そして日常へ
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崖上の激闘から数日。リットサヘ村にも、ようやく静けさが戻りつつあった。
大きな蜂の巣が焼かれ、そして女王蜂が倒れたことで、残っていた蜂たちは統率を失い、四散した。脅威が去ったことを察したのか、村の上空には再び小さなミツバチたちの姿が戻ってきている。
果樹園へと向かう小さな羽音は、村のざわめきに溶け込みながら、どこか平和の匂いを運んでくるようだった。
レモン男爵は邸の執務室で、事件の全容を文書にまとめていた。
原因の特定には至らなかったものの、巨大蜂の特徴、行動、被害範囲、そして対応策……どれも、今後また何かが起きたときに備え、記録として残しておかねばならない。
「……そして、対策に最も貢献したのは――熊乗りの元軍人、スナエル・ビョルトゥン」
ペンを置いた男爵の手が、ふと止まる。
窓の外から、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
「バムセ! バムセ! こっちだよ!」
「大きいけど優しい! 毛並みもふわふわだ!」
レイモンドは微笑んだ。
バムセ――あの巨大な軍熊は、今や領内の人気者だった。
「遅れました!」
扉がノックされるとともに、スナエルが控えめに顔を覗かせた。
顔には少し申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「子どもたちがバムセを放してくれなくて……それで、つい長居を」
「構いませんよ。彼らにとっても、そして我々にとっても、英雄なのですから」
レイモンドはスナエルを手招きし、椅子を勧めた。
スナエルは深く腰を下ろし、ようやく一息ついたように肩を落とす。
「落ち着いたら、また旅をされるおつもりですか?」
レイモンドの問いに、スナエルは首を横に振った。
「いや……バムセが、どうにもここを気に入ってしまったようで」
「バムセが、ですか?」
「あいつ、妙に勘が良くてな。騒ぎが収まってから、果樹園を見て、子どもたちに囲まれて……動こうとしなくなった。何度か言って聞かせたんだが、あれは“ここに居たい”って目をしてたよ」
レイモンドは目を細めた。
バムセのあの柔らかい目を思い出す。戦場では恐ろしい咆哮を放つ獣だったが、今や子どもたちに優しく撫でられる村の守り神のような存在だった。
「……俺も、ここに残るよ。バムセの意思が、俺の答えだ」
「嬉しい言葉です。正式な礼は、また改めて申し上げましょう」
「礼など……俺のほうこそ、こんな居場所をもらえて感謝してます。昔の仲間に話したら、驚くだろうな」
その言葉に、レイモンドも静かに笑う。
「資料がまとまり次第、王都に報告を上げます。領民たちの努力、そしてあなたとバムセの勇気も、しかと記すつもりです」
スナエルは少し照れたように笑い、立ち上がる。
「そろそろ、あいつの昼飯の時間です」
「……そうでしたね。ではまた、後ほど」
「失礼します」
スナエルが扉を開けて出ていくと、すぐに再び子どもたちの歓声が響きはじめた。
「うわーっ、バムセ、ごはん食べてる!」
「もふもふタイムだー!」
レイモンドは微笑みながら窓の外を見やる。
こうして、ラントルベン男爵領の夏は、穏やかに深まっていった。