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第1話 味のしない夕方

 風が少し湿っていた。

 初夏の夕方。潮の匂いがかすかに混じった風が、坂道を吹き上がってくる。

 箕島麻貴(みしまあさき)はコンビニの袋を片手にぶら下げて、特に何を考えるでもなく坂を下っていた。榎ノ島(えのしま)電鉄──通称:榎ノ電──の踏切が時折鳴る住宅街。シャツの裾が風にわずかに揺れた。それだけの、いつもと変わらない帰り道。のはずだったのだが──。

 坂の途中で、誰かがしゃがみ込んでいた。

 壁に背を預けるようにして、膝を抱えている。セーラー服のスカートが地面に触れそうで、鞄が足元に投げ出されていた。遠目から見ても、同じ学校の生徒だというのはすぐにわかった。


(え? あれって……篠宮(しのみや)、だよな?)


 近づくにつれて、それが見覚えのある女子であることに気付く。

 長くて、綺麗に手入れされた黒髪。夕陽の残照を受けて、かすかに光を帯びている。

 彼女の名は、篠宮汐織(しのみやしおり)。同じ二年F組のクラスメイトで、おそらく学校で一番可愛いと噂されている女子だ。

 彼女のことは、麻貴も入学当初から知っていた。

 楚々だとか清楚だとかいう形容詞がぴたりと当てはまる子で、思わず入学式前で目を引かれてしまったのだ。腰まである長い黒髪、それからセーラー服がよく似合っていて、古風な女学生のような、そんな印象さえ受けてしまう。

 身長は一六〇センチに届くか届かないかという程度だろうか。顔立ちはやや幼い。けれどその幼さに埋もれない、青みがかった瞳の奥の淑やかさが印象に残っていた。

 そこにいるだけで、なんとなく目を引いてしまう。そんな子だった。それでいて性格は控えめで、誰にでも丁寧で優しくて。そんな容姿と性格が相まってか、男子からは芸能人並の人気を博していた。

 その篠宮汐織が、坂道の壁にもたれて蹲っている。

 近付いてみてわかったが、顔が白く唇にも血の色がなかった。額にうっすら汗が浮いて、呼吸がやけに浅い。明らかに、普通じゃなかった。


(はぁ……どうすっかな)


 麻貴は一瞬だけ、足を止めた。いきなり声を掛けるのもあれだし、素通りしようかとも一瞬頭を過る。

 彼女とは同じクラスではあるものの、接点が碌になく、話したことがほとんどないのだ。

 だが、目の前で具合が悪そうにしているクラスメイトを無視して帰るのは、やっぱり気が引けた。


「……おい。大丈夫かよ」


 結局、声を掛けていた。問いは単純明確に。妙にぶっきらぼうな物言いになってしまったが、こういったシチュエーションは慣れていないだけだ。どうか許してほしい。

 すると、しゃがみ込んでいた汐織が顔を上げた。


「あっ……箕島くん」


 麻貴を見て、一瞬驚いた顔をする。それからすぐに──まるで条件反射のように──笑顔を作った。


「大丈夫。ちょっと立ち眩みしただけだから」


 声は普段通り、柔らかかった。丁寧で、いつも教室で聞くのと同じ穏やかな声だ。

 でも、笑顔の下に何かを押し込めているような、そんな気がした。上手く言葉にはできないけれど、ただ、なんか無理してるな、と感じてしまう。その『ちょっと立ち眩みしただけ』というのも引っかかった。

 そこで、心配をかけまいとしたのだろう。汐織は立ち上がろうとしたが──すぐに、足元をふらつかせる。


「おっと」


 考えるより先に、麻貴は彼女の腕を掴んでいた。

 ……腕ほっそ。

 見た目からして華奢なのはわかってはいたけれど、触れて初めて実感する。驚くほど軽くて、力を入れたら壊れてしまいそうだ。何だかこう、儚い。


(ちゃんと飯食ってんのかよ、こいつ)


 もともと自分は余計なことを聞く性格ではない。他人の事情に首を突っ込むのは好きではないし、そうして面倒ごとに巻き込まれた経験もあった。いつもなら、きっと何も触れなかっただろう。ただ──。


「お前さ。飯、ちゃんと食ってる?」


 気付けば、訊いていた。

 不躾だったとは思う。単刀直入すぎるとも。でも、回りくどく聞くのは得意ではない。

 その問いに、汐織の笑顔がほんの一瞬だけ止まった。

 変な〝間〟が生まれる。


「……えっと。最近、あんまりちゃんと食べれてなくて」


 言い終わるか終わらないかのところで、小さく、くう、と彼女のお腹が鳴った。

 汐織の表情が固まる。耳まで赤くなっているのは、決して夕陽のせいだけではないだろう。


(き、気まずい……)


 腹鳴っとるやないかーい、とここで言えるノリを持ち合わせていれば、どれだけ楽だっただろうか。

 そんなことを思いつつも、なんとなく彼女に何かありそうなのは察してしまった。ただ、そこまで深入りするような間柄でもない。

 麻貴は何も訊かず、とりあえずそのまま彼女の腕を引いて、近くのベンチまで連れていった。


「ここで待ってろ」

「え?」


 一言だけ言い残して、来た坂道を少し戻る。さっき寄ったばかりのコンビニへ走った。

 温かいペットボトルのお茶と、総菜パンをふたつ。適当に掴んで千円札と一緒にレジに出し、釣り銭をポケットに突っ込んですぐ戻る。

 ベンチに座ったままの汐織のところへ戻ると、買ってきたものをそのまま差し出した。


「ほら。腹減ってたんだろ?」

「え!? で、でも。お金……」

「いいから。立てない奴に貸し作ったってしゃーねーだろ」


 適当な理屈をつけて、押しつけた。善意の直球を投げるのが気恥ずかしくて、こういう言い方しかできない自分が憎らしい。我ながら不器用だと思う。

 一方の汐織はというと、少し戸惑っていた。差し出されたパンとペットボトルを交互に見て、それから麻貴の顔を見上げて──小さく、くすっと笑った。

 さっきまでの取り繕った笑みとは、ほんの少しだけ違っていた。


「……ありがとう。優しいね」


 そう言って、ペットボトルとパンを受け取った。

 汐織が総菜パンの包装を開ける。

 おそるおそる、という表現がぴったりの手つきだった。小さく噛んで、ゆっくり咀嚼して、飲み込む。大切そうに、確かめるように食べていた。百数十円のコンビニの総菜パンを、じっくりと味わうように。

 麻貴はなんとなくそれを見ていた。目が離せなかった、というほど大袈裟なものではない。ただ、視線がそちらに引っ張られていた。

 そして──彼女が、ぽつりと言った。


「……おいし」


 聞き逃しそうなくらい、小さな声だった。

 でも、その一言が妙に重い。

 麻貴が買ったのは、所詮コンビニの総菜パンだ。百数十円の、どこにでもあるやつ。それなのに、まるで久しぶりに食べたみたいな言い方だ。

 麻貴は敢えて何も言わなかった。代わりに、少し隙間を空けてベンチに座り、遠くを見やる。

 夕陽が坂道の先に沈みかけていた。どこかの家から子供の騒ぐ声と、叱る母親の声が聞こえてくる。風が吹いて、汐織の長い黒髪がわずかに揺れた。

 少しの沈黙。

 パンを半分ほど食べたあたりで、汐織の目がわずかに潤んだのが見えた。

 泣いているのかと思ったが、そうではないようだ。でも、堪えている。何かを、必死に飲み込もうとしているのだけはわかった。


「ごめんね……気持ち悪いよね、私」


 その声は、自分に向けた言葉のように小さかった。よく聞こえず、訊き返す。


「ん? なんだって?」

「な、なんでもない! なんでもないからッ」


 汐織は慌てて笑顔を作り直して、両手を振って誤魔化そうとした。でも、その笑顔は明らかに急いで貼りつけたもので、継ぎ目が見えていた。


(……さっき、なんて言ってた? 気持ち悪い?)


 麻貴は怪訝に彼女の顔を覗き込んだ。


「ほんとに大丈夫かよ? 病院、行くか?」

「ううん、ほんとに大丈夫だから。ちょっと独り言言ってみただけ」

「そっか」


 大丈夫だというなら、それ以上訊くのも野暮だ。

 麻貴はパンを噛みながら、坂の下に広がる夕焼けを眺めた。

 少しの沈黙。それからぽつりと、当たり前のことを当たり前に口にした。


「……別に、美味いもんは美味いでいいんじゃねーの? コンビニでも、ファミレスでも」


 何となく、さっき彼女が口にした『気持ち悪い』という言葉は、惣菜パンを美味しそうに食べている自分自身に向けられているような気がした。

 勘違いかもしれない。でも、もしそうだったら、何か否定したかった。

 隣で、汐織が小さく息を呑む。


「……うん。そうだね」


 それから、小さく呟いて。総菜パンを、口に含んだ。

 日がさらに傾いていた。坂道に長い影が伸びて、空の色が橙色から淡い紫に変わりかけている。

 パンを食べ終えていたものの、汐織の顔色は、まだ悪かった。本調子には遠いと見てわかる。

 麻貴は少し迷ってから、短く言った。


「こんなとこにいるのもあれだし……うち、寄ってく? すぐそこなんだけど」


 言ってから、すぐに後悔した。

 ほとんどしゃべったこともない女子に、何を言っているんだ。

 しかも、まさかの篠宮汐織を相手に。学校で一番の美少女と言われてるクラスメイトに向かって一人暮らしの男の家に寄っていけだなんて、どう考えても失言だ。こちらの下心を疑われ兼ねない。

 汐織がぱっと顔を上げた。


「えっ? でも、それは……さすがに迷惑じゃない?」

「別に。しんどいなら休んでけばいいんじゃねーのってだけ。あ、嫌じゃなかったらな」


 ぶっきらぼうに付け足す。

 色んな勘違いを生み出しかねない危険な提案だと自覚しつつも、彼女を放っておけなかった。そんな自分の性分が、少しだけ腹立たしい。

 汐織は少し考え込むように、俯いた。

 長い沈黙──に思えたが、実際には数秒だっただろう。彼女は小さく頷いた。


「じゃあ……少しだけお邪魔しちゃおっかな。迷惑かけて、ごめんね」

「お、おう」


 想定外の答えが返ってきて、自分で提案しておきながら狼狽えてしまった。

「お、おう」と答えつつも、内心は(マジかよ)だ。

 断られる前提で言ったのに。いや、断られたらそれはそれで気まずいから、どっちに転んでもまずかったのだが。自分で言ってしまった手前、今さら引くわけにもいかない。


「えっと……こっち。あそこの坂、上がったとこ」


 それだけ言って、麻貴は歩き出した。



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