第22話「広がる噂と見えざる影」
──まるで、英雄譚の始まりのようだった。
魔獣を魔法でねじ伏せたわけではない。
剣で討ち取ったわけでもない。
けれど、あの時――
あの少年が、純粋にひとりの少女を助けようとした瞬間、世界はその在り方を変えたのだ。
◆
その日を境に、ヴァレンティア公爵領には妙な空気が漂い始めた。
街の広場では、子どもたちが興奮気味に話していた。
「昨日のあれ、本当にカイル様だったの!? お花をくれたミナちゃんが言ってたよ!」
「うそでしょー! カイル様が魔獣を……バァァーンってしたんだよね!?」
「魔力で、ぱぁぁぁって光ったって!」
情報は完全に誇張されており、最終的には『金色の獅子を従えた神の子が魔獣を手で撫でて従えた』などという新興宗教の起源のような話にまで発展していた。
ヴァレンティア領内にて、カイルの“神格化”が静かに進行中である。
もちろん、公式の報告書には事件の詳細は一切記されていない。
カイルの存在が広く知られているとはいえ、その力や素性は、まだ明かしていい段階ではない。レオナはそう判断し、事実を伏せた。
報告書には『騎士団の迅速な対応により、魔獣は無事に討伐された』とだけある。
だが、噂の火は、一度つけばもう消せない。
◆
そんな中。
ヴァレンティア公爵邸の屋根の上。
夜風を受けて、黒いマントを翻す影が一つ。
「……今夜も、異常なし。」
それは、ユーリ=ラヴェル子爵だった。
……いや、正確には。
“カイルを陰から見守る影の護衛・ユーリ様(自称)”である。
「ふふ……今日は朝食にフルーツを多めに取っていた。これは、午前訓練に力を入れる前兆……!」
「昨日より2ミリほど、後ろ髪が伸びている……そろそろ切る頃かしら? ……」
──彼女の観察眼は、もはや護衛の範疇を超えていた。
だが、本人には一切の自覚がない。
あくまで『危険を察知するために常に目を光らせているだけ』だと思っているのだ。
「……あっ、今窓際に立った! 光が差し込んで神々しい……! ……心が……っ」
「いえっ、違う、これは警戒っ、警戒……っ。何者かが狙っていないか確認しているだけ……っ」
──もはや誰も止められない。
「……あれ? また窓から声が……」
カイルはふと、視線を窓辺に向けた。
誰もいない。
けれど、どこかで見られているような気がしてならない。
「……まさか、本当に闇属性のストーカー……」
ぼそりと呟いてから、彼は小さく笑った。
「……いや、そんな都合よくいるわけないか」
激レアな闇魔法をこんなストーキングに使う人なんていないだろうと。
「……冷や汗かな、軽くお風呂で汗を流そう」
──しかし背後には、今日も完璧な身のこなしで窓から飛び降りる影がある。
貴族にして騎士にして、そして、世界で一番優れた……ストーカーである。
「よしっ、次はお風呂の魔力反応を確認しに……」
こうして今日も、世界はほんの少しだけ騒がしく、けれど確かに動いている。




