見学
突然、聞こえたその声は、場違いに軽やかで、隼人は弾かれるように振り向いた。
廊下の奥、玄関の方から、眩い光量のランタンライトを手にした一人の男が、スニーカーのソールの音を響かせて近づいてくる。
厚手のパーカーにジーンズ、斜め掛けのボディバッグというラフな格好。どこにでもいそうな、隼人よりは少し年上の若い男だ。
端正な顔立ちではあるが、糸のように細い目が常に笑っているような印象を与える。飄々とした表情で、まるで日常の延長でコンビニにでも立ち寄ったような気安さがあった。
「こんなとこ、入ってええもんちゃうで。ていうか、めっちゃ真っ暗やん? よう入ったなあ」
男は呑気に喋りながら隼人の横まで来ると、ちらりとリビングの奥へと目を向けた。
釣られて隼人も同じ方を見た。だが、そこにはさっきまで確かにいたはずの彼らの姿はなかった。
気がつけば、音も、気配も、炎の光も消えていた。部屋には闇が戻り、冷え切った空気だけが残されている。
「っ、あ……っ、あれは……さっきまで、男がいて、燃えて……頭が燃えてて……!」
言葉にならない声を吐きながら、隼人は後ずさった。だがその背中を、男がゆっくりと支えるように手で押さえた。
「大丈夫大丈夫。ちょっとびっくりしただけやろ? ここ、心霊動画でも話題になってたしなあ。こんな真っ暗やから想像膨らんでまうんも無理ないわ」
「ちが……っ、違うんです、いたんです……たくさんの人が……頭が……火が……!」
「まあまあ、とりあえず外出て深呼吸でもしよか。こんなじめじめしたとこで立ち話しててもしゃあないやろ」
まるで吠え立てる犬をあやすような口ぶりで、男はにっこりと笑って言った。
隼人の肩をぽん、と叩いてから、くるりと体の向きを変えさせる。
そのまま隼人は、グイグイとリビングから押し出された。
廊下に出ると、今度は男が先に立って玄関の方へ向かった。
「あ……あなたは、誰ですか」
男に続きながら、やっとの思いでそう尋ねると、男は振り返って指を立てた。
「自己紹介は出てからにしよか」
それだけ言うと、再び前を向いてすたすたと歩き出した。
隼人はもう一度だけ、ちらりと後ろを振り返った。
静まり返った廊下には、水たまりだけが残っていた。
入った時は廊下に水たまりなんてなかったはずだ、と引っかかりを覚えたが、たぶん見落としていただけなのだろうと思い直して、慌てて男の後を追った。
外へ出ると、隼人は男に言われるまま深呼吸をした。
深夜の空気は湿っていたが、家の中で感じた重苦しさは嘘のように消えていた。
「さて、自己紹介やったな。ボクは見学 学っちゅうモンです。
見学して学ぶって重言やんってよう言われるけど、一応地元の郷土史家みたいなことやってるから、ほんまに毎日見学して学んでるね。
お兄さんも、お名前教えてくれる?」
「那須、隼人といいます。あの、見学さんは何でこんな所に……」
「たまたまや。たまたま通りかかって、家ん中に懐中電灯の明かりが見えたから注意したろか思てん。ヤンキーがたまり場にでもしてるんちゃうか思てな。まさかひとりっきりで心霊スポット突撃してるとは思わなんだわ」
呆れたような、でもどこか楽しげな調子で見学は笑い、それから「行こか」と隼人を促した。
見学の車は、すぐ近くの路上に停められていた。年季の入った白の軽ワゴン車だ。
「どうぞ」と助手席のドアを開けてくれた見学に礼も言えず、隼人はただ力なく乗り込んだ。
車が走り出すと、少しずつ現実感が戻ってくる。
見学はラジオも音楽もつけず、無言で車を走らせた。
先ほどの飄々とした雰囲気とは打って変わって、何事かを考えている様子だ。
「あの、警察に行くんですか?」
隼人は恐る恐る訊いてみた。
その顔を見返した見学は、キョトンとした顔をした。
そして、大きな笑い声を上げた。
「まさか! 警察なんか行かへんよ。ボクの家でもないし。
実は今日、晩ごはん食べそびれてて腹ぺこやねん。
ナス君……いや、ハヤト君の方がいいか。ハヤト君も何か口に入れたほうが落ち着くやろし、どっか食べれるとこあったかなあって考えててん。
ゆうてもこの時間やとファミレスかラーメンぐらいしかないけどな。どっちがいい? 温かいもんもいいけど、やっぱりファミレスの方が落ち着けるか。そやな、ファミレスにしよ。ハヤト君、それでええ?」
「あ、はい」
そのまま車は国道沿いにある24時間営業のファミレスの駐車場に滑り込んだ。




