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第15話 疑惑の目

 月曜日の朝、麻貴はいつもより早い電車に乗っていた。

 生活リズムの改善は定着しつつある。ただし、今朝に限っては『早起きできた』のではなく『気持ちが逸っていた』というほうが正確だった。

 昨日は一日中、土曜日のことが頭を巡っていた。

 汐織が作ってくれた鶏もも肉の作り置きを温めて、炊きたてのご飯で食べた。もちろん、味は申し分ない。でも、食べている間もずっと、あの浜辺の数秒間が再生され続けていた。

 流木に躓いた汐織を支えた、刹那の出来事。ほとんど鼻が触れそうなくらいに汐織が近くにいて。暗い浜辺の中で、彼女の青みがかった瞳だけが煌めいていた。波の音が遠くなって、心臓の音だけが大きくなって──。

 その光景を思い出して、鼓動が跳ねる。

 美しい、と思ってしまったのだ。守りたい、ずっと近くにいてほしい、とも。

 汐織が可愛くて美人なことくらい、ずっと前から知っていた。でも、ここまで自分の中で制御できない感情が芽生えてしまうなど、全く想像もしていなかった。

 それを誤魔化すためにテスト勉強なんかもしてみたが、集中などできるはずがない。参考書を開いても五分と持たず、意識があの浜辺に引き戻された。冷蔵庫を開ければ汐織の作り置きが並んでいるし、綺麗になった部屋のどこにいても彼女の気配がした。

 成績条件を思い出すたびに焦るのに、参考書のページは一向に進んでくれない。結局、日曜日は何の成果もないまま終わった。

 車窓から朝の海が見える。白く光る水面は、土曜の夜に見た黒い海とは別物だ。あの暗い浜辺が嘘みたいに思える。

 でも、手のひらの感触だけは、よく覚えていた。華奢な腕の感触と、あの細さ。それから、彼女のあたたかさも。


(……普通にしろ。普通に)


 自分に言い聞かせながら、電車を降りた。

 学校に向かって歩く。いつもの坂。校門が見えても、気分は変わらなかった。 

 教室に向かっている途、緊張してしまうのは何故だろうか。


「よーっす。今日も早いじゃん」


 始業十分前に教室に入ると、隼太がいつもの席から声をかけてきた。

 麻貴はどこか気まずい気持ちを持ちながら、返した。


「……まあな」

「ん? どうした? なんかぼーっとしてね?」

「寝不足なだけだよ。気にすんな」


 嘘ではない。ただ、寝不足の原因は言えなかった。「夜の浜辺で汐織と密着して、それが忘れられなくて眠れませんでした」なんて言ったら、隼太に何を言われるのか、想像もつかなかった。むしろ晒しあげられて、クラスの男子全員から磔の刑にされてしまうかもしれない。

 そんなことを考えながら、自分の席に座った。ふと窓の外に目をやると、六月の朝の光が海へと降り注いでいる。いつもと何も変わらない月曜日の光景だった。

 何も変わらない。はずなのだが。

 それから間もなくして、教室の引き戸がすっと開いた。

 汐織が入ってきた。

 制服も髪型も、いつもと同じ。彼女がいるだけで教室にエフェクトが掛かったみたいにキラキラするし、どことなく教室も明るくなったような気がしてくるのも同じだった。

 彼女もいつも通り、クラスの女子に「おはよー」と笑いかけて、穏やかに席に向かう。

 ……だが、麻貴にはわかってしまった。

 笑顔が、ほんの少しだけ不自然だ。いつもの汐織じゃない気がした。何だか、自分の動作をひとつひとつ確認しながら歩いている、そんなふうに見えなくもない。

 汐織が席に向かう途中で、麻貴と目が合った。

 これまでなら、汐織は小さく微笑むか、会釈してくれた。図書室の時は秘密の笑みを向けてくれたこともあるし、授業中に教室で目が合ってどきりとしたこともある。

 でも、今日は──目が合うや否や、ふたりとも同時に視線を逸らした。

 それはもう条件反射のようで。考えるより先に、目が泳いでいた。今目が合ったら、土曜の夜のことを思い出して全部顔に出てしまい兼ねなかった。

 汐織も、もしかすると同じなのかもしれない。頬と耳をほんの少し赤くして、俯いてしまっていた。

 麻貴は窓の外を見るふりをして、鼓動を抑えた。落ち着け。何でもない。土曜のことなんか、何もなかった。実際、何もなかったはずだ。

 しかし、そう思えば思うほど、「何か」があったことを自分で認めてしまう気がした。


「……?」


 隣で、隼太がこちらを見ていた。

 何も言わず、ただ首を傾げてから目を細めただけだ。

 そんなことがあったせいか、午前中の授業は上の空だった。

 英語の長文読解をしているはずなのに、一行も頭に入らない。視線が汐織のほうに向かいそうになるたびに、力づくで教科書に戻した。その繰り返し。教科書のページを開いたまま一時間が経過していたりもした。

 教室の空気は何も変わっていない。隼太はいつも通り軽口を叩いているし、クラスメイトたちもいつも通り。変わったのは、たぶん麻貴と汐織の間だけだ。

 ふとした拍子に汐織の横顔が視界の端に入る。ノートを取る手つき、シャーペンを持つ指先、頬にかかる髪──以前から何度も見ていたはずのものが、ひとつひとつ妙にくっきり映る。あの夜を境に、解像度が上がったみたいだ。

 三限目の途中で、汐織が消しゴムを落とした。腰を屈めて拾い上げる、ただそれだけの動作がやけに目に留まった。前からこんなに気になっていただろうか。気にしていたのかもしれないが、ここまでではなかった。確実に。

 そして迎えた四限目前の休み時間。スマホを確認すると、LIMEの通知が入っていた。汐織からだった


【篠宮汐織:昼休み、図書室まで来れる?】


 おにぎりのスタンプが添えられている。

 何で図書室?と思ったが、もしかするとそちらの方が人目につかないと判断したのかもしれない。汐織は図書委員なので、当番でなくても図書室には行く口実があった。非常階段にふたりが向かっている不自然なシーンを目撃されるよりも、まだリスクが低い。

 ただし、前回は一回限りの差し入れだった。今回は、土曜の夜の浜辺で約束した「継続」の初日。毎回こんなことをしていて、ずっと誰にもバレないなどというのは可能なのだろうか。


【了解】


 返信を打ってから立ち上がると、早速隼太が声を掛けてきた。


「どこ行くん?」

「あー……ちょっとそのへんまでふらっと」

「飯は?」


 不自然な言い訳に、隼太が片方の眉を上げた。本来なら購買に行くという言い訳をするのか正しいのだが、購買のパンを持っていなければ余計に不自然になってしまう。すぐに嘘が思い浮かばなかった。


「まあ、すぐ戻ってくるよ」

「ふーん……?」


 もうこういったやり取りも四回目になる。反応は毎回ほとんど同じはずなのに、妙に据わりが悪かった。

 もしかして、何かしらもう気づいてないか? そんな不安を感じつつ、麻貴は教室を出た。

 本館から特別棟への渡り廊下を歩いて、図書室のドアを開ける。本の匂い。昼休みが始まった直後で、人はまばらだ。窓から午後の光が差し込んで、本棚の間に細い筋を作っている。前に来た時のように男子が群がっていることもなく、閲覧席にぱらぱらと数人がいるだけだった。

 本棚の奥付近に、汐織がいた。本の返却処理をしている風を装っているが、ちらちらと入口を気にしているのが見てわかる。

 麻貴に気づいて、少しだけ目が泳がせた。それからすぐに取り繕って、巾着袋をさっとこちらに差し出す。薄い水色の布に小さな花柄。あの夜の約束が、こうして形になっていた。


「え、えっと……おにぎり、作ってきました」


 何故か敬語になっていた。どこか恥ずかしそうだ。


「あ、ありがとう」


 麻貴も声が小さい。ただ、図書室だからこそ、それも許される気がした。声が図書室の静けさに吸い込まれていく。

 汐織がそれを誤魔化すように、冗談っぽく訊いてきた。


「あっ。コンビニでお昼、買ってないよね?」

「か、買ってねーって」


 巾着袋を受け取ろうと手を伸ばした時──指先が触れた。

 ぴくっ、とふたりとも反応する。ほんの一瞬のことだ。指先と指先が触れた、ただそれだけ。土曜の夜がなければ何とも思わなかっただろう。でも今は──触れた場所から心臓まで、熱が駆け抜けた。


「……今日は鮭と昆布。あとタッパーにきんぴら入れてあるから、よかったら食べて」

「お、おう。サンキュ」


 ふたりとも、明らかにぎこちなかった。前におにぎりを受け取った時はもう少し自然に話せていたのに。

 汐織が照れ隠しのように髪を耳にかけて、小さく笑った。


「じゃ、じゃあ……私、もう行くね? 友達、待たせちゃってるから」

「あ、待った」


 汐織が一歩踏み出しかけたところで、麻貴は呼び止めていた。


「ん?」

「篠宮は……ちゃんと、食えてる?」


 踏み込みすぎではない、ぎりぎりのラインで訊いた。詮索はしない。でも、気にかけていることは伝えたかった。

 汐織は目を丸くして──それから、嬉しそうにはにかんだ。


「うん……お陰様で」


 そう言って、どこか軽い足取りで図書室を出ていった。

 その一言で十分だ。

 少しだけ時間を空けて、麻貴も図書室を出る。巾着袋を持って教室に戻った。

 教室に戻ると、隼太が麻貴の席の横に座っていた。背中の方に巾着を隠し、自席に戻る。


「おかえりー。早かったな」

「まあ、ぶらぶらしてただけだから」

「ぶらぶら、ねえ?」

 

 訝しむ隼太を無視して、麻貴はさりげなく鞄の中に巾着を入れた。巾着の中のおにぎりだけを取り出していく。ラップに包まれたおにぎりだけを、机の上に並べた。


「なあ麻貴」

「なんだよ」

「それも親の作り置き?」


 先週使った嘘を、ピンポイントで突いてきた。


「あ、ああ」

「お前の親、先週も来て、今週も来たの? 仕事の都合で遠方に行ったんじゃなかったっけ?」


 背中に冷や汗が伝った。

 そうだ。先週の嘘と独り暮らしの事情の辻褄が、合っていない。

 こいつの前で辻褄が合わないことを言ったのは、まずかった。

 とはいえ、先週も今週も、イレギュラー続きなのだ。そんなにぽんぽん言い訳が出てくるわけがない。結局、こう返すしかなかった。


「……色々あるんだよ」

「色々、ねえ?」


 隼太は追及を止めた。おにぎりをかじる麻貴を横目で見ながら、自分のパンの袋を開ける。

 沈黙が数秒。教室のざわめきが、その隙間を埋めている。

 それから、隼太がさらっと言った。


「まあ、なんかあるなら、俺にはいつでも相談してくれていいからな」


 予想外に、軽い口調だった。購買のパンを齧りながら、何でもないみたいに言っている。

 その響きには、どこか覚えがあった。なんだと思い返してみれば、あの台所で汐織に言ったのと同じだ。


(もしかして、バレてる?)


 本当は全部わかった上で、こいつは麻貴の方から話すのを待っているのかもしれない。或いは、確証が持てないから黙っているだけの可能性もあるが。

 でも、今はまだ話せない。どちらかというと、今回の一件は汐織の事情である側面が大きかった。麻貴が開示していいものではない。


(んー……どうすっかなぁ)


 心の中でぼやきつつ、おにぎりを噛んだ。薄い塩味と焼鮭のほぐし身。汐織の作ったおにぎりは、相変わらず美味かった。

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