新たな風と未来への咆哮
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ラントルベン領の夏は静かに進んでいた。精油による香煙の効果で、大型蜂たちの動きは幾分か緩やかになっていた。
だが、それをもって「落ち着いた」と言える状況ではなかった。
圧迫された蜂の生態系が、この先どこへ向かうのか──それを予見できる者はいなかった。
ある静かな昼下がり、リットサヘ村の対策本部に、一人の獣人が姿を見せた。白毛が混じる分厚い体毛と、額に浮かぶ月形の模様。そしてその背に寄り添う、堂々たる白熊――。
「名を、スナエル・ビョルトゥン。こいつは相棒のバムセ。旅の途中でポスターを見てな。どうにも心に響いた。立ち寄るだけのつもりだったが……村の空気を感じて、考えが変わった」
その声には落ち着きがあり、よく通った。彼の語る言葉には、年輪と経験に裏打ちされた信頼感があった。
村の人々は、彼の大柄な姿に最初こそ構えたが、同行するバムセが静かに佇む姿を見て徐々に警戒を解いた。
子どもたちは「おっきい!」と歓声を上げ、バムセの厚い毛並みに手を伸ばそうとしては、親に止められる――そんな微笑ましい光景すら生まれていた。
スナエルは旅の目的をこう語った。
「俺が歩くのはな、バムセが『ここが好きだ』と座り込む土地を探してるからさ」
その言葉にレイモンド男爵は強く惹かれた。自然と生きる獣人と、その相棒。今この領地に必要なのは、まさにこうした“命との共存”を知る者ではないかと。
男爵は対策本部に彼を招き入れた。従来は村の猟師や魔法使いを中心に話し合われていたが、スナエルの言葉には「自然の呼吸を読む者」ならではの視点があった。
「蜂の目は光に、鼻は匂いに鋭敏だ。でも、動きには鈍い。刺激せず、視界と嗅覚の線を切るように立ち回るんだ」
彼の言葉に、誰も異を唱えることはなかった。初動を誤ったレイモンドも、今は素直にその知恵を受け入れる覚悟がある。こうして、反撃の作戦が本格化していく。
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作戦が練られる最中、村を脅かす予兆が現れた。
リットサヘ村の近くに数匹の“先遣蜂”と思しき大型蜂が現れたのだ。精油の煙に惑わされながらも、その何匹かは別のルートを見つけて村へと近づいていた。
蜂に気づいたのは、以前、精油を焚く提案をしたあの少年だった。焚き木の補充のために畑に出ていた彼は、不意に「ブウウゥン……」という嫌な羽音を聞いた。
「やば……!」
走り出そうとした、その刹那――蜂が一斉に彼へ向かって急降下する――!
バシュッ!
空気が裂ける音とともに、地面に叩きつけられた蜂。振り返ると、巨大な白熊が地を蹴り、もう一匹の蜂に噛み付こうとしていた。
「下がってろ」
静かに、しかし確かな重みのある声が響く。
スナエルとバムセがいた。
彼は懐から引き出した煙玉のようなものを地面に投げ、甘い香りを立てた。蜂の動きが一瞬止まる。
その隙に、スナエルの手が伸び、鋭く研がれた短剣が蜂の腹に突き刺さる。バムセは大きな前足で二匹目を弾き飛ばし、蜂は木の幹に激突して落下した。
残った蜂も逃げるように飛び去っていった。
「無事か、坊主」
「あ、ありがとう……!」
少年の瞳に映ったのは、まるで物語の中から抜け出したような英雄の姿だった。
この一件で、村人たちはスナエルとバムセに心を開いた。そして、彼がただの旅人でも、獣人でもなく、「必要な助っ人」であると確信した。
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作戦決行の日、月のない夜が選ばれた。
断崖の先に潜む本隊の巣は、岩の陰に巧妙に隠されている。奇襲に適した夜闇の中、スナエルを先頭に、レイモンドの手配した討伐隊が静かに進む。
スナエルの手には小さな木箱。中には、彼が“閃光石”と呼ぶ、強い光と音を放つ拳大の石が入っていた。
バムセが先行し、静かに地を蹴る。蜂の巣の手前に置かれた“囮”のハチミツ壺。その香りに、本隊の蜂たちがざわつき始める。
「――今だ!」
スナエルが叫び、閃光石を放る。
ピカッ!
白い光が闇を裂き、直後に「パァン!」という炸裂音。蜂たちは一斉に舞い上がり、視界と聴覚を失って混乱する。
その隙に、スナエルとバムセが突撃。
白銀の熊が咆哮をあげると、怯えた蜂が散開する。スナエルの斧は次々と蜂の体を裂き、村の猟師たちも後方から矢や火の魔法で援護。
戦いは激しく、短く、そして決定的だった。
蜂の本隊は壊滅した。
だが、蜂たちの動きに、中心的な存在――つまり「女王蜂」がいないことにスナエルは気づく。
「まだ、いるな……巣の本体が」
彼は静かに立ち上がり、崖の方を指差した。
「俺とバムセで行く。あの崖の奥に、必ず女王がいる。動きに“統率”の気配がある。指示を出してるのは、間違いなくそいつだ。」
スナエルの声には、確信と静かな闘志が込められていた。
バムセは低く唸り、鋭い視線で断崖の奥を見つめている。あの向こうにすべての元凶がいるのだと、本能で察しているのだろう。
レイモンドは一瞬、言葉を失った。
彼の中にも、女王蜂の存在は濃い影のように感じ取れていた。だが、スナエルとバムセだけを危険な前線へ送ることに、迷いがあった。
「いや、君たちだけには任せられない」
レイモンドは前へ出て、厳しくも温かい声音で言った。
「私も行く。選抜した精鋭を率いて、護衛蜂の包囲を切り開こう。君たちは、その間に女王を討ってくれ」
スナエルは驚いたように眉を上げたが、すぐに小さく頷いた。
「……頼もしいな。じゃあ、道を開いてくれ」
「任せろ」
レイモンドは短く答え、剣の柄に手をかけた。
「……これが、我々の領を守る最後の戦いになるだろう」
朝が来ようとしていた。陽はまだ昇らず、空の底に冷たい風が吹いていた。
崖の向こう、見えぬ巣に潜む女王蜂の羽音が、まるで心臓の鼓動のように、静かに空気を震わせている――。
こうして、最終決戦が始まる――。
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未明の静寂の中、ラントルベン男爵領の東にある切り立った崖。その上には、蒼黒い闇が静かに広がっていた。空気は冷え、潮の香りと蜜の甘さが混ざり合い、どこか異様な空気を漂わせていた。
スナエル、バムセ、そして男爵率いる少数の選抜隊が、女王蜂の巣を目指して進んでいた。
東沿岸に近い断崖の中腹に、異様な形状の巣が見えた。
灰褐色の曲面が幾層にも重なり、脈動するようにうごめいている。闇に溶けるようにして息づくその姿に、誰もが息を飲んだ。
「……ここが本丸か」
レモン男爵は、沈黙を破ってそう言った。
彼の瞳は巣を見据えているが、その背には領地と民を背負う者としての覚悟が滲んでいた。
その隣で、スナエル・ビョルトゥンは鋭い目を光らせて周囲の様子を探る。
「……外周の警戒が主だな。まだこちらには気づいてない。だが、数と位置取りから見て……」
低く呟きながら、スナエルは視線を這わせるように周囲を読み取っていた。
「……悪くない布陣だな。巣に近づけば一気に警戒を強めてくる。ここで奴らの注意を引いて分断しないと、女王までたどり着けない」
「つまり、露払いが必要だな」
レイモンドが頷くと、少数精鋭の選抜部隊が身構えた。
彼らは蜂の性質――音には鈍く、視覚と嗅覚に敏感――を踏まえ、極力動きを抑えながら配置につく。
レモン男爵は自ら前線に立った。
そして、合図と共に――
パシュッ!
閃光石が放たれ、崖の中腹で閃光と鋭い音が炸裂した。
一瞬で巣の外周がざわめく。
巨大な護衛蜂たちが、うねるように巣の外へ飛び立った。
「来たぞ……!」
男爵と選抜隊が弓と剣を手に迎撃する。
鋭く迫る羽音の中、矢が正確に羽根を射抜き、斬撃がその軌道を裂いた。
男爵自身も短剣を抜き、迫る一体に冷静な動作で一閃を入れる。刃は胴体の接合部を正確に裂き、虫の巨体を地に沈めた。
その混乱の中――。
スナエルとバムセは、護衛蜂の動きが外に逸れた隙を突いて、崖の巣へと一気に接近した。
「行くぞ、バムセ……!」
咆哮と共にバムセが崖を駆け上がる。その質量と速度は護衛蜂では止めきれず、数体が跳ね飛ばされ、スナエルが斧で残りを振り払う。
巣の影から、女王蜂がその姿を現した。
巨体は他の蜂を遥かに凌ぎ、腹から突き出た毒針は異様なまでに長い。鍛え抜かれたレイピアのように光を弾き、硬質な威圧を放っていた。
「……あれが本体か」
スナエルが唇を引き結ぶ。
女王蜂が飛び上がる。
バムセが真正面から迎え撃ち、その針と爪が激しくぶつかり合った。
キィィィン――!
鋭い金属音が崖の岩壁に反響する。
バムセが押し返し、スナエルがその隙を狙って斧を振るうが――女王蜂は軽やかに舞い、空中で回避。
そのまま一閃。鋭く、低く地を滑るような突進がスナエルに向けて放たれる。
その動きは、明らかにさっきまでとは異なっていた。
空気が一瞬、凍ったような気配。
「……何かが、変わった」
と、レイモンドが僅かに目を細めた。
羽の動きに迷いがなくなり、針の軌道が鋭く洗練されている。
目が――いや、光の反射が妙に引っかかる。色ではない。
その目が、どこか熱を孕んだような、見てはならない何かを含んでいた気がした。
覚醒――それは知性を伴った本能の開花。
女王蜂は、静かに、しかし明確に「殺しにかかってきて」いた。
スナエルが押される。
斧を構えきれず、胴体に針が迫る――。
そのときだった。
シュッ――!
レイモンドの剣が、静かに、正確な軌道で空を裂いた。
女王蜂の視線がわずかに逸れ、突き出されていた針が空を切る。
「……あんたも、やるじゃねぇか」
スナエルが息を吐きながら呟いた。
その一瞬の隙に、バムセが割って入る。
爪が針を弾く。金属のように硬い刃同士が再び激突し、火花が散る。
スナエルが斧を持ち直し――
「終いだァ!」
渾身の力を込めた斧が、女王蜂の羽根の付け根へと振り下ろされた。
刃は深々と食い込み、女王蜂が絶叫と共に墜落する。
崖の巣に、その巨体が叩きつけられた。
――静寂。
蜜の香りが風に流れ、夜が明け始める。
東の空がわずかに白み、そして――朝日が、その縁を照らした。
それを迎えるように。
バムセが、天に向かって咆哮した。
その声は深く、力強く、
眠りから目覚めるラントルベンの大地に、確かに新たな一日を告げていた。