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第11話 土曜日なのに……?

 土曜日の朝。シャワーから上がると、麻貴はタオルで頭をごしごしやりながらふと台所に目をやった。シンクの横には、空のタッパーが伏せてある。昨晩のうちに中身を食べて洗い、ひっくり返して乾かしておいたものだ。

 タッパーの中身は三品だった。きんぴらごぼうとほうれん草のおひたし、それから焼き鮭だ。小さなタッパーの中に仕切りを使って丁寧に詰められていて、どれも作りたてではないのにしっかり味が染みていた。

 特に焼き鮭は、昼のおにぎりの具と同じものだった。朝にまとめて焼いて、おにぎりの分とタッパーの分を取り分けてくれたのだろう。そこまで想像してしまうと、胸の奥がじんわりした。

 そして、テーブルの上には、タッパーと一緒にいれられていた小さなメモが一枚残っている。


『レンジで少しあたためてね。 しおり』


 丸っこいひらがなの字。冷蔵庫に貼ってある「にくじゃが」のメモと同じ筆跡だった。

 ただ──そのメモには、署名が残っていた。

 篠宮でも、汐織でもない。ひらがなの「しおり」。

 無意識だったのかもしれない。タッパーに詰める作業の延長で、つい普段の感覚で書いてしまっただけだろう。たぶん、それだけ。それだけのはずなのに、妙な期待をしてしまう。


(……勘違いだけは、しないように)


 そう言い聞かせ、ドライヤーを手に取った。

 ちなみに、昨晩の夕飯ではひとつだけ自分を褒めてやりたいことがある。タッパーの中身を食べる際に、コンビニの冷凍ご飯ではなく炊きたてのご飯を合わせたのだ。

 帰りにスーパーで米を五キロ買って。引っ越して以来ほとんど使っていなかった炊飯器を引っ張り出し、久しぶりに米を炊いた。

 炊き立てのご飯で食べる汐織の手料理は、格別だった。きんぴらの甘辛さも、おひたしのさっぱりした味も、焼き鮭の塩気も、全部が白い米に合う。大袈裟ではなく、これまで食べた中で何よりも美味かった。

 ただ──美味かった分だけ、ひとりで食べているのが堪えた。隣に汐織がいないソファで、スピーカーだけが鳴っている部屋で、黙々と箸を動かす。美味いのに、なんだか落ち着かなくて、変な感覚だった。


(さて、今日は何すっかなぁ)


 ドライヤーで濡れた髪を乾かしながら、今日の過ごし方を考える。先週までの土曜日なら何も考える必要がなかった。起きて、ダラダラして、コンビニに行って、ゲームして、寝る。それで一日が終わっていた。むしろ、そのぐだぐだ加減が心地よかった。

 だが、今はその過ごし方を想像しても、やけに長く感じてしまう。


(その前に昼飯もどうするか考えないとだしなー)


 冷蔵庫には一昨日の買い出しで余った食材が少しだけ残っている。卵、長ねぎの端、豆腐の残り。汐織ならこれで何か作れるのだろうが、麻貴にはその技術がない。


(俺も料理、してみるか? ……いやいや。絶対まずいだろ)


 想像しただけで諦めがついた。結局コンビニで何か買ってくるのが現実的だ。数日前までそれが当たり前だったのに、今はそれを「仕方ない選択」だと思ってしまっている自分がいる。

 髪が乾き、ドライヤーを止めた。部屋を見回してみると、相変わらず散らかっていた。汐織が触った台所周りとソファ周辺だけが整然としていて、それ以外は従来通りの惨状だ。この部屋にいると、彼女が手を入れた場所とそうでない場所の差がくっきり見えてしまう。


(月曜まで……長いな)


 テーブルの上のメモをもう一度ちらりと見てから、スマホを手に取った。特に目的もなく画面を点けたり消したりしている。昨日のLIMEの画面を開いて、非常階段の呼び出しメッセージを眺めたりもした。

 その時だった。

 画面に、通知のポップアップがぽんと表示された。


【篠宮汐織:今日って予定ある?】


 スマホを落としそうになった。

 両手で掴み直して、画面を凝視する。目の錯覚ではなさそうだ。確かに、汐織からメッセージが届いている。

 心臓がどくどくと高鳴った。指が微かに震えているのを自覚しながら、返信を打つ。


【ない】


 送信してから、後悔が押し寄せた。これはさすがに素っ気なさすぎるのではないだろうか。もう少し何か書くべきだったのかもしれない。でも、いつもこんな感じだし、今更取り繕っても逆に不自然だろう。

 返信はすぐに来た。


【篠宮汐織:行ってもいいかな……? ちょっとやりたいことがあって】


 文面の後ろに、ゆるキャラみたいなスタンプが添えられていた。もじもじと指先を合わせているウサギ。おずおずと許可を求めるような、そんなニュアンスのスタンプだ。


『行ってもいいかな……?』


 たった一行なのに、心臓がうるさくて仕方がなかった。わざわざ休日に、藤澤から電車に乗って学校の隣まできてくれる。しかも、何か麻貴とやりたいことがあるのだという。


(作りたいもの、じゃなくて……やりたいこと?)


 ニュアンス的に、料理ではなさそうだ。休日にわざわざ来て、やりたいこととは何だろう? 妄想が暴走しかけるのを全力で止めた。


【いいよ】


 今度も短文だ。もう少し気の利いたことが書けないのかと自分に呆れるが、これ以上の文字数を打つと指の震えが文面に出そうだった。

 既読がすぐについた。


【篠宮汐織:じゃあ、お昼頃に行くね!】


 テンション高めの文面に、また別のスタンプが付いている。今度はぴょんと跳ねているウサギ。嬉しそうだ。対面では控えめな汐織が、文字になると少しだけ素が出るタイプなのかもしれない。

 麻貴はLIMEの画面をもう一度見返してから、スマホをテーブルに置いた。

 さっきまで長いと思っていた土曜日が、急に短くなった。

 部屋を改めて見回すと、相変わらず散らかっている。


(……片付けたほうがいいか?)


 一瞬考えて、すぐにやめた。今から片付けたところで焼け石に水だ。汐織はこの部屋の惨状をとっくに知っているし、今更取り繕う必要もない。

 ないのだが──洗面台の鏡で髪型をちらっと確認したり、Tシャツの襟元や前髪を直したりしている自分がいて、それに気づくたびに少し恥ずかしかった。


       *


 そして、昼過ぎ。ドアが、遠慮がちにノックされた。

 予告通りの時間だ。麻貴はソファから立ち上がって玄関に向かう。できるだけ自然に、と自分に言い聞かせてドアノブに手をかけた。


「おう。いらっしゃ──」


 言葉が途中で止まった。そこには、これまで見たことがない汐織の姿があったのだ。

 これまで見たことがあったのは、制服姿だけだった。セーラー服に長い黒髪を降ろしていて、きちんとした佇まい。それが麻貴の中にある「篠宮汐織」だ。

 でも、そこに立っていたのは──私服姿の汐織だった。

 ぴったりとしたTシャツに、動きやすそうなパンツスタイル。ふわっとした可愛い系ではなく、実用的な服装だ。けれど、華奢な身体に沿うTシャツは制服よりも遥かにラインが鮮明で、肩から腰にかけてのシルエットとか、小さく控えめなのに存在感を示している胸元だとか──と、そこまで目が追いかけたところで慌てて視線を上に戻した。

 髪はいつものように下ろしているが、どことなく普段とは雰囲気が違っていた。知らなかった一面が、いきなり目の前に来てしまった。


「お、お邪魔します」


 汐織のほうも少し恥ずかしいのか、頬がうっすら染まっていた。靴を丁寧に揃えて上がる。その手には大きめのトートバッグ。中身はわからないが、ずっしり重そうだった。


「えーっと……それで、やりたいことって?」


 何とか平静を装って訊いた。声が裏返らなかったのは奇跡だ。

 汐織は部屋をぐるりと見回した。テーブルの上の参考書、椅子にかかったシャツ、床に転がったペットボトル。台所周り以外の、従来通りの惨状。

 少し照れたように、彼女が言った。


「お掃除、しようかなって」

「え!?」

「だって箕島くん、絶対にひとりだとお掃除しないでしょ?」

「うぐっ」


 ぐうの音も出なかった。実際、土日は暇だがその暇を掃除に割り当てる気は一切なかった。発想すらない。


「前から思ってたの。学校終わってからだったら、全然お掃除する時間ないなーって」


 つまり、ずっと気になっていた、と。気にはなっていたけれど、放課後の限られた時間では料理で精一杯で、掃除までは言い出せなかったのだ。だから予定がないなら休日を使って掃除したい、という意図らしい。

 確かに、麻貴は掃除は苦手だ。何から手を付けていいのかわからないし、何を捨てていいのかもわからない。そもそも「片付いた状態」がどういうものなのかイメージできなかった。だからこそ、こうなっているのだが。


「……頼んでいいのか?」


 訊くと、汐織は可笑しそうに笑った。


「じゃなきゃ自分から言わないよ」


 呆れているのに、どこか嬉しそうで。教室で見る控えめな篠宮汐織とは明らかに違っていて。たぶんこの顔は、麻貴しか知らない。

 彼女はトートバッグからゴム手袋とスプレーボトルを取り出しかけて、ふと部屋全体を見渡した。しばらく品定めするように視線を巡らせてから、ぽつりと呟いた。


「まず、いるものといらないものを分けるところからかな……それだけでも結構大変そう」


 呆れと楽しさが同居した声だった。麻貴は頭を掻くしかない。


「悪い……いや、よろしくお願いします」


 素直に頭を下げた。学校一の美少女に掃除を頼む高校二年男子。状況だけ切り取れば完全におかしいが、おにぎりを握ってもらい、タッパーで夕飯を作ってもらった時点で、もう今更だった。


「うん。任せてっ」


 汐織はTシャツの袖を軽く折り上げて、腕まくりをした。細い手首と、その先の白い腕。それから台所に立つ時と同じ、何かに取り組む前の横顔。料理でも掃除でも、誰かのために動ける時のこの表情が、たぶん彼女の素なのだろう。

 こうして、まさかの土曜日に学校一の美少女との大掃除が始まることになったのだった。

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