廃屋へ
隼人は、グレーの養生シートで覆われた家の前に立っていた。
動画の話を聞いて、いても立ってもいられなくなったのだ。
高梨と会った次の夜。スマホの時計は、23時17分を示していた。
この時間を選んだのは、人目につきにくいという理由もあったが、動画が撮影されたのが深夜だったからだ。
同じ条件の方が、何か見えるかもしれない──そう考えた。
怖いという思いは、もちろんあった。
それでも、行かなければならないと思った。
美月が人ならざるものになっていたとしても、それでも会う必要があると思った。会いたいと、思った。
高梨に便宜を図ってもらうことも考えたが、逸る気持ちがそれを許さなかった。
役所の手続きを想像すると、中に入る許可を得るには一日や二日では済まない気がした。
そもそも、この家の所有者は不動産会社だ。役所から働きかけても、許可が取れるかどうかもわからない。
LEDのライトは二つ用意していた。懐中電灯タイプとランタンタイプ。
懐中電灯はジャケットのポケットに突っ込み、ランタンはストラップで肩から提げている。
他の持ち物は、首にかけた愛用のデジタル一眼レフカメラくらいだ。
幽霊相手に武器を持っていても意味はないように思えた。むしろ、自分にとっての武器はこのカメラだ。
侵入は容易だった。養生シートで覆われていても、扉や窓には施錠されていなかった。
シートは足場に張られているが、ちょうど家屋の玄関にあたる位置のものは鉄骨に固定されておらず、めくれば中に入れるようになっていた。
しかし「防音」と印刷されたシートは、思っていた以上に厚く重かった。
隼人は両手でそれをまくり、体を滑り込ませるようにして内部へ入った。
養生シートに覆われた廃屋の中は、完全な闇だった。自分の手すら見えない。
ランタンタイプのLED照明のスイッチを入れると、一瞬で辺りが明るく照らし出された。
シートに包まれているため、外にはほとんど光が漏れないはずだが、念のため隼人は光量を絞った。
それでも十分に明るく、廊下の奥にあるリビングの方までしっかり見通せる。
――あの部屋か。
高梨から聞いた話を思い出す。
YouTuberが幽霊と遭遇したのは、あの部屋だった。
だが、本当に美月がいるのなら、何も怖れる必要はない。
たとえ美月が人に害なす存在になっていたとしても、自分はそれを受け入れる覚悟を決めてきた。
けれど、そんな覚悟など、恐怖の前ではいとも簡単に吹き飛ばされる。
歯を食いしばっても、それを抑えることはできなかった。
足を踏み出すどころか、今すぐ背後の養生シートをめくって逃げ出したい。
背中に、冷たくも熱い汗が流れる。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
もしここで引き返せば、もう二度とこの場所には来られない。それがわかっていた。
「……美月」
自分に言い聞かせるように、名前を口にする。
声を出したつもりだったが、喉の奥でかすれて潰れてしまう。
「美月」
もう一度、今度ははっきりと声に出した。
その声が、彼の背中を押した。
一歩、また一歩。
ランタンの明かりに照らされて、炭化した床板の廊下が続く。
途中にある二階へ上がる階段は、すでに形を留めていなかった。
壁のクロスはすべて焼け落ち、ところどころ黒焦げたコンクリートが覗いている。
雨水でも入り込んでいるのか、床は濡れており、歩くたびに靴底がぬちゃ、と音を立てた。
リビングの入り口に差しかかったとき、空気が変わった。
中から吹き出してくる熱を帯びた空気が、生き物の吐息のように顔をなでる。
灯りの届く範囲の奥に、黒く沈んだ水たまりがあった。
ランタンの明かりを反射する水面は、まるでそこに鏡が落ちているかのように錯覚させる。
床が焦げているせいか、懐中電灯を向けても、水たまりは底が見えず、ただただ黒い。
……しかし、それだけだった。
美月の姿はない。
高梨が見たという火球も、動画に映っていたという男も、何も姿を現さない。
隼人はカメラのスイッチを入れた。
顔の前に持ち上げ、ファインダーではなく、液晶画面を確認しながら水たまりを捉える。
ズームレンズをゆっくりと回し、焦点距離を一番小さくして画角を広くとった。
水たまりからレンズを上げ、ゆっくりと左右に振って室内の様子を観察する。
液晶画面が、一瞬だけざらついた。
ノイズ──これまでこのカメラで見たことのない現象だ。
まるで、何かを映すために、カメラ自身が撮影モードを切り替えたかのような違和感。
そして液晶画面には、ここにあるはずのない「森」が映っていた。




