第1章 召喚
暗闇の中で、何かが崩れ落ちるような音を聞いた。
遥人は一瞬、稽古場で竹刀が床に倒れる音かと思ったが、次の瞬間、視界が白に塗りつぶされる。
胸がざわめき、地に足のつかない感覚に思わず息を呑んだ。
「召喚は成功です! 勇者殿をこちらへ!」
耳に入ってきたのは、どこか芝居がかった声。
目を開けると、そこは道場ではなく、石造りの広間だった。
壁に松明が揺らめき、装飾が施された天井は高く、荘厳な雰囲気を放っている。
「ここは……どこだ?」
声に出した瞬間、自分の声がやけに響く。
周囲を見渡すと、豪奢な衣をまとった人々が列を成して立っていた。
甲冑姿の兵士たちが槍を構えているところに、ひときわ目立つ男が歩み出てくる。
「おお! ついに現れたのですね、異界の勇者殿!」
その男は、やけに腰の低い仕草で両手を広げてきた。
四十代ほどだろうか。丸顔で笑みを浮かべ、額には汗を浮かべている。
後に知ることになるが、彼はこの国の大臣のひとりであり、召喚された戦士たちの世話をする役割を担っている。
「私の名はジークフリート・フォン・アルテンブルク。この度は、我ら人間族の国《リューネブルク王国》にお越しいただき、感謝の念に堪えませぬ。どうかどうか、末永くご助力を……」
膝を折り、まるで下僕のように頭を垂れた。
おそらく高貴な身分であろう人間の、もったいぶった態度に、遥人は思わず眉をひそめる。
(なんだ、この芝居がかった様子の男は?)
そんな疑念をよそに、周囲の兵士や侍女たちは「さすがはジークフリート様」とでも言いたげに視線を向けている。
「俺は……遥人だ。小林遥人… いや、ハルト・コバヤシかな…」
遥人は、回りが外国人ばかりなので、姓と名を入れ替えて、名乗った。
「ハルト殿、ですね! なんと良き響き!」
ジークフリートは、大げさに腕を広げ、周囲に微笑んだ。
遥人は肩をすくめた。
現代社会で剣道に打ち込みすぎて、周囲から浮いていた自分。
結局「剣が強くても生活に役立つわけじゃない」と虚しさを抱えて生きてきた。
そんな自分が今、異世界に呼ばれている。
兵士… 勇者… 甲冑…
この状況に、妙な高揚感が湧きあがるのを感じていた。
そのとき、背後から低い声がした。
「大臣様、勇者殿が困っておいでです」
遥人が振り返ると、そこには一人の女剣士が立っていた。
鋼色の甲冑に身を包み、長い金髪を後ろで結んでいる。
凛とした雰囲気をまとい、腰の剣に手を添えている姿は、まさに戦場の武人という印象だ。
「これは、私の護衛であり剣士の――イルゼ・ブラントです」
ジークフリートが紹介する。
イルゼと呼ばれた女剣士は軽く会釈したが、その瞳には冷たい光が宿っていた。
遥人に向かって女剣士はいった。
「……勇者殿。ハルト殿にはこの地で戦士となっていただきます」
「戦士?」
「我々、リューネブルク王国は、魔物たちとの戦いの中にあります」
そんな状況で召喚された遥人に、このような丁重な扱い。
やるべきことは、なんとなく想像がついた。
「勇者殿といえど、甘やかされることはない。戦場に出れば命は等しく散ります。覚悟はよろしいか」
初対面の言葉にしては、随分と辛辣に思えた。
しかし、遥人にはどこか心地よく響いた。
媚びへつらう大臣より、まっすぐな眼差しを向けるこの女剣士の方が、ずっと信頼できそうに思えたのだ。
ジークフリートは肩をすくめる。
「イルゼは武人上がりでしてな。礼儀というものを知らぬ。お気を悪くなされますな」
その声音には、どこか含みがあった。
イルゼは顔をわずかにそむける。
どうやらこの二人の間には複雑な事情があるらしい、と遥人は察した。
その夜。
遥人は客人用の部屋に案内され、与えられた寝台に腰を下ろした。
(剣道に打ち込んできた俺が、こんな場所で戦うことになるなんて…)
思い返すのは、道場での日々。
周囲と噛み合わず、孤独を抱え、やがて「剣に意味なんてない」と投げやりになっていた自分。
だがこの世界では、剣は生死を分ける力になる。
(もしかしたら… この世界の方が、俺には合っているのかもしれない…)
そう思ったとき、胸が熱くなるのを感じた。
その瞬間――扉が静かに開いた。
振り向くと、そこにはイルゼが立っていた。
「眠れぬ様子ですね、勇者殿」
「……あんたか。どうした?」
「少し話があります」
イルゼは部屋に入ってきて、扉を閉めた。
月明かりに照らされた横顔は険しく、それでいてどこか影を帯びている。
「あなたの戦士としての力量はいかほどのものでしょうか」
「それは、正直わからない」
「わからない?」
「俺は戦のない世界から来た」
「それは… 本当ですか?」
イルゼは動揺した様子だった。
当然だ。
戦士として召喚された人間から、戦いを知らない、と告げられたのだから。
あわてて遥人は続けた。
「それでも剣の修行はしてきた。剣士として戦うつもりもある」
「…それについては、訓練場で確かめさせていただきます」
ふと気になって、遥人はいった。
「あの大臣。名前は何といったかな」
「ジークフリート様のことですか」
「信用できる人だろうか」
彼女は低い声で答えた。
「おそらく」
「おそらく?」
「…あなたが剣士として優れていれば、あの方もあなたの味方となってくれるでしょう」
「もちろん、それはそうだが…」
「信用できませんか」
「……」
「昔のジークフリート様は、あんな人ではありませんでした。武を尊び、民のために尽くす方でした…… だが、出世するにつれて変わってしまわれた。今のあの方は、自分の保身しか考えていません」
淡々とした言葉の裏に、深い悔しさがにじむ。
「私はあの方には恩があります。だから私は…」
「あんたの都合は聞きたくない」
イルゼは遥人を、キッと睨むといった。
「では、勇者殿。あなたはどうか? この国に尽くす覚悟はありますか?」
突きつけられた問いに、遥人は言葉を詰まらせた。
まだ来たばかりで、何も分からない。
だが――剣を振るうことに、ここで意味を見出せるかもしれない。
「……俺は、戦ってみたい。自分の剣が、この世界でどこまで通じるか確かめたい」
そう答えると、イルゼの青い瞳が、すっと澄んだように見えた。
やがて小さく頷く。
「あなたには剣士としての素質がおありなのかもしれない。なら、戦場で確かめられるといい。…もし生き残れたなら、の話ですが」
そう言い残し、彼女は扉の向こうへ消えていった。
月光の差す部屋に独り残された遥人は、胸の奥が不思議と高鳴っていることに気づいた。
剣道家としての自分が、ようやく居場所を見つけたような感覚。
ここでなら、自分らしく生きられるかもしれない…