、何となく話の流れで言ってしまったのだ。
「壊れたらそん時考えるよ」
「おいおい。そのうちマジで倒れるぞ」
「……倒れる、か」
その言葉に、一瞬だけ昨日の記憶が過った。
坂道で蹲っていた、彼女のつらそうな横顔。
もしかして、栄養だとかそういった理由で体調を崩しているのだろうか。
麻貴は言った。
「大丈夫だっつの」
「大丈夫じゃねーだろどう見ても。弁当におにぎり二個て。せめて野菜食えよ、サラダとか」
「野菜が食いたくなったときはちゃんとコンビニでサラダ買ってるよ」
「それコンビニの域を出てねーんだよなぁ……」
隼太はため息交じりに箸を動かしながら、ふと教室の前方に目を向けた。
「そういえばさ。篠宮、最近なんかちょっと元気なくね?」
心臓が、一回だけ跳ねた。
「……そうなん? 知らねーけど」
「いやなんか、最近ちょっとぼーっとしてるっていうか。先生から呼ばれても反応ちょっと遅れてただろ? クラスの男連中も、ちらほらそれ言ってたんだよな」
隼太は大して深い意味もなさそうに言ったが、その観察眼の鋭さに内心ひやりとした。こいつは軽そうに見えて、妙なところで勘がいい。
もしうちに来てるなんてことを少しでも出せば、簡単に答えまで辿り着いてしまいそうだ。
「まあ、俺みてーな下々の人間には関係ないだろ。あの子がどうとかは」
もちろん、嘘だ。午前中、少なくとも五回は視線を送ってしまっている。教師から呼ばれて反応が遅れていたのも、しっかりと見ていた。自分でも気持ちが悪いくらいだ。
「相変わらずだなー。あんな可愛い子と一緒のクラスになれるなんて、これ以上ないくらいツイてるのに」
「相手にされなきゃ意味ないって」
「なるほど。麻貴は抱けない女に興味はないタイプ、と」
「拡大解釈はやめろ」
ツッコミを入れると、隼太は楽しそうにげらげら笑っていた。幸い、汐織の話はそこで終わって、それ以上の追及はなかった。おにぎりをかじりながら、ほっと密かに安堵する。
ちらりと教室の前方を見ると、汐織は女子のグループに囲まれて昼食を取っていた。弁当箱を開いて、箸を動かしている。ちゃんと食べている──ようには見えた。少なくとも、昨日の坂道のようなことにはなっていない。
(ちゃんと食べれるなら、いいか)
それだけ確認して、麻貴はおにぎりの二つ目に手を伸ばした。




