エレガンティアの賑わいと不吉な知らせ
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ベルギア王国ラントルベン男爵領の領主であるレイモンド・ラントルベン男爵、通称レモン男爵は、晴れやかな気分でエレガンティアの街路を歩いていた。
――この街に来るのは、いつ以来だったろうか?
目的地は、豪奢な屋敷だった。建物の名は――というより、所有者の愛称から“エレガンティーク・クラブハウス”と呼ばれている。
「ふう……緊張するな……」
自分でも呟くように言いながら、レモン男爵は浅く息を吸った。
周囲を歩くのは絹やビロードを身にまとった、都会育ちの貴族たち。どれも華やかで、どこか隙がなく、地方で育った彼にとってはやはり眩しい世界だった。
レモン男爵が宿を取っていたのは、街の南にある控えめなホテルだった。高級宿に泊まれるほど予算は潤沢ではないし、領主とはいえど地方の男爵である自分が、社交界の上層部に名を連ねる必要もない。ただ、いくつかの宴に顔を出し、自領の特産物――ブドウやリンゴ、レモン、そして特製のミードなどを売り込むこと。それが今回の目的だった。
そんな中、届いたのがシャーロット・アントワネット侯爵令嬢からのお茶会の招待状だった。
「やけに上等な紙を使っているな……」
ひと目見て、彼は苦笑した。彼女は、花の都ニーレンを治める名門家の令嬢。年は自分とそう変わらないが、その気品と交友の広さには定評がある。
「まぁ、行かぬ理由もないな。宣伝になる良い機会だ」
そう思って出席を決めたのが、数日前のことだった。
今日は自領の名産を紹介する好機でもある。果樹園に囲まれた田舎の領主として、貴族の輪に加わるには、こうした場に立ち続けるしかない。
今回は“果物の売り込み”という、領地を背負った公的な使命がある。気後れしている場合ではないのだ。
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エレガンティーク・クラブハウスに到着すると優雅な使用人たちが出迎えてくれた。庭園は精緻な剪定が施され、美しく整っていた。
振る舞われる茶と菓子は香り高く、客人たちは緩やかな笑い声を響かせていた。レモン男爵はあまりこの手の華やかな場が得意ではなかったが、今日は不思議と気楽だった。
その理由の一つは、向かいの席に座った人物の存在である。
「ええと、あなたは……ラントルベン男爵?」
声をかけてきたのは、若い女性。髪は艶やかに整えられ、瞳には賢さと穏やかさを湛えている。
「は、はい。ラントルベン男爵領のレイモンドです。失礼ですが……?」
「私はクレア・ノーブル。フロリスのノーブル伯爵家の次期当主です」
「おお……それは、それは」
思わず背筋を正す。首都の有力家の令嬢。それも、次期当主――若くしてその立場にあるということは、相応の覚悟と実力があるに違いない。
「ラントルベン領……あまり聞き覚えがありませんでしたが、果樹園が多いとか?」
「ええ、ブドウやリンゴ、レモン、それにミードも少し」
「まぁ……素敵ですね。果実の香りには、何か人を惹きつける力がある気がします。」
受け答えには無駄がなく、レモン男爵の緊張をほぐすように、自然な微笑みを返してくれた。
次に声をかけてきたのは、帝国の男性だった。
「どうも、リチャード・エヴァンスと申します。アストラヴェール南部、ヴァンドヴァレーヌという地を治めております」
「これはご丁寧に。レイモンド・ラントルベンと申します。……ヴァンドヴァレーヌといえば、農業地帯で有名ですね」
「ええ、ちょうど今、うちの村では薄く切った芋を油で揚げた菓子が流行っておりましてね。農作物の新しい活用法だと、少し話題に」
「それは……面白い発想ですね。うちの領地では、そろそろブドウが収穫の季節を迎えまして」
「おっ、ブドウか。それもいいな。実はうちでもワイン用に栽培してるんです。『ヴァンドヴァレーヌの風』なんて、名前までついているくらいでね」
「その響き、素敵ですね……。風のような味わいとは」
「市井の酒場でたまに飲むのですが、本当に風みたいに爽やかなんです。今度、ぜひそちらのワインも飲んでみたいな」
「光栄です。機会があれば、お届けしましょう」
ふたりは笑い合いながら、農業と食の話で盛り上がった。土の香りを知る者同士の会話は、華やかな場にあっても、どこか素朴で温かな空気を漂わせていた。
気がつけば、彼はエレガンティアでの空気を、ほんの少しだけ楽しんでいたのだった。
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日も傾き、会は緩やかに終わりを迎える頃だった。
レモン男爵が宿泊先のホテルへ戻ったとき、一台の馬車が玄関前に停まった。
馬車から降りた青年は、息を弾ませたまま従者に封蝋の乱れた書簡を手渡す。
「……領地から、急報です」
差し出された手紙を開くと、そこには簡潔ながら重大な文が記されていた。
【報告:領内にて巨大な蜂の目撃情報あり。人里にも接近の兆候あり】
しばし、男爵は書簡を手に沈黙した。
(蜂……いや、ただの虫なら騒ぎはせぬ。――相当な大きさか)
顔を上げたときには、社交の場で見せていた柔らかな表情は消えていた。
「すぐに馬車の準備を。関係各所に連絡を――三日後には出立する。」
数日後。出席予定だったお茶会や宴への欠席を全て伝え終えた夜明け前、男爵は馬車への荷詰めを見守っていた。
宿代は支払い、別れの挨拶も済ませた。それでも、その足はほんのわずかに止まっていた。
「……この春には、収穫が始まるはずだった」
誰にともなく呟く。それは先日の茶会で交わした、リチャード様の領地で流行する芋菓子や、葡萄の収穫の話を思い出したからだ。
「……春風のようなワイン、か。うちの葡萄が、それを作れる日は来るのか」
昨晩、領地から届いた二通目の手紙が脳裏をよぎる。
【リットサヘ村にて再び蜂の被害あり。作業員一名、負傷。安静中】
簡素な文面の裏に、村の焦燥と不安が滲んでいた。
いくらエレガンティアでの交際が重要でも、領主の務めは領地にある。
考えを巡らせているうちに、荷詰めは終わっていた。
男爵は静かに馬車へ乗り込み、宿を後にする。
揺れる車中、窓外の街並みに目をやりながら、低く息を吐いた。
「……ままならぬものだ。もう少し、笑っていられると思っていたのだが」
社交界で得た小さな縁は確かに嬉しかった。だが、男爵の第一は――あの土地で生きる人々だった。
レモンの花に群れる蜂を思い浮かべると、胸の奥に重い予感が広がった。
まだ夜明けきらぬ街を、男爵の馬車は静かに後にした。
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馬車の揺れが、街の石畳から未舗装の街道へと変わっていく。
市街の喧噪は徐々に遠のき、やがて木々が影を落とす静かな道に入った。
「ラントルベンへ、か。……遠いようで、やはり恋しいものだな」
エレガンティアの賑わい、貴族たちの華やぎ。
クレア様との凛とした対話、リチャード様との気さくな会話。
どれも悪くはない。
だが、それらは心を浮かせるものであって――根を下ろす地ではなかった。
彼には、根ざすべき土地がある。
馬車の車輪が土道を噛むころには、優雅な食卓と華やかな笑顔が残る都の空気も、すっかり背後へと遠ざかっていた。
「……やれやれ。陽が落ちる前に、今夜の宿場町には着きたいものだな」
レモン男爵は小さく息をつく。
旅慣れていないわけではないが、数日がかりの帰郷はやはり骨が折れる。
数日後の早朝――
霧の立ち込める街道の先に、見慣れたケアバイ山の稜線がうっすらと浮かび上がった。
車輪の下を流れる土の感触が、やわらかく湿り気を帯びていく。
風が鼻先をかすめ、林の向こうから、果樹園の甘やかな匂いが漂ってきた。
この香りは、忘れようもない。
「ただいま、ラントルベン」
男爵は小さくそう呟いた。
声は馬車の中で静かに吸い込まれたが、そこには確かに、安堵と覚悟が宿っていた。