第12話 ポニーテールと、綺麗になった部屋
掃除を始める前に、汐織が手首からヘアゴムを外した。
両手を上げて、長い黒髪をさっと後ろにまとめる。くるりと手首を回してゴムで留めると、ポニーテールになった。
作業前の、ただの準備動作。彼女にとっては何でもないことなのだろう。
だが、麻貴にとっては異なっていた。
彼女のポニーテール姿ならば、体育の授業で遠目に見たことはある。校庭にいるポニーテールの汐織を遠くから見下ろしていたが、それだけでも目を引いた。
その姿が、至近距離にある。それはもはや、遠くから見るのとでは別次元だった。
髪をまとめたことで露わになったうなじ。白くて細い首筋から、Tシャツの襟元にかけてのライン。それから、耳たぶの下にある、小さなほくろ。それは、この距離からでないと絶対に見つけられなかっただろう。
「……? どうしたの?」
汐織がきょとんとして首を傾げた。
無防備というか、なんというか。本人はまったく意識していないようだ。
「い、いや。なんでもない。俺はどうすりゃいい?」
慌てて視線を逸らし、話題を仕事に切り替えた。声が上ずっていなかったことを祈る。
彼女はトートバッグの中身をフローリングに並べ始めた。ゴム手袋、スプレーボトル、雑巾が数枚、大きなゴミ袋が数枚、それから古い歯ブラシが一本。
思っていた以上に、準備万端だった。
「まず、床に落ちてるものを全部拾って、いるものといらないものに分けよっか」
汐織は部屋全体を見渡しながら、作戦を立て始めた。
「いるかいらないかの判断は私にはできないから、それは箕島くんが担当してほしいかな。私はゴミとか、明らかに捨てていいものを片付けるね」
料理の時と同じで、全体を見て優先順位をつけて、それぞれの役割を振る。実に的確だった。口調こそ穏やかだが、てきぱきしている。
「了解。っていうか……どれが『いらないもの』なのかがそもそもよくわかんないんだけど」
「何でわからないの……?」
汐織が呆気にとられたような顔をした。片付けられない人間の心理が、本気でわからないらしい。
「そんなこと言われても……それがわかってたら、やってるって」
「そっか。じゃあ、迷ったら私に聞いて?」
くすっと笑って、汐織はそう言ってくれた。
こうして、汐織指揮官のもと大掃除が始まった。
まずは床に散らばった私物を拾い上げていく。参考書、ノート、プリント類、漫画、空のペットボトル、脱ぎっぱなしのシャツ。こうして一個ずつ手に取ると、よくもまあこれだけ放置していたものだと我ながら呆れてしまった。
(えっと……見られて困るものは、落ちてないよな)
高校二年男子として当然抱く健全な懸念だが、幸いその手のものはスマホの中だ。床には落ちていない。
参考書を拾い上げた拍子に、間に挟まっていた古いプリントがぱらりと落ちた。中学時代の何かだ。何が書いてあるのかわかったものではないので、慌てて拾い上げて、ゴミ袋に突っ込む。幸い、汐織はゴミをまとめている最中だったので、こちらを見ていなかった。
「箕島くん、これは?」
汐織が床から拾い上げたのは、漫画の単行本が数冊だった。
「あー……それは、いる」
「漫画読むんだ? 何の漫画?」
「それは確か、料理漫画だったかな」
「えっ? 箕島くんが、料理漫画……?」
あからさまに怪訝そうにしている。失礼な。
「べ、別に……料理下手が料理漫画読んだっていいだろ」
「そうだね。ごめんごめん」
汐織がからかうように、くすくす笑った。
確かに、あの冷蔵庫の惨状を知っている人間からすれば、料理漫画を持っているのは滑稽だろう。ちなみに買ったのは独り暮らしを始めた直後で、自炊に憧れた時期が一瞬だけあった。もちろん、一瞬で終わったのだが。
「他にも何か読むの?」
「まあ、たまに。バトル系とか異世界系も」
「そうなんだ。箕島くんの本棚って、見たことなかったから。今度私も読んでみよっかな」
汐織はそう言いながら、漫画を丁寧に本棚に戻してくれた。こういう何気ない発見を、楽しんでいるらしい。
手を動かしながら、ぽつぽつと言葉を交わした。買い出しの時や食器洗いの時と同じだ。向かい合って話すのとは違う、並行作業中の会話。手が止まった時に話して、動き出すと途切れる。そのリズムが、妙に心地よかった。
床の物をひと通り片付け終わると、次は拭き掃除だ。
汐織が雑巾を水で絞って、フローリングを拭き始めた。麻貴も見様見真似でもう一枚の雑巾を手に、反対側から拭いていく。
「雑巾はこうやって折り畳むと面が変えられるよ」
麻貴の雑巾の扱い方を見て呆れたのか、彼女が丁寧に畳み方まで教えてくれた。
「へえ。やったことなかった」
「あとは、拭く時は奥から手前に。そうしないと、自分が拭いたところを踏んじゃうから」
「ああ、なるほどな。理にかなってる」
言われた通りにやってみる。不器用だが、教わったことはちゃんとやろうとした。できないことは多いが、やれることはやっていきたい。それくらいしか、自分にできることなどないのだから。
部屋の両端から拭き始めて、中央あたりで鉢合わせした。しゃがんだ姿勢で隣り合うと、肩がほとんど触れ合う距離になる。汐織のトリートメントの匂いが、ふわりと近い。
「あ、ここはもう拭いたよ」
「……悪い」
少し離れようとすると、汐織が言った。
「あ、でもそこはまだ拭けてないから、一緒にやろ?」
汐織にとってはただの作業効率の話だ。だが、麻貴の心臓は効率どころではない。ポニーテールの横顔が、すぐそこにある。さっき見つけた耳たぶのほくろも、この距離だとはっきり見えてしまった。
黙って頷いて、隣で雑巾を動かす。手元に集中しよう。いや、集中しろ。
「ちょっと意外かも」
拭き掃除中、隣で汐織が不意に言った。
「え? 何が?」
「箕島くん、掃除嫌いなのかなって思ってたから。ちゃんと手伝ってくれてて、ちょっとびっくりしちゃった」
この程度でびっくりされるとは、一体自分は何だと思われているのだろうか。
さすがにクラスメイトに掃除させておいて自分が何もしないというのは、人としてどうかと思うが。
「やり始めたらそうでもないかな。問題はやり始めないことなんだけど」
「じゃあ、こうやってたまに練習しようね」
悪戯っぽく、子供を諭すみたいに汐織が言った。
たまに練習……その言い方には、また来る前提が含まれていた。本人がそれに気づいているかはわからない。ただ、麻貴の胸の中で、何かがほんのり温かくなった。
それから、どれくらい経っただろうか。
テーブルを拭いて、本棚を整理して、クローゼットの中に服を畳んで入れた。窓を開けて換気もした。潮風が入ってきて、洗剤の匂いと混ざる。汐織は途中でユニットバスにまで手を伸ばし、古い歯ブラシで排水口の周りをごしごしやってくれていた。さすがにそこは申し訳なさすぎて「俺がやる」と代わろうとしたが、汐織は「慣れてないでしょ?」と笑って結局そのまま終えてしまった。
なんだろう。今日ほど自分がダメ人間だと自覚したことはなかった。
「終わったぁ……」
ゴミ袋の口を結んで、麻貴はソファに崩れ落ちた。身体中がだるい。掃除がこんなに体力を使うとは思わなかった。
「お疲れ様っ」
汐織もソファに腰を下ろした。ポニーテールが少しだけ崩れていて、おくれ毛が頬に張り付いている。額にうっすら汗が光っていた。
ふたりで並んで、部屋を見渡す。
フローリングが見えていて、テーブルの上には何もなかった。シンクは前から汐織がきれいにしていたが、今はそれ以外の場所も同じレベルになっている。参考書は本棚に収まり、服はクローゼットに入り、ゴミは袋にまとめられて玄関の脇に置いてあった。
散らかっていない、普通の部屋。
ただそれだけのことなのに、別の場所みたいだった。
「……すげえ。同じ部屋とは思えない」
「これが普通の状態だからね?」
「普通のハードルが高すぎる」
「どうしてそうなるかなぁ……でも、よかった。大分すっきりしたね」
汐織は満足そうに、きれいになった部屋を見回した。
それから、ぽつりと独り言みたいに呟く。
「なんか……私も、気持ちいいかも」
料理の時とはまた違う顔だった。「空間を整える」のも、彼女にとっては人の役に立てている実感なのだろうか。
その柔らかい表情を見て、麻貴はそう思った。
ふと時計を見ると、もう夕方の五時だった。汐織が来たのが昼過ぎだから、かれこれ五時間近くぶっ通しで作業していたことになる。窓の外では午後の日差しが傾き始めていて、綺麗になったフローリングに橙色の光が斜めに落ちていた。
そこで──ぐうっ、と麻貴の腹が盛大に鳴った。整理された静かな部屋に、間の抜けた音が響き渡る。
あまりに恥ずかし過ぎて、さすがに固まった。これでは、いつかの逆ではないか。
汐織がこちらを見て、くすっと笑った。
「たくさん動いたもんね。私もお腹ぺこぺこ」
「それもあるけど……昼、食べてなかったからさ」
「えっ、そうなの!? それ言ってよー! 先に何か作ったのに」
その声音には、ほんの少し怒りも混じっていた。というか、怒りと心配と呆れが全部混ざったような声だ。
「いや、掃除してもらってるのに昼飯食べたいとは言えないだろ」
「そういうのは言ってくれないと困るよ……もう」
汐織は困ったように眉を下げた。
ただ、麻貴としては、休日を潰して掃除に来てくれている人に対して「腹減った」とはさすがに言えない。
彼女は少し考えてから、ぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、今からスーパー行こっか。昼夜兼用で何か作るよ」
「え。でも掃除もしてもらったのに……そこまでしてもらうわけには」
「いいよー。だって、どうせ私が何か作らなかったら、またコンビニでしょ?」
「うぐぐ……そのとーり」
反論の余地がなかった。汐織がいなければ、昼も夜もコンビニで済ませていたに違いない。綺麗になった部屋でコンビニ弁当というのも、ちょっと嫌だった。
汐織はポニーテールのゴムをほどいた。さらりと黒髪が肩に落ちて、風に靡く。それだけで、さっきまでの作業モードが解けた感じがした。
「せっかくだし、何か美味しいもの食べよ? 掃除のあとのご飯って、絶対格別だから」
その「絶対格別だから」に、根拠はなかった。でも、汐織が言うと不思議とそう思えてくる。
靴を履いて、二人でアパートを出た。
空が橙色に染まり始めていて、坂もその色を映していた。いつもの潮風が吹き上がってきて、汐織の長い黒髪をふわりと攫う。
この坂道を、ほんの数日前まで麻貴はひとりでコンビニ袋を提げて登り降りしていた。何を考えるでもなく、誰を待つでもなく。
それなのに、今──篠宮汐織が、隣にいる。未だに信じられなかった。
(掃除して、買い物して、飯作るって……これじゃあまるで──)
恋人みたいだ、と思いかけて慌てて否定した。
恋人ではない。断じて。ただ、この関係に名前がつけられないのも事実だった。友達ともちょっと違うし、恋人でもない。簡単に言うなら……同居未満、夕飯以上。そんな関係性だろうか。
そんなことを考える麻貴の傍らで、汐織が何か楽しそうに献立を考えていた。
「豚肉があったら……あ、でも、お魚も……」
小さく呟きながら、指折り数えている。
麻貴はそれを横目で見ながら、ほんの少しだけ笑った。
(別に……関係なんて、どうでもいいか)
夕焼けの坂道を、二人で並んで下りていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
面白そう、続きが気になると思って頂けましたら、★★★★★やレビューで応援してくださると励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします!




