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第14話 夜の海と、止まった時間

 食器を洗って、水切りかごに並べる。いつの間にか、こうして分担するのが当たり前になっていた。

 ただ、今日は少しだけ違う。綺麗になった部屋で、綺麗なシンクで、並んで食器を洗っていた。同じ作業なのに、空間が変わるだけで妙に新鮮だった。

 洗い物を終えて、汐織が手を拭いた。


「じゃあ……そろそろ帰ろうかな」

「そっか。まあ、いい時間だもんな」


 もう少しゆっくりしていけばいいのにと思う反面、あまり遅くなると、また親に何か言われてしまうのかもしれない。

 彼女は頷きトートバッグを肩に掛けると、玄関に向かった。靴を丁寧に履いて、振り返る。


「じゃあ、また学校──」

「駅まで送ってくよ」


 汐織の言葉を遮り、麻貴は言った。

 自分でも驚くほど自然に出ていた。

 これまでも何度も頭に過った言葉。彼女が帰る度に「送ろうか」と言いかけて、その度に飲み込んだ。そこまでする間柄じゃない、送ったところで誰かに見られたら彼女の迷惑になる。そんな風に言い訳をして、自分を止めていた。

 でも、今日一日を振り返れば、さすがにそんな言い訳はもうできなかった。

 休日にわざわざ来てくれて、五時間も掃除をしてくれて、夕飯を作って、明日の分の作り置きまでしてくれた。そこまでしてくれる相手に『そういう間柄じゃない』は、もう通らない。


「……うん。ありがとう」


 汐織が少し目を見開いて、それからゆっくりと目を細めた。照れくさそうだけど、嬉しそうだ。

 靴を履いて、ふたりでアパートを出た。

 さっきの夕焼け空とは違い、もう空は暗かった。街灯がぽつぽつと道を照らしていて、虫の声が聞こえる。六月の夜風は少し湿っていて、潮の匂いが微かに混じっていた。


「明日一日で部屋を元通りにするのだけはやめてね?」


 汐織が隣を歩きながら、どこか責めるように言った。本気で心配してそうな言い方だ。


「俺を何だと思ってるんだ。さすがにああまでしてもらったら、保てるように頑張るよ」

「ほんとかなぁ」


 疑い深そうに、彼女は横目で麻貴を見た。

 まあ、あの部屋を見られている以上、言い返せない。確かに善処するだの何だのと言ったのはこれで三回目だ。ただし今回は『善処』ではなく『頑張る』と言い換えている。微妙にグレードは上がっていると思うのだが。


「俺、さすがに信用なさすぎない?」

「信用は、普段の行動から生まれるものだから」

「そのとーり……」


 ふたりで軽口を叩きながら坂を下りて、駅に向かう。

 夜の羽瀬ヶ崎は静かだった。昼間でさえ人通りの少ない町だが、夜になるとさらに人気がない。古い家並みの間を抜けて、踏切の方へ歩いていった。

 羽瀬ヶ崎駅が見えてくる。普段のこの時間帯は人がほとんどいない無人駅なのだが──今日はやけに人が溜まっていた。ホームの上にも、駅の入口付近にも、数人の人影がある。


「なんだ?」

「……? どうしたんだろ?」


 駅に近づくと、待っている人たちの会話が断片的に聞こえてきた。車両故障、運転見合わせ、いつ動くかわからない……そういった内容のものだ。

 麻貴はスマホを取り出し、榎ノ電の運行情報を確認した。聞こえた通りの情報が表示されている。


「あー。まじかぁ。車両故障で、電車止まってるっぽい」

「わ、ほんとだ」


 汐織も自身のスマホ画面を見ていた。榎ノ電は単線区間があるローカル線なので、どこかで一本止まると上下線とも影響を受ける。土曜の夜に、なんて厄介な。


「どうする? 動くまでうちにいてもいいけど……あ、それとも榎島まで歩く? そこまで送ってくよ」


 榎島までいけば、別の路線に乗って藤澤まで一本でいける。この時間になるとバスも少なく歩いていくことになるのだが……歩きだと少し距離があるのがネックだ。


「うーん……榎島まで付き添ってもらうのは悪いよ」


 汐織がスマホとにらめっこしていると、画面に新しい通知が入った。


「あっ。動き出したって」

「お、マジ?」


 運行再開の通知だったようだ。ただし──ホームの方を見ると、人だかりができている。この時間の榎ノ電は二両編成だ。止まっていた間に人が溜まっているし、他の駅でも同じ状況だろう。すぐには乗れそうになかった。


「二、三本は見送らないと厳しそうだな」

「だねー……」


 汐織は困った顔をしていたが──ふと、何かを思いついたように、ぱっと顔を上げた。


「じゃあさ。一緒に海行って、時間潰そ?」

「海ぃ? 何でまた」


 全く想定外の提案だ。そこで時間を潰すという発想にも至らなかった。


「だって、すぐそこじゃない? 浜辺からなら電車も見えるし、二本くらいやり過ごしてから戻ればちょうどいいかなって」


 汐織は防波堤の方を指差し、どこか喜色を含んだ声音で言った。

 確かに、駅から浜辺は目と鼻の先だ。踏切を渡って国道を越えて、防波堤の階段を降りればすぐ。坂を上ってアパートに戻るよりも合理的ではある。


「……じゃあ、行くか」

「うんっ」


 嬉しそうに頷く汐織に連れられて、ふたりで浜辺に向かった。


       *


 防波堤の階段を降りると、砂の感触が靴越しに伝わった。


「わぁ……結構暗いね」

「浜辺に街灯なんてないからな」


 国道を走る車のヘッドライトが時折筋を引く程度で、足元はかなり暗い。遠くに灯台のぼんやりとした明かりが見えて、海の向こうには榎島の街の灯りがぽつぽつとある。浜辺沿いの遠い街明かりが、水面にちらちらと映っていた。

 昼間のきらきらした海とは別物だ。黒い水面がどこまでも続いていて、波の音だけがざあ、ざあと繰り返している。


「にしても、何で海なわけ? うちの学校通ってたら別に珍しくもないだろ」


 学校からも海は見えるし、通学の電車でも海の景色は日常的に目に入る。榎ノ電沿いに暮らしていると嫌でも毎日見るものだし、今更何の物珍しさもなかった。


「そうでもないよ? この時間に浜辺に降りたことなんてなかったし……ちょっと新鮮かも」


 目を細めて海を見やり、汐織は言った。


「そういうもんか?」

「そういうもんだよ」


 ふたりで海のほうに歩いていく。波打ち際まではいかないが、水の音がより近くなった。潮風が吹いて、汐織の長い髪を揺らす。


「夜の海って、ちょっと怖くない? なんだか、このまま連れ去られちゃいそう」


 汐織がぽつりと呟いた。


「まあ……わからんでもないな」


 今目の前に海は、昼間の明るいものとは質がまるで違う。綺麗とかそういう話ではなく、底が知れない感じがあった。


「それなのに、波の音を聞いてると落ち着くし、涼しくて気持ちいいし……不思議だよね」


 汐織が深呼吸をして、大きく伸びをした。潮の匂いを含んだ夜風が、ふたりの間を通り抜けていく。

 怖いのに気持ちいい。その感想には、不思議と同感だった。暗くて、広くて、足元が不安定で。でも、波の音だけは一定のリズムで繰り返されていて、それが妙に落ち着く。

 しばらく無言で並んで海を眺めていた。

 波の音と、遠くの車のエンジン音。

 不思議といえば、麻貴からすれば、篠宮汐織という女の子そのものが一番不思議だった。ただ台所を貸しているだけなのに、休日返上で掃除をしてくれて、夕飯を作って、明日の分まで作り置いてくれる。毎日のように来て、当たり前みたいに隣にいて、笑っていて。

 そして、彼女と一緒にいるうちに、少しずつ自分も変わっていた。朝起きられるようになって、米を炊くようになって、掃除を頑張ると約束して。自分ひとりでは動かなかった歯車が、彼女がいるだけで回り始めている。摩訶不思議にも程があった。


「……ねえ」


 汐織が、小さな声で言った。


「毎日のように来ちゃってるけど……やっぱり、迷惑じゃない?」


 おずおずと、申し訳なさそうに訊いてくる。

 以前、あの台所で『迷惑じゃ』と言いかけた時と同じ種類の声だった。あの時麻貴は『迷惑なら言わねえだろ』と返した。今の麻貴はというと──。


「迷惑なら、とっくに追い返してるよ」


 もう少し強い言葉で、以前よりもはっきりと言った。もう今更そんな問い掛けをしてほしくない、という意図も込めて。

 汐織はくすっと笑みを零した。


「……箕島くんって、やっぱり優しいね」

「うるさいな。台所好きに使わせる代わりに、俺はそのおこぼれを貰うってだけの約束だろ? これのどこが優しいんだよ」


 あの日の契約を持ち出して、照れ隠しにした。彼女がいれば美味いものが食えて、部屋も綺麗になる。こっちにとっても得しかなかった。

 もちろん、そんな損得の話ではないことくらい、自分でもわかっていたけれど。


「そんなことないと思うけどな」


 海を眺めたまま、汐織は柔らかく微笑んだ。それ以上は何も言ってこなかった。

 訊きたいことなら、本当はたくさんある。

 家で何がつらいのか。どうしてご飯が食べられないのか。家族とはどういう状況なのか。

 本当は、全部知りたい。でも、訊けるはずがなかった。それが、ふたりの間にあるルールなのだから。

 波の音が、繰り返していた。ざあ、と。ざあ、と。


「あのね」


 汐織が、少し改まった声で言った。


「もし迷惑じゃなかったら……おにぎり、作っていこうか?」

「え? 学校のお昼ってこと?」

「……うん」


 こくり、とどこか恥ずかしそうに頷く。

 昨日、おにぎりは作ってもらった。でもあれは「今日行けない」の埋め合わせで、一回限りのものだと思っていた。

 でも、今回のこれは……これからも継続して作ろうか、という提案だった。


「俺としてはむしろ助かるんだけど……それこそ、迷惑じゃないのか?」

「ううん。ほんと、ついでに作るだけだから。全然迷惑じゃないよ」


 また『ついで』だ。まるで予測変換に登録されている単語のごとく、彼女の口からはその言葉が出てくる。

 でも、今日に限っては……嬉しそうな声色が、その意味を裏切っている。

 麻貴は改まって、頭を下げた。


「じゃあ、えっと……お願いします」

「はーい。お願いされました」


 汐織がにっこり笑った。

 暗い浜辺の中で、その笑顔だけがやけに明るい。

 しばらく、波の音に身を任せることにした。

 ふと線路のほうに目をやると、ちょうど二本目の電車が通過していったところだ。次の電車ならスムーズに乗れるだろう。


「そろそろ戻ろっか。付き合わせちゃって──きゃっ」


 汐織が振り返りかけた拍子に、足がもつれた。

 砂に半分埋もれた流木に足を引っかけたようだ。彼女の華奢な身体が、前のめりに傾く。


「おっと」


 考えるより先に、手が伸びていた。

 汐織の腕を掴んで、ぐっと引き寄せる。あの坂道でふらついた彼女を支えた時と似た光景だった。

 でも、前回との違いは──引き寄せた勢いで、距離がなくなってしまった、ということ。

 汐織の整った顔が、すぐ目の前にある。青みがかった瞳は遠くの街灯りを映し出していて、夜の中できらきらと輝いていた。息が触れそうな距離で、睫毛の一本一本まで見えそうだ。

 波の音が遠くなった。その代わりに自分の鼓動だけが大きくなって。この世界にはふたりしかいないんじゃないかと思わされるくらいに、お互い視線を逸らせなかった。

 数秒なのか、もっと長いのか、わからない。波がざあと寄せて、ざあと引いていく。それだけが時間の経過を教えてくれていた。

 そこで、同時に我に返って、同時に身体を離した。


「わ、悪い!」

「う、ううん! 私のほうこそ……足元ちゃんと見てなくて」


 ふたりとも、声が上ずっていた。

 顔が熱い。視線は忙しく足元、堤防、水平線へと落ち着き先を探したが、どこを見ても真っ暗な海しかなかった。彼女も似たような反応をしていた。

 それから少しの沈黙と、波音が場を支配して……おずおずとお互いに視線を合わせる。


「えっと……そろそろ、行く? 次の電車、来ちゃうかもだし」

「だ、だな。乗り遅れたらまずいしな」


 気まずいような、照れくさいような空気のまま、浜辺を出て駅に向かった。

 さっきまで自然に並んで歩いていたのに、ふたりの間に少しだけ隙間ができている。腕ひとつぶんくらいの、微妙な距離。その隙間が、やけに気になってしまう。

 駅のホームに着くと、ちょうど電車が入ってきた。混雑は収まっていて、乗れそうだ。

 汐織が電車に乗るドアの手前で振り返った。


「あっ、お昼コンビニ買っちゃダメだよ?」

「わかってるって。気をつけてな」

「うん。じゃあ、また学校で」


 汐織はどこか恥ずかしそうに笑って、小さく手を振った。頬がまだほんのり赤い。夜だからわかりにくいが、ホームの灯りの下で、かすかに色づいているのが見えた。

 麻貴も手を振り返したところで、電車のドアが閉まる。窓の向こうで、彼女がもう一度小さく手を振った。電車が動き出して、ゆっくりと車両が夜の中に遠ざかっていく。

 ひとりになったホーム。無人駅の静けさが、急に戻ってきた。

 ふと、手のひらを見下ろす。

 さっき、汐織の腕を掴んだ手。

 まだ少し、温かい気がした。


(……やばいな、これ)


 何がやばいのかは、自分でもまだうまく言葉にできない。

 でも、心臓はまだやかましかった。手のひらの感触は消えないし、あの至近距離で見た汐織の顔が頭から離れない。

 潮風が吹いて、ホームの端で髪が揺れた。


(月曜日、か)


 また、週末を長く感じそうだった。

 特に章分けはしておりませんが、イメージとしては1~6話が1章、7~14話までが2章という感じで、小説1巻分の真ん中くらいのイメージです。

 刺激的な物語も面白いですが、こういうほのぼのとした癒し系物語も流行ればいいなと思って書いております。ここまで読んで、「こういう話好きだよ」という方、いらっしゃいましたら、一言だけでもいいのでレビューも書いてやって頂けないでしょうか!?

 励みになりますので、お時間ございましたらよろしくお願いいたします!

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