第7話「屋敷の朝と剣の風」
ヴァレンティア邸は、アーク王国でも屈指の規模を誇る大貴族の邸宅だ。 敷地は王城に次ぐ広さを持ち、城壁に囲まれた一つの街区と言っても過言ではない。複数の中庭や馬場、訓練場、文庫、客人用の離れに至るまで、あらゆる設備が揃っている。
常時動く使用人は五十名以上。清掃、料理、管理、警護、それぞれの職務に誇りを持った熟練の者たちばかりだ。
その屋敷の一角、中庭に面した訓練場にて、私は久方ぶりに剣を握っていた。
……私の名はアデル。ヴァレンティア家直属の騎士にして、レオナ様の右腕として仕えている者だ。
今、私の前には一人の少年――カイル様が立っている。穏やかな眼差しと整った容貌。だが、その内に何か強靭な芯を秘めているように感じられてならない。
「構えは、こう。両足を肩幅に開いて、重心を中心に置くこと。あとは……そう」
剣術の初歩を教えるつもりだった。型をなぞらせ、呼吸を整え、ゆっくりと体に馴染ませていく――それが常のはずだった。
だが。
「……これで、合ってますか?」
カイル様は、一度見せただけの動作を即座に模倣した。 それも、“正確に”、いや、“理想に近い形”で。
「……すごい。覚えが、早いですね」
「なんとなく、身体が勝手に動くような感じがして……」
冗談ではない。実際に、私が教えていた貴族子弟の中でも、ここまで瞬時に習得した者はいなかった。
その後も幾つかの技を教えてみたが、どれも数回の指導で完全に身に付ける。動きに無駄がない。柔軟性も、反応速度も、明らかに人並みではなかった。
私は次第に、指導から“稽古”に移行していた。
最後に軽く模擬戦を、と構えた時。
私は本気で驚かされた。
カイル様は、まだ一度も剣を握ったことがないはずの少年のはずなのに、私の突きを見切り、斬撃を躱し、足運びで距離を保った。
「す、すごい……」
思わず漏れたのは私の声ではない。回廊の陰から訓練を見ていた数人のメイドたちだった。
剣を下ろした私の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「……貴方には、何かがあるわ。これは間違いなく」
あの魔力量も然ることながら、この身体能力、反応、センス。まるで鍛え抜かれた戦士のそれだ。
レオナ様がなぜ、彼にあれほどの想いを寄せるのか。少しだけ理解できた気がした。
◆
「ねえねえ、聞いた? 今日の訓練で、カイル様がアデル様の剣を受け止めたって!」
「しかも、ほとんど初めてなのに、動きが流れるようだったって……」
午後、厨房に近い控えの間では、メイドたちがひそひそと語り合っていた。
「でも、それだけじゃないのよ。今朝、私が紅茶をこぼしそうになったとき……」
「手を取って支えてくれたんでしょ? 優しく“気をつけてください”って……」
「言い方が、なんていうか……柔らかくて、でも品があって……胸にくるのよね」
その場にいたメイド全員が、うんうんと頷く。
誰もが分かっていた。あの美貌も、希少な存在であることも、確かに特別だ。
けれど――それだけではない。
あの青年は、“優しさ”の質が違うのだ。
「この世界には、ああいう方もいらっしゃるのね……」
長く仕えてきた年配のメイドが、そっと呟いた。
「きっと、あの方は私たちの時代を変えてくれる」
それは、ただの憧れではない。 彼の存在に触れた者が自然とそう思ってしまう――そんな力が、彼にはあった。
◆
そして夕暮れ。
中庭の片隅、ベンチに腰掛けたカイルは、淡い光に包まれながら空を見上げていた。
(……僕が、ここでできることってなんだろう)
この優しい空気を守りたい。 今日、そう思えたことが、何よりの収穫だった。