第17話 悪友の嗅覚
次の日の昼休み。汐織からのLIMEを確認してから、図書室に向かう。
こうしてお昼を渡してもらうのは、今日で三回目だ。昨日と同じように、本館から特別棟への渡り廊下を歩いて、図書室の奥の本棚付近で合流する。動線は確立していて、迷いももはやなかった。
図書室に入ると、汐織が奥の棚の前にいた。本を整理しているふりをしながら、入口をちらちら気にしている。
麻貴に気づくと、ぱっと表情が明るくなった。
「はい、どうぞ」
奥の棚の方までいくと、汐織は巾着袋を差し出した。いつもの水色の花柄の、もはや麻貴専用のものになりつつある巾着袋。だが、昨日と違って、明らかに中身が重くなっていた。
麻貴の表情から察したのか、彼女が声を少し弾ませる。
「今日はね、おかかと昆布。あっ、明太子もあるよ?」
「三つも!? ありがてぇ」
「夕飯の食べっぷり見てると、もしかしてお昼ちょっと少なかったのかなって思って。男の子の食べる量ってわからないから……多かったかな?」
少し恥ずかしそうに、汐織が言った。
夕飯でのがっつき具合を見て、昼が足りてないと思ったらしい。実際、二個だと午後の授業で腹が鳴りかけることがあった。そんなところまで見ていたのか、この子は。
「いやいや、全然多くないよ。むしろ助かる」
「ほんと? よかったぁ。多かったり少なかったりしたら、遠慮なく言ってね?」
「多くても少なくても有り難く頂戴するって……」
手作りの昼食をもらえるだけで感謝しかない。文句を言える立場ではないし、言う気もなかった。
少し話してから、ふたりで図書室を出る。
いつもなら別々のタイミングで出るのが暗黙の了解だった。汐織が先に出て、麻貴は数分空けてから出る。あるいはその逆。誰かに一緒にいるところを見られないように。
だが、今日は話が弾んでしまった。テスト範囲のことや、今日の夕飯のメニューのこと。気づいた時には、ふたり並んで図書室のドアを出ていた。
廊下に出たところで、麻貴は訊いた。
「あ、今日も来る?」
「そのつもりだったけど……迷惑だった?」
汐織がこちらを振り返り、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
慌てて否定する。
「違う違う。昨日伝え忘れてたんだけど、今週掃除当番だからさ。ちょいゆっくりめでいいかも」
「そっか。じゃあ、少し時間潰してから行くね」
汐織が笑顔を見せて、小さく手を振った。それから、小走りで廊下の向こうへ去っていく。長い黒髪がふわりと揺れて──廊下の角を曲がる前にこちらを振り返り、もう一度小さく手を振ってくれた。
手を振り返しつつ、思う。
(なんだろうな、この幸福感……)
学校中の男子が憧れる篠宮汐織が、自分のためにおにぎりを作って、放課後にはうちに来てくれる。こんな日常を送れている自分は、この先の人生でこれ以上の幸福を味わえるのだろうか?
などと感傷に浸っている時だった。背後から、聞き覚えのある声が響く。
「ほぉ〜。なるほどなるほど」
芝居がかった口調。この声は──間違いない。
「まさかそういう展開になっていたとはなぁ。さすがの俺様もこれにはおったまげたぜ」
慌てて振り返ると、廊下の柱の影から八木隼太がにやにや笑いながら姿を現した。
「うげ……」
完全に、油断していた。図書室の前で見送るんじゃなかった。
汐織と一緒に出てきたところを、しっかり見られてしまったのだ。巾着袋を受け取る場面まで見えていたかは不明だが、昨日の流れがあれば、隼太の勘の良さならあの状況だけで全部察するのは造作ないだろう。
「さてさて、麻貴くんよ。詳しく聞かせてもらおうじゃないか」
隼太の目が、妖しく光る。完全に楽しんでいた。
逃げ場はなさそうだ。
*
教室には戻れない。かといって廊下で話すわけにもいかないので、麻貴は隼太に連行される形で非常階段に向かった。かつて汐織に呼び出された、あの場所だ。
コンクリートの踊り場に、潮風が吹き抜ける。校庭の端と、その向こうに海が見えた。
「で? どういうことだよ」
隼太が手すりにもたれながら、にやにや顔のまま促してくる。
麻貴は観念した。ここまで見られた以上、誤魔化すのは不可能だ。ただし──汐織の事情は、一切言うつもりはなかった。
何をどこまで話すか。それだけが問題だった。汐織の家庭の事情には触れられないし、麻貴自身もほとんど詳細はわからない。結局、台所を貸していて夕飯を作ってもらっていること、それが先週から続いていることだけを伝えた。
「はあああ!? 篠宮汐織が毎日お前んちに行ってるだと!?」
「ば、バカ! 声がでけぇ! てか毎日じゃねーし!」
慌てて階下を見るが、誰もいなかった。
ほっと息をつく。聞かれていたら即死だ。
「改めて確認するが……お前って今、独り暮らしなんだよな?」
「まあ……」
訝しむように訊いてくる隼太に、麻貴は視線を逸らしつつ曖昧に頷く。
「ってことは貴様……全男子憧れの篠宮汐織ちゃんに、あんなことやこんなことを!?」
「してねー! するか!」
「でも、チューくらいはしたんだろ?」
「してねーよ。マジでそういう関係じゃないから」
浜辺のことが一瞬頭を過ったが、全力で押し込めた。
あれはチューではない。断じて。距離が近くなっただけだ。
しかし、隼太はどこか怪しむようにこちらを流し目で見ていた。
「ふぅん……にしても、あの篠宮汐織がお前んちに入り浸り、ねえ。それでいて付き合ってもない、と」
「言い方」
「でも、あの子相当ガード固いって話だぜ? 男子で仲いい奴とか多分いないし」
隼太が少しだけ真面目な声になった。
それは麻貴も感じていた。汐織は男子から人気だが、浮いた話は一切出ていない。だからこそ、高嶺の花として思われているだのだろうが。
「お前んちに何があるわけ? なんかあの子のやりたいゲームとか?」
「なわけ。理由は……俺の口からは言えないんだけど」
「何かしら事情があるってことか」
「そう解釈してくれると有り難い」
それ以外に返しようがない。
隼太は怪訝そうな顔をしていたが、こちらの返答が変わらなかったからか、それ以上追及はしてこなかった。
その代わりに、隼太がふっと柔らかく笑う。さっきまでの茶化しモードとは全く違う、穏やかな笑みだ。手すりにもたれたまま、海のほうを見ていた。
「なんだよ」
何だか見透かされたような笑い方だったので、思わず不満げに訊いてしまった。
隼太は「いんや」と首を横に振る。
「人とは一定の距離保ってる奴だと思ってたんだけど、やることやってんなぁと」
「だから言い方。しかもなんもやってないから。マジで」
「まあまあ、冗談だよ。前からさ、ちょっと心配だったんだよな。お前ってちょっと人と距離置きすぎなところあったし。逆にちょっと安心したまであるわ」
「……ほっとけ」
思ってもいなかった言葉に、胸がちくりとした。
気付かれないようにしていたつもりだったが、隼太にはすっかり見抜かれていたらしい。
実際、彼の言葉は的を射ていた。壁を立てている自覚もある。中学の時に、信じた相手にひどい目に遭ったからだ。あれで、もう人付き合いには懲りた。
もちろん、隼太はその経緯を知らない。でも、外側からずっと見ていて、気づいていたのだろう。
そこで彼はさっと表情を切り替えて、現実的な話に入った。
「でもさー。このままだと絶対俺以外の奴にもバレるぜ?」
「え、マジ?」
「マジマジ。今朝の目の逸らし合いとか、図書室のタイミングとか。俺は前から見てたから余計にわかるけど、勘のいい奴なら気づくんじゃないかな」
背筋が冷えた。まさか朝の一瞬のやり取りまで見られていたとは。あの反応だけでも、隼太にはバレバレだったということだ。恥ずかしいにもほどがある。
「俺はまあいいけどさ。篠宮のこと狙ってる奴多いし、他の男子にその関係がバレたら面倒だろ」
「だよなぁ……」
実際、それはずっと頭の隅にあった。だからこそ駅まで送ることも、学校で話すことも避けてきた。
だが、関係が深まるにつれて、それを隠すのが難しくなっている。おにぎりの受け渡しだって毎日のことだ。いつかはボロが出るに違いない。
「あ、そうだ」
そこで、隼太が何かを閃いたようにぱちんと指を鳴らした。
「いっそ一緒にメシ食っちまえばいいんじゃん。そしたら弁当渡してても不自然じゃないし」
「一緒にって……それこそ目立つだろ」
「そりゃお前と篠宮がふたりで食ってればな。でも、グループでなら別におかしくなくね?」
「グループ?」
思ってもみなかった角度だった。確かに、ふたりでいるから目立つのであって、人数が増えれば個々のやりとりは埋もれる。その理屈は、わからなくもなかった。
「そ。男女グループになっちまえば、問題ない。グループの中でおにぎり配るのは自然だし、ふたりの距離感もグループの中に紛れて目立たなくなる」
「そんなこと言っても、俺仲いい女子なんて他にいねーし」
「そこで俺様の出番ってわけだ」
ちっちっちっ、と人差し指を振って隼太は舌を鳴らす。
その仕草には嫌な予感しかしなかった。
「お前……何するつもりだよ」
「はっはっはっ。まあ、それは今度のお楽しみだな。悪いようにはしねーよ」
そう言って、隼太はポケットからスマホを取り出した。画面を開いて、何やらぽちぽちと打ち始める。LIMEか何かでメッセージを送っているようだ。
誰に送っているのかは、見えなかった。不安しかない。
だが、隼太の言うことにも一理あった。このまま隠し続けるのは限界に近い。女子側からも、いつか誰かにバレる可能性が高かった。それが面倒な相手だった場合、困るのは汐織だ。
それなら、味方を増やしたほうがいい。ただ──隼太が今スマホで連絡を取っている相手が誰なのか。それによって、事態は大きく変わる。
隼太を横目で盗み見ると、目が合った。隼太はにっと笑ってみせる。
悪い顔だったが、どこか頼もしくもあった。こいつは確かに鬱陶しい奴ではあるが、根が悪い奴ではない。面倒見がよくて、鈍そうに見えて鋭い面もあった。ただ、行動力が妙に高いのが怖い。
非常階段の踊り場から、校庭の向こうに海が見えた。数日前の夜、同じ海を汐織と並んで眺めていた。あの時はふたりきりだった。
これからは──少しずつ、変わっていくのかもしれない。
(まあ……任せてみるか)
そう思って、麻貴は非常階段の手すりにもたれた。




