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第10話 学校で渡された巾着袋

『次:にくじゃが、おみそ汁 (わかめ)』


 朝、歯を磨きながら冷蔵庫に貼ってあるメモを目にして、口角が緩んだ。

 それに気づいて慌てて口を引き締めると、歯磨き粉がちょっと飛んだ。誰に見られているわけでもないのに、何だか恥ずかしい。

 もう、台所共有が始まってから四日目だ。

 たった四日。されど四日。振り返ると、コンビニのパンをあげたのが随分前のことのようにも思えた。

 制服に着替えて、鏡を見る。数日前よりは顔色がマシになっている気がした。ちゃんとした飯を食べていると、やはり身体の調子も違ってくるのだろうか。


(肉じゃがかぁ……きっと美味いんだろうな)


 思い浮かべるだけで腹が鳴りそうだった。

 昨日の鶏の味噌煮も美味かったが、肉じゃがとなるとさらに家庭料理感が増す。買い出しもまた一緒に行くことになっていて、今日もあのスーパーで汐織がカゴに食材をぽんぽん入れていくのだろう。


(……腹減ってるだけだから。美味いもん食いたいだけだから)


 決して、楽しみにしているわけではない。断じて。育ち盛りの高校二年生が夕飯の献立を気にするのは正常な生理現象であって、そこに特定の誰かが作ってくれるという事実が上乗せされているだけで──。


(誰に言い訳してんだよ)


 内心で自分にツッコんで、靴を履いた。一足しかローファーがないと、この狭い玄関もほんの少しだけ広く見える。不思議なものだ。

 それから電車に乗って、登校。一本早い電車に乗れたお陰で、教室に着いたのは始業十分前だった。先週までの自分からすれば快挙だ。


「おっ、麻貴。最近マジで早くね?」


 隼太が麻貴を見るなり、目を丸くして言った。


「たまたまだよ」


 麻貴は答えた。

 しかし、それで納得しないのが隼太だ。


「たまたまが連続? お前……まさか、彼女でもできたんじゃねーだろうな!?」

「できてねーよ。寝起きが良くなっただけだっつの」


 椅子に座って鞄を掛ける。彼女なんかいるわけがない。ただ、まともな夕飯を食べるようになったら目覚めが段違いに良くなった。それだけだ。

 隼太が机に肘をついて、身を乗り出してきた。


「それはそーと、今日こそ放課後ラーメン付き合えよ? 駅前の新しいとこ。もう一週間くらい誘ってんだけど」

「あー……悪い。今日も用事あるんだわ」

「用事?」


 隼太の眉が、ほんの一瞬持ち上がった。

 以前なら「面倒」か「気が向いたら」で済ませていた。それがいつの間にか「用事」に変わっている。自分でも言ってから気がついた。


「……ふーん?」


 隼太はそれ以上追及しなかった。片手をひらひらと振って「まあいいけどさ」と流す。ただ、その「ふーん」の音色が、図書室帰りの「ほーん」と同じ種類のものだった。軽いのに、どこか引っかかる。

 こいつの前では言葉を選ばなければまずそうだ。改めてそう思った。


       *


 四限前の休み時間。

 隼太とくだらない会話をしていた時、ポケットの中のスマホが震えた。

 ポップアップされた通知を確認して、心臓がひとつ跳ねた。想像もしてなかった名前とメッセージが表示されていたのだ。


【篠宮汐織:非常階段まで来れる?】


 まさかの汐織からのLIME(ライム)のメッセージ。短い一文だけで絵文字はないが、彼女からメッセージが送られてきたのは、これが初めてだった。

 咄嗟に教室の前方を見ると、汐織もちらりとこちらに視線を合わせた。が、すぐに目を逸らして、何かを手に持ったまま教室を出ていく。何を持っていたのかまでは、見えなかった。


(非常階段……?)


 校舎の裏手にある外付けの緊急用階段で、普段は生徒がほとんど使わない。つまり汐織は、わざわざ人気のない場所を選んで呼び出してきたということだ。


「悪い、ちょっとトイレ」


 隼太に短く告げて席を立つ。


「おう」


 隼太は軽く返した。ただ、その視線が一瞬だけ、麻貴の背中に留まっていた。

 非常階段の踊り場はコンクリートで、手すりに赤錆がところどころ浮いている。壁の陰になっていて日当たりは悪いが、そのぶん風通しが良い。視線を上げると校庭の端が見えて、その向こうに海が青く光っていた。

 潮風が制服の裾を揺らす。汐織が踊り場で待っていた。背中に何かを隠し持っている。


「どうした?」

「いきなり呼び出してごめんね? ちょっと渡したいものがあって」


 そう言って、背中からすっと差し出されたのは、巾着袋だった。

 薄い水色の布に小さな花柄が控えめに散っている。中に何か入っている程度に膨らんでいた。


「お昼、作ってきたの。よかったら食べて」


 少し恥ずかしそうに、でも視線を迷わせながら、彼女が言った。


「え!? 何で?」


 思わず声が大きくなった。慌てて口を押さえる。非常階段で大声を出すわけにはいかない。


「だって……箕島くん、お昼も身体に悪そうなものばっかり食べてるから」


 つまり、昼食の内容まで見られていたということだ。コンビニのおにぎりと弁当がデフォルトの麻貴の食生活は、完璧に把握されていたらしい。

 巾着袋を受け取って中を覗く。ラップに丁寧に包まれた大きめのおにぎりが二つ。その下には、タッパーらしきものが見えた。


(恋人でもないのに弁当を手渡しって、これは……いやいや、違うから。栄養を心配してくれてるだけだから)


 二秒で浮かんだ妄想を三秒で叩き潰すが、心臓だけは理性の命令を聞いてくれない。


「わ、わざわざ作ってくれたのかよ。気を遣わせて悪い」

「ううん。自分の作るついでだから」


 汐織はそう言って笑った──が、次の瞬間、その笑みがわずかに翳る。声のトーンが半音下がった。


「それから……そのタッパーなんだけど。今日の夕飯の代わりにしてほしいなって」

「夕飯?」


 頭の中で、丸っこい字の『にくじゃが』のメモが浮かんだ。今日は一緒に買い出しに行って、肉じゃがを作ってくれるという話だった。


「今日、行けなくなっちゃって……ほら、最近ずっと箕島くんのお家で夕飯食べてたじゃない? それでお母さんが、今日は家で食べろって……」


 声がだんだん小さくなっていく。最後の方はほとんど消え入りそうだった。

 ただの予定変更を伝えるにしては暗い。「家で食べろ」という言葉の裏に、単なる指示だけではない重みが滲んでいる気がした。彼女は目を伏せたままどこか肩を小さくしていて、自分の指先を組んだりほどいたりしている。

 もしかして、叱られたのではないだろうか。何となく、そんな気がした。


(訊くのは……まずいよな)


 それが、あの台所で交わしたルールだ。話したくないなら話さなくていいと言ったのも、麻貴自身。ならば、明るく返してやるのがベターだろう。


「そっか。ちょっと残念だけど、仕方ないな。ちなみに、親にはなんて言ってたの?」

「友達のお家でご飯食べてきたって」

「なるほどな。まあ、親ならそう言うかもな」


 友達の家で毎日のように夕飯を御馳走になっていると聞けば、相手の家庭に迷惑をかけていないか気にするのも当然だ。親として心配するのは、普通のことだろう。


「作るって約束してたのに……ごめんね?」


 汐織がおずおずと見上げてくる。申し訳なさそうに眉が下がっていた。


「いや、こっちこそありがとう。大事に食べさせてもらうよ」


 麻貴は意識的に声を明るくした。

 巾着袋を軽く持ち上げてみせて、続ける。


「うちの部屋なら、まあ来たい時に来ればいいってだけの話だからさ。気にすんなって。もともとそういう話だったろ?」


 敢えて軽く。あの日の契約を、そのまま引用した。来たい時に来て、台所を好きに使えばいい。別に来ることは、義務ではなかったはずだ。

 そこで、汐織の肩からほんの少しだけ力が抜けた。張り詰めていたものが、わずかに緩んでいる。


「うん……ありがとう」


 彼女は小さくそう呟いた。でも、さっきまでの怯えたような響きとは違う。少しだけ柔らかい響きだった。

 ふとスマホを見ると、四限が始まるまでそう間もなかった。予鈴が校舎の中に薄く反響して、非常階段まで届いてくる。


「篠宮、先に行っていいよ」

「箕島くんは?」

「少し時間ずらして戻る。一緒だと目立つだろ?」

「……そっか。うん、そうだね」


 汐織はどこか寂しげに笑って頷くと、階段を降り始めた。上履きが鉄骨の段を叩く音が、とん、とん、と規則正しく響く。途中で一度だけ振り返って、小さく手を振った。

 麻貴は軽く手を上げ返して、彼女の姿が校舎の角に消えるのを見届けた。

 ひとりになった踊り場に、潮風だけが吹き抜ける。

 手の中の巾着袋に、おにぎりのかすかな温もりが残っていた。

 教室に戻ると、真っ先に巾着袋を鞄にしまった。ファスナーを閉めるまでの数秒、周囲に目を走らせ警戒は怠らない。幸い、隼太はスマホをいじっていてこちらを見ていなかった。セーフだ。


(何やってんだかな)


 ファスナーを閉め切ってようやく息をついた。中に何が入っているのかを、誰にも知られたくない。

 そんなやり取りがあったせいか、四限目の数学は黒板の数式がまるで頭に入ってこなかった。鞄の中にあるものが気になって仕方がない。ノートを開いてはいたが、何を書いたのか自分でもよくわからないまま、チャイムが鳴った。昼休みだ。

 鞄からおにぎり二つだけを取り出して、ラップのまま机に置いた。巾着袋とタッパーは鞄の中に残す。今朝はコンビニに寄っていなかったから、不自然ではないはずだ。しかし──。


「あれ? お前、今日はコンビニじゃねーの?」


 隼太が席に戻ってきた途端、目ざとく気づいた。こいつの観察眼はどうなっているのだ。


「ああ……親が昨日来てさ。作り置きしてくれてた」


 咄嗟に出た嘘だった。自分でも驚くほど滑らかに言えてしまい、少し自己嫌悪がよぎる。


「ほーん?」


 隼太が目を細めた。三回目の「ほーん」だ。回を重ねるごとに重くなっている気がする。こいつの中で何かが確実に積み上がっているのを感じるが、今回も深追いはしてこなかった。

 何気ない雑談をしながら、おにぎりのラップを剥がす。

 おにぎりのラップを剥がす。海苔がきれいに巻かれた三角形で、角が少し丸い。コンビニのやつみたいにかっちりしていなくて、手に持つとほんの少しだけ頼りない。人の手で握ったんだな、というのがわかる形をしていた。

 ひと口、かじる。


(……うま)


 薄い塩味に米の甘さが追いかけてくる。中の具は焼鮭だった。丁寧にほぐされていて、骨のひとつも当たらない。コンビニのおにぎりとは全然違っていた。硬さじゃなく、やわらかさで形を保っている。

 いや、味の良さだけではない。「自分のために作ってくれた」という事実が、余計に効いているのだ。朝早くに起きて、わざわざ作って、巾着袋に入れて。誰かに勘違いされるリスクがあるのに、呼び出して、渡して──そこまで考えかけて、慌てて思考を止めた。


(やめろ。変な期待はすんな)


 ふたつ目のおにぎりに手をかけたところで、ふと黒板の端に目がいった。日付と曜日が白いチョークで書いてある。日付の下に(金)とあった。


(あー……そっか。今日、金曜日なのか)


 おにぎりを持つ手が止まった。

 今日が金曜日で、汐織は今日の放課後、うちに来ない。そうなると、次に汐織がうちに来る可能性があるのは、早くても月曜日の放課後だ。

 一週間前の自分だったら、週末は嬉しかった。学校がなくて早起きしなくていいし、誰にも会わなくていい。ダラダラして、スマホをいじって、適当に動画をしてゲームをして、また寝るだね。そんなグータラな休日が、幸せだった。

 なのに──今はそれを想像すると、妙に長く感じてしまう。


(週末……何食えばいいんだろうな)


 数日前までコンビニ飯で何の疑問もなかったのに、もうそれでは物足りなくなってしまっていた。味の問題ではない。ひとりで食べる夕飯を想像しただけで、胸のあたりが妙に物寂しくなってしまうのだ。

 汐織の来訪は、これまでの生活を鑑みれば、昨日と一昨日だけに生じたイレギュラーなイベントだったはずだ。それなのに、なくなった途端にその重さを感じてしまう。


(そういうこと、か)


 ここで、初めてはっきりと自覚した。たった二日。それだけのことなのに、彼女が来ることを当たり前みたいに期待してしまっていたのだ。

 おにぎりの最後のひと口を、ゆっくりと噛みしめた。やわらかくて、少しだけ切ない味がした。

 教室の前方に、ちらりと目をやる。

 汐織は女子のグループに囲まれていつも通り笑っていた。弁当箱を開いて、相槌を打って。さっきの非常階段で見せた翳りは、もうどこにもない。あの笑顔の裏に何があるのか、麻貴にはまだわからなかった。


(月曜日、来てくれるといいな)


 その思いを、ただ静かに呑み込む。

 窓の外では六月の青空が海の上に広がっていて、週末の気配だけが、やけに近かった。



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