第2話 連れ込んでしまった……。
ドアを開けた瞬間、麻貴は固まった。
めちゃくちゃ散らかっている。
コンビニの袋がテーブルの上に放置されていて、脱ぎっぱなしの服が椅子にかかっていた。シンクには洗い物が溜まっていて、参考書が床に積まれている。人を招く想定がゼロの部屋。というか、この部屋に人を入れたことが一度もなかった。
「あっ、やべ……」
思わず声が出た。今から片付けるか? いや、無理だ。どう見ても間に合わない。
後ろで汐織が一瞬目を丸くしていたが、特に何も言わなかった。靴を丁寧に揃えて、「お邪魔します」と小さく頭を下げて入ってくる。
……なんだろう、この差は。脱ぎっぱなしの靴の横に、きっちり揃えられた汐織のローファー。あまりにも性格に差がありすぎた。
「悪い、散らかってて」
「ううん。……男の子の部屋ってこんな感じなんだなぁ、って」
汐織はどこか楽しそうに、部屋を見回していた。
全男の子の名誉のために、決してこんな感じがデフォルトなわけではないとだけ言っておきたい。ただ麻貴が生活力ゼロのダメ人間なだけである。
麻貴はとりあえず飲み物でも出そうと思ってシンクに向かったが……コップが一つ残らずシンクの中に溜まっていた。もちろん、全部洗っていない。
「……ちょっと待ってくれ」
慌ててスポンジを手に取ろうとした、その時。
「私がやるよ」
汐織がそっと、シンクの前に立った。
「いや、客にやらせんのはさすがに……」
「せめて、これくらいはさせてよ」
言うより前に、彼女はスポンジを手に取って食器を洗い始めた。
とても慣れている手付きだ。スポンジの使い方、水の流し方、コップの持ち方。手際がよくて、自然で、迷いがない。
「……料理とか、するほうなの?」
何気なく訊いた。
「うん。料理は好きかな……作るのは、だけど」
作るのは——その言い回しの微妙な含みに、麻貴は引っかかった。その言い方だと、『食べるのは好きじゃない』という風にならないだろうか。
ただ、そこで突っ込むのもどうかと思い、敢えて何も訊かなかった。
コップを洗い終えると、汐織は水を注いで麻貴に差し出した。もう何度もこの台所に立ったことがあるみたいな、そんな手つきだ。
小さな台所の窓から、夕日が差し込んでいる。汐織の横顔が橙色に染まっていた。
学校で見る汐織とは、どこか違う。肩の力が少しだけ抜けているように見えた。さっきまで張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んでいるような。
汐織はペットボトルを手にソファの隅っこにちょこんと座ると、小さく息をついた。
そして──。
「ここ……何か落ち着くかも」
口にしてから、汐織の指がペットボトルの縁で止まった。
「あ、ごめん。また変なこと言っちゃった」
すぐに取り消そうとする。何だかこんな場面を今日だけで何度も見た気がするのだが、気のせいだろうか。
麻貴はシンクに寄りかかったまま、答えた。
「別に、変じゃねーだろ」
汐織はその言葉に、少しだけ目を見開いた。それから、ほんの少しだけ目尻を下げる。
何だか照れ臭くなって「こんな汚い部屋で落ち着くってやっぱ変だわ」と言ってやろうかと思ったが、そんな部屋で暮らしているのはお前だろう、とブーメランの如く自分に返っきて、結局口を噤むしかなかった。
沈黙が流れかけたので、麻貴はスマホでスピーカーにBluetoothを繋ぎ、適当に音楽をかけた。雰囲気が良さげなカフェミュージックっぽいものを適当に選曲する。
「それにしても……独り暮らしとは思わなかったなぁ」
沈黙が気まずかったのか、汐織が部屋を見回しながら言った。
「……悪い。先に言うべきだったよな」
これは完全にこちらのミスだった。
どうせ断られると思った手前、説明を省いたのだけれど……うちに親がいると思って来たなら、彼女からすれば半分詐欺みたいなものだ。
しかし、汐織は首を横に振った。
「ううん、いいよ。ちょっとびっくりしたけど……心配してくれてたのは、わかってるから」
何故か、信用されているらしい。
麻貴に害がないからよかったものの、少し警戒心が薄いのではないだろうか。
そうは思うものの、何だか少しこそばゆくなってしまう。男というのは、実に単純だ。
「いつから独り暮らしなの?」
「二年になってから。まあ……色々事情があってさ。仕方なく」
「そうなんだ」
彼女はそこで少し間を置いて、それからぽそりと呟いた。
「いいなぁ……」
きっと、本人が意図して口にした言葉ではなかったのだろう。独り言みたいな声だった。
(まあ、気楽ではあるけどな)
親の監視がない生活は、楽そのもの。ストレスレスには違いない。その結果がこの部屋の惨状なので、気楽さと快適さは同居していないのだが。
そのまま、知らない曲が二つ、三つと流れた。
窓の外の夕日はほとんど沈みかけていて、部屋の中が橙色から薄い藍色に変わり始めている。
汐織は立ち上がってシンクまで行ったかと思えば、コップを洗い始めた。自分が使ったものだけでなく、シンクに残っていた他の洗い物も片付けて、それぞれ水切りかごに並べていく。使う前より、明らかに綺麗になっていた。
「いや、別にそんなことまでしなくても」
「癖みたいなものだから、気にしないで。それに、どうせ今日も洗わなかったでしょ?」
彼女はちらりとテーブルの上に置かれた今日の麻貴の夕飯──コンビニ弁当──を見て、悪戯っぽく言った。
もちろん、ぐうの音も出ない。無理やり話題を変えた。
「……てか、立って平気なのかよ」
「うん、もう大丈夫。本当にありがとう。あんまり長居しても悪いし、そろそろ帰るね?」
そのまま鞄を手に取り、玄関へ向かう。足取りはさっきよりしっかりしていた。
靴を履きながら、汐織が振り返った。
「箕島くん。あのね、お願いがあるんだけど……」
「うん?」
「今日のこと、学校では内緒にしてほしいの。倒れかけたこととか、お家に上がったこととか」
声は穏やかだった。笑顔の形をしているのに、でも目だけが真剣で。「お願い」以上のものがそこにはあった。
「言わねーよ。誰に言うんだよ」
素っ気なく返す。でも、その言葉に嘘はなかった。
実際、篠宮汐織を家に連れ込んだなんて言った日には、誰に何を言われるかわかったものではない。言ったところで、大変な目に遭うのは麻貴のほうだ。
「そっか」
汐織はほっとしたように笑った。今度の笑顔は、教室で見るいつものやつとは少し違う。ほんの少しだけぎこちなくて、でもその分、さっきよりずっといい。
「……じゃあ、また学校でね」
「ああ。気をつけてな」
「うん。ありがとう」
そのままドアが閉まって、足音が遠ざかっていく。
玄関に突っ立ったまま、麻貴はしばらく動けなかった。
この部屋には普段ない、甘くていい香りがふわりと室内に残っている。
匂いに導かれるように、ふと台所に目をやった。
さっきまで汐織がいた場所。洗われた食器が、水切りかごの中にきれいに並んでいる。
散らかった部屋の中で、そこだけが不自然に整っていて。どうしてもそこに、彼女の存在を感じてしまう。
(何で、わざわざここまでしてるんだろうな、俺は)
麻貴は頭の後ろを掻いて、小さく息を吐いた。
心配なら、声を掛けるだけで終わればよかった。
パンをあげたところだけで、帰しても十分だったはずだ。それなのに、どうして……?
(なんて、な)
そんなの、自問するまでもない。
──守りたい。
麻貴は蹲る彼女を見て、何故かそう思ってしまったのだ。困っている彼女を『助けてあげたい』、『守りたい』と。柄にもない感情を、抱いてしまった。それがすべてだ。
ほとんど喋ったこともないクラスメイトに対して、そんな感情を抱くのはどうかしている。筋が通らないのもわかっていた。
でも、理屈以外のところで一度そう思ってしまったら……それはもう、自分の力ではどうしようもなかった。




