04. 王宮の恐怖
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セルカディア王宮は、足音すらも耳に残るほど、異様なまでに静まり返っていた。
まるで「音」という異物を、この王宮が一切許していないかのように。
だが、リオネル・バレンには分かっていた。
この静寂の裏では、常に見えない監視と、政治的な気流が流れていることを。
白い石造りの回廊、陽光を受けて輝くステンドグラス、壁にかけられた金色のカーテン。
一見するとエイルナス王宮の内装と似てはいたが、自分たちの小さな足音や声ひとつすら、近衛兵たちの目と耳に捉えられている。
そんな空気が、肌を刺すように伝わってきた。
命を守るために仕方なくこの地へ逃れてきたとはいえ、ここは鉄格子のない牢獄。
一言、一動で処刑されかねない、氷の上を歩くような危うさに満ちた場所だった。
アイレナはリオネル・バレンの腕をそっと掴み、周囲を見渡しながら言った。
「……団長、なんだかこの王宮……ぞっとするほど怖いよ。あの近衛兵たち、きっとずっと私たちを見てる。いつでもどこでも、盗み見るように」
「それは錯覚ではありません。王宮とは、もともとそういう場所なのです。沈黙の中、四六時中、監視の目が光っています。あの者たちの視線と耳は、常に我々に向けられているでしょう」
リオネル・バレンはアイレナの耳元に顔を寄せ、他の者には聞こえぬよう低く囁いた。
「そして、我々がこの王宮に到着したという事実は、いずれこの王宮全体──さらにはクラディア帝国にまで知れ渡るでしょう。そうなれば、この地に我々が留まる『名分』も……次第に薄れていくはずです」
リオネルの穏やかな説明が、かえって一層深い恐怖を呼び覚ました。
アイレナは小さく唾を飲み込んだ。
「今は……仕方ありません。陛下のご厚意により、あなたを隠すためには、この手段しかありませんでした。もうしばらく……耐えてください。いずれ、自らの意思であれ、他者の手であれ、我々はこの地を去る運命にあるのです」
二人は、近衛兵たちに聞こえぬほどの小声で囁き合った。
だがその囁きすらこの静寂の宮のどこかでは、すでに漏れ聞かれていたのかもしれない。
「お話はお済みでしょうか?陛下のご命令で、お二人様をお部屋へご案内に参りましたが……よろしいですか?」
まるで先ほどの会話すべてをすでに聞いていたかのように、金色の髪を持つ若い女性が、にこやかに微笑みながら二人の前に現れ、丁寧に一礼した。
「ああ、ちょうど待っていたところだ。案内してくれたまえ」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
アイレナは掴んでいたリオネル・バレンの腕からそっと手を離し、まるで先ほどまで怯えていたのが嘘のように、できる限り低く落ち着いた声を作って彼女の後を歩いた。
怯えている自分を、気づかれないようにするために。
だが、リオネル・バレンはすでに知っていた。
その証拠にアイレナの小さな拳は、かすかに震えていた。
女性が二人を案内したのは、城の庭園が一望できる部屋だった。
窓の向こうにはバラやさまざまな花が咲き誇り、中央には小さな噴水が清らかな水を静かに吹き上げていた。
空は雲一つなく晴れわたり、部屋の中は質素ながらも丁寧に整えられていた。
白い刺繍が施されたベッドが二台、木製の椅子と机、長く垂れた白いカーテンがきちんと並んでいた。
セルカディア王宮の内部らしく、整然とした静けさが漂っていた。
「こちらが、お二人にしばらくお過ごしいただくお部屋でございます。少しお休みいただいてから、お食事をお持ちいたします。お風呂はその後でよろしいでしょうか?」
リオネル・バレンは軽く頷いて答えた。
「感謝する。どうか陛下にお伝え願いたい。この恩義、エイルナス王国は決して忘れぬと」
女性は静かに頭を下げた後、木の扉を閉めながら言った。
「お疲れでしょうから、これで失礼いたします。ごゆっくりお休みくださいませ」
軋む蝶番の音と共に、扉がごとんと閉まった。
「はあ……」
扉が閉まった瞬間、アイレナは安堵の吐息をつきながら、ベッドに身を投げ出すようにして倒れ込んだ。
リオネル・バレンもマントを脱ぎ、椅子にかけると、向かいのベッドに静かに腰を下ろした。
一晩中、気を抜くことすらできなかった彼らの身体は、すでに限界を迎えていた。
「そなたに問おう。あの子の正体──どう思うかね? わしには到底、ただの避難民の子供とは思えんのだが」
一方その頃、国王レオナルド・セリオンは、口の堅いただ一人の重臣を密かに呼び出し、秘密の会議を開いていた。
「エイルナス王国の騎士団長、リオネル・バレンが傍にいる時点で、ただ者ではありますまい。おそらくは高貴な家柄の御子息、いや……王女である可能性もございます」
そう答えたのは、腹の内を誰にも読ませぬ銀狐との異名を持つ男、ジルベール・デュランであった。
その異名の通り、狡猾かつ抜け目のない策士であり、レオナルド王が最も信を置く家臣の一人である。
「ふむ……ということは、エイルナス王国は既に滅んだ、ということか?」
「その可能性が高うございます、陛下。でなければ、何の使者も手紙も寄越さず、あの二人だけが来るなど説明がつきませ。国王と王妃はすでに捕らわれ、彼ら二人だけが命からがら逃げ延びた──そう仮定すれば、全ての辻褄が合います」
国王レオナルド・セリオンは顎に手を当て、しばし沈思した。
「さて、どうなさいますか? エイルナス王国が滅んだということは、次に狙われるのは我が国かもしれません。そうなる前に、あの二人を──」
しかし、ジルベール・デュランの言葉が終わらぬうちに、レオナルドは静かに手を上げ、発言を制した。
「……陛下?」
「今はまだ判断する時ではない。あの子の存在については、当面の間……我ら二人だけの秘密としよう。我々にとって益となるか、災いとなるか、まだ分からぬ」
ジルベール・デュランは、口元をわずかに歪めて、静かに頭を下げた。
「御意にございます、陛下。兵たちの口封じは、私が責任をもって行いましょう」
「……頼む」
一礼したジルベール・デュランは、静かに玉座の間を後にした。
その直後、彼は信頼のおける兵士を呼び、低い声で命じた。
「誰にも悟られぬよう、あの二人を徹底的に監視せよ」
「はっ、承知いたしました、公爵閣下」
ジルベール・デュランは空を見上げ、澄み渡る青空の下で、どこまでも狡猾な笑みを浮かべながら、ぽつりと呟いた。
「もしクラディア帝国がこの地を侵攻してくるなら……あの二人は、我らの交渉材料として極めて有用な存在となるだろう」