おいで
美月は大学を卒業後、大阪の小さなデザイン事務所に就職した。
隼人が東京の撮影スタジオに就職を決めた時には寂しさも感じたが、美月自身も自分の夢であるグラフィックデザイナーの道で頑張ろうと思った。いつか何らかの形で一緒に仕事ができたらいいねと話し、隼人の旅立ちを見送った。
美月が就職した事務所の従業員はわずか八人。女性所長が経営するアットホームな雰囲気に惹かれて応募したものの、しかし、入社後に直面した現実は、想像以上に厳しかった。
最初の一年、二年は仕事を覚えるのに必死だった。大学で学んだことは、実際の現場ではほとんど役に立たなかった。クライアントの要望は気まぐれで、そのたびにデザインを修正。ほぼ毎日終電間際の電車に乗り、疲れ切ってアパートへ帰った。
ミスをすれば、所長や先輩の叱責が飛んできた。
月の三分の一は納期に追われ、デザインで頭を悩ませるよりもスケジュールとデータの管理で頭がいっぱいだった。そもそも、その事務所では過去の作例を元に、クライアントの要望に合わせて焼き直す方法をとっており、少なくとも美月がデザインらしいデザインを手掛けることはなかった。
三年目になり、ようやく仕事に慣れてきた頃、後輩が入ってきた。今度は、教える立場になったのだ。自分の仕事で手一杯なのに、後輩の面倒まで見なければならない。質問に答え、ミスをフォローし、自分の時間を削って指導した。後輩は入社当時の美月と同じ不満や不安を抱えていた。その気持ちを無碍にする気にはなれず、美月は愚痴を丁寧に聞いた。
しかし、どんなに丁寧に教えても、後輩は同じミスを繰り返した。後輩が入稿前のデータを上書きしてしまった際には、それがいつの間にか美月の責任になっていた。
「藤原さん、どうしてこんなミスが起こるの?」
所長の刃物のような声が、小さなオフィスに響く。美月は、後輩のミスをかばいながら必死に弁解し、再発防止策を考えた。しかし、所長の怒りは収まらず、それ以降美月へのあたりが柔らかくなることはなかった。
隼人に仕事の話を聞いてほしかったのだが、彼は美月以上に過酷な環境にいた。送るメールはどうしても当たり障りのない近況報告になってしまう。
そして返ってくる返信も当たり障りのない気遣いの言葉だけだった。
そんな日々を送る中、数少ない休みで美月は実家のある六守谷町に帰省した。
豊かな自然に囲まれた町だった六守谷町もすっかり様変わりしていた。祖母が敬っていたマルツカの森だけでなく、町内にあった藪や木立は、ほとんど姿を消していた。
元は鬱蒼と木々が茂っていた、それこそ森と呼べる規模の茂みですら、木がまばらに生えるだけの小さな藪になっていた。大きな木が一本だけ残された場所もある。
それでもそれらの前に立つと、風の中に、空気の重さの中に美月は確かに何かの気配を感じることができた。
そして視線を地面に向けると、そこには今はない木々の影があるのだった。
ある日、美月はマルツカの森の跡地で地面に落ちた影に手を伸ばして触れてみた。そうして目を閉じると、祖母の声が蘇ってくるような気がした。
――美月は、この土地に縁が深いんや
縁が深いとはどういうことだろう?
これまで特に疑問には思わなかったが、祖母はいったいどういう意味でその言葉を口にしていたのか。
「そうだ、私は小さい頃からモリサマの言葉を聞いてたんだ」
夜ごと聞いた、家の裏手にあるマルツカのモリサマの声が蘇ってきた。
意味こそ理解できなかったが、木々のざわめきははっきりと美月に話しかけてきていたのだ。
――おいでおいでおいで
たしかに木々はそう言っていた。
なぜか今この時になって、幼い頃に聞いたモリサマの言葉が理解できた。
それ以来、事務所にいても、ふとした瞬間に湿った木の濃密な香りが鼻をかすめるようになった。
夜、アパートの窓の外へ目を向けると、影のようなものが揺れ動いているのを見るようになった。
「モリサマ……?」
またある日、美月は夢を見た。
森の中に立つ自分。見上げると、黒々とした木々が天を覆い、隙間から冷たい月光がこぼれている。
ざわざわと囁く声が聞こえた。低く、湿った響き。
── おいで
葉が一斉に舞い落ちる。美月の視界を覆う。
地面がぬかるんでおり、すねまでが土に沈んだ。
泥の中で両足首を掴まれる感触があった。
自分の悲鳴で目が覚めたとき、額には冷たい汗が滲んでいた。
首筋が強張るような恐怖を感じるとともに、なぜか下腹部に熱いうずきが生まれていた。
それから、美月は頻繁に六守谷町へ帰るようになった。
名目だけでスタッフの誰も使用できないでいた有給休暇はすぐに使い果たした。
マルツカの森だけでなく、六守谷にあった他の茂みの跡地についても、おぼろげな記憶を頼りに歩いてみた。しかし変わりすぎた風景のせいで、はっきりとした場所を特定することができなかった。
ある時、マルツカの森の跡地に立った美月は、いよいよ完成した新築住居が並ぶ様を前にして、言いようのない不安感がこみ上げてくるのを感じた。
完成した家に、これから人々が入居するのだということを自分が悲しんでいるのだと彼女は思った。
しかし、どうもそれだけではないような気がする。なぜか無人のはずの家の中に何者かの気配が強烈に感じられる。
いる、と美月は思った。目の前の新しい住宅の敷地に、確かに“何か”がいた。
不安感と誤解した感情は、どうやらその気配に主に対して自分が抱いている、激しいせつなさであるようだ。それは思春期の頃に感じたどう取り扱ってよいかが分からない性欲にも似た、ひっ迫した感覚だった。
── おいで 美月
── ここは おまえの いばしょ だ
また、声が聞こえた、気がした。