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第16話 おかえり

 午後の授業が続いて、帰りのショートホームルームだった。

 担任の長田が教壇に立って、プリントをひらひらとさせた。いつもの通り、左手はポケットに突っ込んだままだ。


「はーい、静かに。来週の金曜から、一学期の期末テストだ。範囲表は今から配るから、計画的にやれよ」


 その言葉に、教室にざわつきが走った。


「うわ、きたぁ」

「もう期末かよ」

「やってらんねー」


 嘆き声がちらほら上がる。

 期末テストの時期は前からわかっていたはずだけれど、範囲表がない限り、その実感は湧かないものだ。こうして宣告されることで、ようやくテストが近づいてきたことを実感させられる。

 麻貴は内心緊張しながら、回ってきた範囲表に目を通した。期末テストなので、主要科目以外の科目も並んでいる。量はそれなりだ。


(はぁ……赤点だけは取れないからな)


 麻貴にとっての定期考査は、ただ成績表や内申点として加味される試験ではない。ここでの成績が、独り暮らし存続か或いは転校かという自身の進路にも大きく関わってくるのだ。

 万が一赤点なんか取ってしまえば、汐織が逃げ込む場所がなくなるどころか、そもそも論として、彼女との関わりさえなくなってしまう。

 そこまで考えて、はっとした。


(あ、そっか。勉強しなきゃいけないのは、篠宮も同じだよな)


 汐織は学年でも上位の成績優秀者なので、彼女にとってもそれは同じだろう。テスト前は当然勉強するだろうし、多分これまでそうしてきているはずだ。それに、あくまでもこれは麻貴の勝手な推測だが、親が少々口うるさい感じがしなくもない。テスト期間中は「家で勉強しなさい」と親に言われる可能性も大いにあった。

 つまり──このテスト期間、彼女は麻貴の部屋に来ないかもしれない。


(どうするんだろ……)


 ショートホームルームが終わって各々帰宅の準備を始めた時、ちらりと汐織の方を盗み見る。

 彼女は友人と一緒に範囲表を覗き込んでいた。

 隣にいるのは、相沢沙子(あいざわいさこ)。ショートボブに凛々しい顔立ちが印象的な、背の高い女子だ。外見だけでなく振る舞いがスマートなことから〝王子〟と呼ばれていて、汐織とは特に仲がいいらしい。〝王子〟と汐織が並ぶとかなり絵になるので、百合発展を望む声も多いそうだ。

 その〝王子〟こと沙子が汐織に何か話しかけていた。距離からして内容は聞こえないが、汐織が少し照れたように笑っている。沙子の視線が一瞬こちらを向いた──気がした。いや、気のせいか。たぶん。


「おーい、麻貴ぃ」


 隼人が自分の席から、やや声を張って麻貴を呼んだ。


「あん? ンだようるせーな」

「ちょっとここの範囲、問題集だとどこまでなのか教えてくれん? よくわからん」

「はあ? 何で範囲表もらってわかんねーんだよ」


 どうせ授業中に寝ていたか内職をしていて聞いていなかったのだろう。大きく溜め息を吐いてから、麻貴は隼人の席に向かった。

 席に向かう途中のことだった。汐織たちの席の横切った際、予期せぬ形でふたりの会話の断片が耳に流れてくる。


「やっぱり汐織、最近なんか楽しそうだね」


 そう訊いたのは、沙子だった。声量こそ小さいのに、彼女のやや低めな声は妙に通る。


「え? ……そう、かな?」


 汐織は困ったように笑って、小首を傾げた。

 ちょっとだけ気まずそうな雰囲気を、感じなくもない。


「うん。前はもうちょっと、こう……肩に力入ってたっていうか。最近はそれがちょっと緩んで、素がでてる感じがする。何かいいことでもあった?」

「えっと……」


 汐織がそこで、ちらっとこちらを見た。

 一瞬だけ目が合って……すぐに慌てて逸らされる。この展開、今日だけでもう何度目だろうか。慣れてきてしまった。

 汐織は少し間を置いて、答えた。


「別に、何もないよ? いつも通りかな」

「そう? ならいいけど。自分のことって、案外自分が一番気づかないっていうしね」


 からかうような沙子の声が、微かに聞こえた。

 汐織も何か言い返していたようだが、教室のざわめきにさらわれて、そこまでは聞き取れない。


(楽しそう、か)


 隼人にテスト範囲を教えてやりつつ、沙子の言葉がふと脳裏を過った。

 汐織が変わり始めていることに、自分以外の人間も気づき始めている。それは本来、嬉しいことのはずだ。彼女が楽しそうにしていて、素を出せている。間違いなく、いいことだ。

 それなのに、少しだけ胸がざわついた。ふたりだけの秘密だったものが、外から見える形になっている。それが、ほんの少しだけ面白くなかった。

 汐織の変化は、麻貴の部屋で──あの台所で、ふたりきりの時間を経て起きたものなのだから。


(自分のことは自分が一番気づかない、か)


 沙子のそれは、汐織に向けられた言葉だ。だが、どういうわけか麻貴にも刺さってしまう。自分自身の感情に、まだ名前をつけられていないからだろうか。

 手のひらに残った感触と逸らし合った視線、それから触れた指先に走った熱。

 それが何なのか、本当はもう薄々わかっている。ただ認めるのが、怖いだけだ。


       *


 掃除当番を終えてから、急いでアパートに帰った。

 汐織のほうが先に学校を出ていたので、もう待っているかもしれない。急ぎ足で坂を上り、アパートの外階段が見えると──。

 やっぱり、汐織が階段の下に立っていた。

 鞄を胸に抱えて、少しだけ俯いている。その長い黒髪が、風に揺れていた。


「あっ、箕島くん」


 麻貴に気づいて、彼女が顔を上げる。

 目が合ったが──学校でのような「逸らし」は、もう起きなかった。

 代わりに、汐織がいつもの笑顔でふわりと笑ってみせる。そこにはほんの少し照れが混じっていて、学校で見るどの表情よりも柔らかかった。


「……おかえり」


 予期せぬ言葉が飛んできて、足と思考がぴたりと止まった。


(なんだって? おかえり?)


 とんでもいことを言われてしまった気がする。

 これまでの「お邪魔します」でも「来ちゃった」でも「ごめんね」でもなく、おかえり。

 なんだろう。それではまるで──。

 汐織自身も、言ってから気づいたらしい。はっとして、口元を手で押さえた。


「ご、ごめん! なんか、つい……」


 顔が、みるみるうちに赤くなっていく。目が泳いで、言い訳を探すように視線があちこちに飛んでいた。


「い、今のは、その、癖っていうか……家族に言うみたいに、つい出ちゃっただけだからッ」


 慌てれば慌てるほど墓穴を掘っている気がするが、本人はそれに気づいていない。

 麻貴は自らを落ち着けるためにも、少し間を置いた。一度深呼吸をしてから……さも自然に。言い訳を何も聞かなかったように。


「ただいま」


 自分でも驚くほど、自然に言えた。

 汐織の目がわずかに潤んで──それから、くしゃっと笑った。恥ずかしそうで、嬉しそうで、それでいて安心したような。その全部が混ざったような笑顔だった。


「えへへ……変なこと言っちゃった」

「別に変じゃないだろ。ここは俺の家なわけだし」


 それは間違いなく、本心だった。家族みたい、とか同棲してるみたい、とかそういうことも考えてしまうけれど、そこを指摘するとまた気まずくなりそうなので、何とか控える。

 階段を上がって、部屋のドアを開けた。綺麗になったままの室内に、ふたりで入る。汐織がいつものように靴を揃えて上がり、エプロンをつけて台所に向かった。

 そういった光景に、麻貴自身が何も違和感を抱かなくなっている。この数日間で、もうこの部屋に彼女がいることを、どこか当たり前だと思っていた。

 でも──昨日までと同じ空間のはずなのに、あの『おかえり』『ただいま』のふた言だけで、何かが変わってしまった気がしてならない。

 そこで、麻貴の鞄からはみ出していた期末テストの範囲表に、汐織が気づいた。


「……テスト、早いよね。この前中間試験やったばかりなのに」

「それな。来週金曜からだよなぁ。マジで鬱だわ」

「箕島くん、大丈夫? 勉強」

「赤点取ったら最悪転校しなくちゃいけなくなるからなー。やるしかないだろ」

「そう、だよね……」


 汐織の表情が少し曇った。口が開きかけて、閉じる。その沈黙の意味が、麻貴にはわからなかった。

 そのまま、彼女は台所に向かっていった。

 麻貴はテスト範囲表を机の上に置いて、ソファに座る。台所から水の音が聞こえてきた。


(テスト期間……どうなるんだろうな)


 この放課後の時間が、当たり前じゃなくなるかもしれない。

 おにぎりは毎日作ってくれると約束してくれた。でも、放課後の時間は? 一緒に夕飯を食べる時間は?

 さっき汐織が何かを呑み込んだのは、そのことだったのだろうか。

 台所からは包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえている。汐織が鼻歌を歌っているのが、微かに混じっていた。何の曲かはわからないが、機嫌がいいらしい。

 窓の外では六月の夕日が傾き始めていて、綺麗になったフローリングに橙色の光が、静かに落ちていた。

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