第1話★「目覚めの檻」
息が……苦しい。
重たい何かが喉の奥につかえているような――いや、それ以上に、身体が鉛のように動かない。
意識の底から、じわじわと現実が戻ってくる。
香の匂い。柔らかな絹の感触。甘い空気。
どこかの宮殿かと錯覚するほどに、心地よい空間だった。
ゆっくりと瞼を開けると、目に飛び込んできたのは――
黄金の装飾が施された檻。
まるで高貴な客人を迎える応接間のような室内。床には赤絨毯が敷かれ、檻の外には給仕用のベルと、銀の水差しが置かれている。
――これ、“牢屋”なのか?
何かがおかしい。
「……ふふ。ようやくお目覚めね、“坊や”」
声がした。甘く、艶やかで、どこか濡れているような女の声。
振り返れば、檻の外に立っていたのは、赤いドレスをまとった女。
長く波打つ黒髪に、蠱惑的な瞳。豊満な胸元を隠そうともしないその姿は、まるで娼館の女主人のようだった。
「…………誰ですか」
自分の声が意外にもはっきり出たことに驚く。
女はひとつ、深く満ち足りたように吐息をついた。
「私はラミア。奴隷商よ。この闇市で、最も美しい宝石だけを扱う女……。そしてあなたは、これまでの人生で最も完璧な“逸品”だわ」
ラミアの瞳が蕩けるように細められた。
「……銀糸のような髪。金の瞳。均整の取れた肢体。まるで神が彫った芸術品。どれほどの貴族が、どれほどの大司祭が、あなたを見て膝を屈するか……想像するだけで、私……震えてしまうの」
彼女の口調には、あきらかに陶酔が混じっていた。
まるで“商品”に対する言葉とは思えない――いや、それ以上の執着すら滲んでいる。
「……奴隷、だと?」
「ええ。あなたは今夜、オークションに出されるの。違法だと? 当然よ。こんな男……王家の目に触れただけで没収ものだわ。でも、それでも手に入れたいという狂った女たちは……山ほどいるのよ」
言葉の端々から、異常な熱を感じる。
ラミアは“売るため”ではなく、“愛でるため”にこの檻を飾り、僕を囲っているのではないか――
そう錯覚するほどに。
自分はなぜこんなところにいるのか。
名前も思い出せない。年齢も、過去も、家族の顔すら浮かばない。
ただ、漠然と――“ここではないどこか”の記憶が、うっすらと脳裏に漂っている。
(……現代……日本……?)
そんな言葉が一瞬だけ浮かんで、すぐ霧の中へ消えていった。
だが、その混濁の中で一つ、強く思う。
(ここは……普通じゃない。何かが、根本的に違う)
そして、オークションの準備が始まる中、周囲の会話や視線から、徐々に気づいていく。
この世界では、男性という存在が異常に希少であり、神聖視されているという事実に。
女たちの態度。ラミアの言葉。檻の贅沢すぎる設備。
まるで壊れやすい宝石のように、僕は扱われている。
(僕は……“男”である、というだけで……こんなにも価値があるのか)
理解が進むにつれ、背筋が冷えた。
だが同時に、何かが自分の内側でゆっくりと目を覚ましつつある。
――誇り。拒絶。怒り。あるいは……微かな優越感。
この狂った世界において、僕は、
“異端”であり、女性の“希望”であり、“商品”なんだと思う。
でも、決して“無力な存在”ではないはず。
――そして、夜が訪れた。
僕は今、舞台の上に立たされている。いや、“飾られている”というべきか。
背には黒い天鵞絨の幕。
足元には薔薇の花弁が撒かれ、脚の位置すら指定されたポーズを取らされている。
両腕には鎖がつけられていたが、真紅の絹布で“装飾的に”隠されている。
視線の先、観客席。
そこには、異様な数の女たちがいた。
――貴族風の装束をまとった女たち。
――神官らしき金糸の衣を着た女たち。
――全身に武具をまとった女騎士。
――見目の整った侍女風の女性たちでさえ、目を潤ませている。
彼女たちの瞳は、狂気と畏敬と興奮が入り混じっていた。
「お集まりの皆様、ごきげんよう――」
壇上にラミアが現れ、朗々とした声で場を仕切り始めた。
「今宵お披露目いたしますのは、我が闇市の誇る“特級逸品”。その存在はまさに、神の気まぐれにして奇跡――」
ラミアは広げた両腕で、僕を指し示す。
「見よ、その姿。銀糸のごとき髪。陽光を封じた瞳。全身の骨格は完璧、そして――」
言葉を切り、ラミアはわざと観客を見渡した。
「その性別は――男。そう、真なる男。皆様が生涯に一度、出会えるかどうかの、最も貴き存在でございます」
ざわめきが起こる。
ある女は手を握りしめて涙ぐみ、ある女は胸元を押さえて顔を紅潮させた。
まるで神聖な像を拝むような視線が、僕に突き刺さってくる。
これが……この世界における、男という存在の意味か。
(……ここは狂ってる)
僕は思わず、心の中でそう呟いた。
この会場の空気は、崇拝と欲望が渦巻く熱気に満ちていた。
だがそのどれもが、僕の人格を見ようとはしていない。
「――では、入札を開始いたしましょう」
ラミアがそう宣言した瞬間だった。
「十金貨!」
「三十!」
「五十!」
「八十!」
「百!」
「百五十!」
「二百!」
「三百金貨!!」
叫びにも似た入札が続く。
会場の空気は戦場のように沸き立ち、女たちはただ僕という“存在”を奪い合うことに血をたぎらせていた。
だが、その混沌の中に――ただひとり、静かな者がいた。
上階の、半透明のカーテン越し。
貴族専用の観覧席。そこに立つ、ひときわ気品あるシルエット。
細身だが威圧感がある。年齢は……わからない。黒のドレス、隠された瞳、ただならぬ雰囲気。
やがて、その女がカーテンを自ら開いた。
――全員の視線が、そこに吸い寄せられる。
「……黙りなさい」
その一言が、場の空気を凍らせた。
まるで命令のように。否、絶対的な“格”が支配した瞬間だった。
「この男は――私が買い取る」